じじぃの「人の死にざま_433_孫文」

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永遠的國父孫中山 動画 YouTube
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南京、孫文孫中山)のお墓 動画 YouTube
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辛亥革命100年 「第1回 孫文 革命を支えた日本人」 (追加) 2011年11月21日 NHK BSプレミアム
【語り】森田美由紀 【朗読】榎木孝明
辛亥革命から100年。孫文と日本の関わりが注目されている。孫文は9年間、日本に滞在。宮崎滔天梅屋庄吉ら多くの民間人と交流し、その支援も得て革命を成功させた。孫文には海軍の秋山真之、陸軍参謀本部の宇都宮太郎など日本軍の要人も注目し、連携を模索していたことが近年の研究で明らかになってきた。だが、日本政府は北方の軍閥政権を支持し、秋山の構想は挫折していく。孫文を支えた日本人の知られざるドラマに迫る。
http://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20111121-10-26593&pf=f
孫文 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
孫文は、中国の清末〜民初期の政治家・革命家。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」と呼ばれる。 号は中山、字は逸仙。
中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼ばれる。海峡両岸で尊敬される数少ない人物である。
中国では孫文よりも孫中山(スン・ヂョンシャン)の名称が一般的であり、尊敬の念をこめて「孫中山先生」と呼ばれている。中華人民共和国を代表する大学のひとつである中山大学および中華民国の国立中山大学は孫中山からの命名である。
【生涯】
清国広東省香山県翠亨村(現中山市)の客家の農家に生まれる。アメリカ新領のハワイにいた兄の孫眉を頼り、ホノルル市のプナホウ・スクールに学び西洋思想に目覚めるが、兄や母が西洋思想に傾倒する孫文を心配し、中国に戻された。帰国後、香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学びつつ革命思想を抱くようになり、ポルトガルの植民地のマカオで医師として開業した。
1911年10月10日、共進会と同学会の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した時、孫文アメリカにいた。独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって彼の到着に熱狂し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。しかし、孫文は革命政府を維持するため、宣統帝の退位と引き換えに清朝の実力者・袁世凱に総統の座を譲る。袁世凱による独裁が始まると、反袁を唱えて活動するが、袁の軍事力の前に敗れて日本へ亡命した。日本亡命時には「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」との言葉を犬養毅へ送っている。
この頃に同じ客家でもある宋嘉樹の次女の宋慶齢と結婚した。結婚年については諸説あるが、孫文が日本亡命中の1913年〜1916年とされ、この結婚を整えたのは資金面で支援をしていた日本人の梅屋庄吉であった。
1925年、有名な「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命未だならず)」との一節を遺言に記して(実際には汪兆銘が起草した文案を孫文が了承したもの)北京に客死し、南京に葬られた。その巨大な墓は中山陵と呼ばれる。また、死の前年の神戸での「大アジア主義講演」は、欧米の侵略主義にたいし東洋の王道平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。
【日本における評価】
孫文には中国の革命運動における具体的な実績はそれほどなく、中国国内よりも外国での活動のほうが長い。彼の名声は何らかの具体的な成果によるものと言うより、中国革命のシンボルとしての要素によるものであると言える。孫文の活動した時代を扱った中国史の研究書の中でも、ほとんど言及がないものも少なくないが、これは史料の中に孫文の名前がそれほど登場しないというごく単純な理由にある。実証的な研究の進展に伴い、孫文の研究は中国近代史全体を理解するためのものというよりも、「孫文研究」という一つの専門領域となっている傾向があると言えるだろう。

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文藝春秋 8月号
的中した予言50 孫文 【執筆者】福島香織(ジャーナリスト) (一部抜粋しています)
「日本が西洋覇道の鷹犬(ようけん)となるか、東洋王道の干城(かんじょう)となるか」
1924年11月28日、孫文がこの世を去る4ヵ月前、最後の訪日の途にあった。そのおりに神戸高等女学校講堂で神戸商業会議所など5団体に対しておこなった「大アジア主義」講演原稿の、あまりに有名な締めくくりの部分だ。実際の講演では語られなかったそうだが、「国父全集」には収録されている。
講演では、「日露戦争での日本勝利はアジア民族の独立という大きな希望を生んだ」などと賛美したあと、武力によってねじ伏せる「西洋の覇道」に対して仁義道徳で感化させるのが「東洋の王道」だと説明し、日本の目指すべきは東洋の王道を基礎においた大アジア主義である、と主張した。そして「日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取り入れると共に、多面アジアの王道文化をも持っているのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬(走狗)となるか、東洋王道の干城(防人)となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります」と訴えた。
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孫文は同じ講演でこうもいった。
「我々が工業を振興し武器を改良し欧州に学ぶというのは、けっして欧州に学んで他の国家を滅ぼしたり他の民族を圧迫したりすることではありません。我々は学んで自衛しようというのであります」
真の「王道」を行くための、自らを守る軍事力について今こそ、日本国民は孫文の言葉を思い出し、一層の詳密な考慮と慎重な採択が求められる。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
孫文 (1866-1925) 59歳で死亡。 (一部抜粋しています)
広東省中山県に生まれ、若い時から清朝打倒を志し、ついで国内の軍閥と外国の帝国主義と悪戦苦闘をつづかてきた孫文は、1924年大正13年)11月25日、神戸に来た。彼は革命運動の志士として何度も日本にきたが、これが最後の来日であった。
医者である彼も知らなかったが彼はすでに肝臓ガンに犯されていた、ホテルではほとんど野菜スープしか食べなかったという。
孫文は、11月28日、神戸高等女学校の講堂で、「大アジア主義」と題する講演を行い。超満員の聴衆にさけんだ。
「あなた方日本国民が、ヨーロッパの武力文化の犬となるか、アジアの正義文化の牙城となるか。それはあなた方日本国民が慎重に考えて選ぶべきところである」
孫文はいくたびも日本に裏切られつつ、みずから中山樵(きこり)と名乗ったほど日本に愛情を持ち、最後まで心のどこかで日本への信頼を失わなかった。しかし、以後の日本は完全に彼の期待に反した。
神戸を出港した孫文は大しけの玄界灘を渡って、12月4日天津(てんしん)に到着した。2万人の歓迎陣にこたえて寒風の中を立ちつづけた孫文は風邪をひき、肝臓の痛みが烈しくなった。
12月31日、10万人の歓迎を受けて北京にはいった彼は、目的は国民党会議に出席するためであったが、ただちにロックフェラー病院に入院のやむなきに至り、開腹手術を受けた結果、肝臓ガンと診断された。
翌1925年3月11日、彼は国民党へ、「革命はまだ成功していない。同志諸君、奮闘努力せよ」という遺言にサインし、意識を失った。うわごとの中に、「平和を!」「奮闘せよ!」「中国を救え!」という言葉がいくどか繰返された。そして12日午後8時過ぎに息をひきとった。
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のち、南京に国民政府をたてた蒋介石は、自分を孫文の正統な後継者だと権威づけるため、1929年6月、遺骸を南京郊外の紫金山に移し、中山陵と呼ぶ壮大な墓所を作った。

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孫文の言葉
「我が心が、これは行いうると信ずれば、山を移し海を埋めるような難事でも、ついには成功の日を迎える。わが心が、これは行いえぬと信ずれば、掌をかえし枝を折るような容易なことでも、成功の時は来ない。心の作用はかくも大きいのである。心とは万事の本源である」

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孫文 Google 検索
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