じじぃの「人の死にざま_411_菊池・寛」

菊池寛 - あのひと検索 SPYSEE
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芥川賞・赤染さん、直木賞・中島さん受賞会見 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ZKCfbn37fz0
菊池寛記念館:高松市
http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/646.html
菊池寛 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
菊池寛は、小説家、劇作家、ジャーナリスト。文藝春秋社を創設した実業家でもある。本名は菊池寛(きくちひろし)。
【来歴】
香川県香川郡高松の生まれ。
京大卒業後、時事新報社会部記者を経て、小説家となる。私費で雑誌『文藝春秋』を創刊したところ大成功を収め、富豪となった。日本文藝家協会を設立。芥川賞直木賞の設立者でもある。
大映初代社長を務める。これらの成功で得た資産などで、川端康成横光利一小林秀雄等新進の文学者に金銭的な援助をおこなった。テレビドラマ『真珠夫人』は、彼の作品が原作であり、長らく絶版となっていたが、2002年のテレビドラマ化に伴い復刊された。 1925年文化学院文学部長就任。 1928年、第16回衆議院議員総選挙に、東京1区から社会民衆党公認で立候補したが、落選した。
麻雀や競馬に熱中していたことでも知られ、日本麻雀聯盟初代総裁を務めたり、馬主として競走馬を所有したりしていた。
また将棋にも関心があり、「人生は一局の将棋なり 指し直す能わず」というフレーズを作ったといわれる。競馬では『日本競馬読本』は競馬入門本として現在でも評価が高い。また、戦前は多くの有力馬を所有しており、能力検定競走として軍人や関係者約200名のみが観戦した1944年の東京優駿も、所有馬トキノチカヒを出走させていた事から観戦している。
太平洋戦争中、文芸銃後運動を発案し、翼賛運動の一翼を担ったために、戦後は公職追放の憂き目にあい失意のうちに没した。
父帰る あらすじ】
明治40年頃のことである。かつて家族を顧みずに家出した父が、20年ぶりに落ちぶれ果てた姿で戻って来た。
母と次男と娘はこれを温かく迎えたが、貧困と闘いつつ一家を支え、弟妹を中学まで出した長男・賢一郎は、決して父を許さなかった。父は家を去る。しかし哀願する母の叫びに賢一郎は翻意、弟を連れて狂ったように父を追う。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
3月6日−菊池寛 (作家)
芥川龍之介久米正雄らと共に生きた文学青年。私は貧しいながらも心豊かに生きられた彼らの時代を羨ましく思うことがある。
菊池は小説家志向をかたくなまでに抱き続けた男だった。京都帝大を卒業した後、時事新報社の記者になったがそんな忙しい中でも時間を作ってはせっせ、せっせと原稿用紙に向かっていた。
菊池の出世作となる戯曲『父帰る』が旧態依然とした芝居の世界に風穴をあけた。ロマンチシズム一辺倒だったところへリアリズムの演劇が大衆によって認知されたのだ。
菊池は周知のように文藝春秋社を創立した企業人でもある。芥川賞は彼の意志から生まれたものであるらしい。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
菊池寛(きくちかん) (1888-1948) 59歳で死亡。 (一部抜粋しています)
菊池寛は、昭和23年3月はじめから胃腸を害し、数日の間絶食して面会を断っていたが、平癒したので、3月6日、主治医や近親の者と全快祝いの小宴を催した。自分もダンスのステップを踏み、好物の鮨(すし)など食べて、9時ごろ2階の1室に上ったとたん、狭心症を起こして倒れ、10分後に急死した。
同席した社員の池島信平は書く。
「わたくしは茶の間に行き、そこでお鮨をつまんで一杯やっていると、2階で、ただならぬ音がした。急いで先生の寝室へ駆けつけると、寝台の脇に菊池さんは、うずくまるようにして、奥様の肩へ両手をかけ、もう死んでいた。心臓の発作が起きてから、10分ぐらいだったと思う。家族の人々の手を借りて、わたくしは重い先生の遺骸をかたわらの寝台に横たえたが、まだからだ中あたたかく、先生はちょっと一眠りしているといったような姿だった」
いつ書いたものか、遺書があとで発見された。
「私はさせる才分無くして文名を成し、一生を大過なく暮らしました。多幸だったと思います。
 死亡に際し、知友及び多年の読者各位に熱く御礼申します。ただ皇国の盛昌を祈るのみ。吉日吉日」
永井竜男はいう。
「戦後、菊池さんは文藝春秋社長として戦争協力したということで、米国軍政下にパージ(公職追放)にひっかかって、戦犯ということになりました。菊池さんは家にひきこもるような生活に入ったのですが、これは菊池さんとしては、実に無念だったに相違ない。自分は日本の最も正しい自由主義者の1人であると確信しておりましたので、このパージは、菊池さんの心身に強くこたえたらしい。(中略)狭心症を起こさせたのはパージであったと、私は思っております。パージが菊池さんに非常な打撃を与えたと思っております」
ともあれ彼の人生は多幸であったかも知れない。しかし死後、この「文壇の大御所」の作品は不当なまでに不遇である。
彼自身いう。
「自分は思う。後世というものは、我々が思うほど親切ではあるまいかと。否(いな)可なり不親切な冷淡なものではあるまいかと」

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菊池寛 Google 検索
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