じじぃの「人の死にざま_395_松永・安左エ門」

松永安左エ門 - あのひと検索 SPYSEE
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「鬼と呼ばれた男 〜松永安左エ門〜」 5分で見どころ紹介 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7OQGiqND0HA
歴代の経営者たちの軌跡を探る 明治・大正・昭和の ベンチャーたち
http://j-net21.smrj.go.jp/establish/column/20050111.html
鬼と呼ばれた男 〜松永安左ェ門 2015年9月19日 NHK
【主演】吉田鋼太郎
戦後日本の高度経済成長の礎となる、電気事業の分割民営化を成し遂げ「電力の鬼」と呼ばれた男、松永安左ェ門。
福沢諭吉の門下として“独立自尊”と“民”の精神を受け継いだ松永は、焦土と化した日本にあってその未来を見つめ、復興と成長を目指し、命を賭して逆境に身を投じる決意をする。
http://www.nhk.or.jp/dsp/keisei/yasuzaemon/
松永安左エ門 ウィキペディアWikipedia) より
松永安左エ門は、「電力王」「電力の鬼」と言われた日本の財界人。美術コレクター、茶人としても知られ、耳庵(じあん)の号を持つ近代小田原三茶人の一人。氏名は「松永安左ヱ門」と表記されることもある。
【生涯】
1875年(明治8年)、長崎県壱岐で生まれた。幼名は亀之助。壱岐中学時代、福澤諭吉の『学問のすすめ』に感激し、1889年(明治22年)に東京へ出て慶應義塾に入学。在学中に福澤桃介と知り合う。1893年明治26年)、父(二代目松永安左エ門)の死で帰郷、家督を継ぐとともに三代目松永安左エ門を襲名。
1927年(昭和2年)、東京電燈と東京電力は合併し、東京電燈株の交付を受けた大株主という立場の松永は同社の取締役に就任した。その影響力はもとより、この頃「電力統制私見」を発表し、民間主導の電力会社再編を主張したことなどもあって、「電力王」といわれた。
戦争に訴えなくとも、日本が生きていけるということに成算があり、国家による管理に反対した松永は、その道筋を説き続けた。官僚嫌いでもあった松永は、講演会の席上で軍閥に追随する官僚達を「人間のクズ」と発言した(1937年)。これらの言動は「天皇の勅命をいただいているものへの最大な侮辱」と大問題になり、新聞に謝罪広告を掲載する事態に追い込まれる。当時の企画院総裁だった鈴木貞一から「あなたは重大なリストに載っているから、手を引かないと危ない」という忠告も受けた。
第二次世界大戦後、所沢から小田原に移り、所蔵していた美術品と柳瀬荘を東京国立博物館に寄贈した。占領政策上、日本発送電会社の民営化が課題になると、電気事業再編成審議会会長に選出された。日本発送電側は独占体制を守ろうと画策したが、反対の声を押し切り9電力会社への事業再編(1951年)を実現した。さらに電力事業の今後の発展を予測して電気料金の値上げを実施したため、消費者からも多くの非難を浴びた。こうした強引さから「電力の鬼」と呼ばれるようになった。
1951年(昭和26年)、電力技術の研究開発を効率的かつ外圧に影響されることなく実施するため、9電力会社の合同出資でありながら、完全中立を堅持する公益法人として、民間初のシンクタンク電力中央研究所を設立し、晩年は自ら理事長に就任した。産業計画会議を主宰し、東名高速道路名神高速道路の計画や、国会でも物議を醸した日本最大の多目的ダムである沼田ダム計画を発表した。
また、欧米視察の際に知遇を得たアーノルド・J・トインビーの『歴史の研究』の翻訳・刊行に尽力した。
【栄典】
松永は、戦後、生存者叙勲制度が復活した際の、最初の勲一等瑞宝章叙勲者である。その際、池田勇人内閣総理大臣が、松永を候補者に挙げ、誰からも異論はなかった。しかし、料亭で池田から打診された松永は「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」と激高し、帰ってしまった。池田から松永の説得を要請された永野重雄は、受けないと生存者叙勲制度の発足が遅れて、勲章をもらいたい人たちに、迷惑がかかる。あなたは死ねばいやでも勲章を贈られる。ならば生きているうちに貰った方が人助けにもなる、と述べ、松永は不本意ながら受けることにした。それでも松永は、抗議の意志を示すため、叙勲式典を欠席した。その後、栄典の類は反吐が出るほど嫌いだとして、死後を含め全ての栄典を辞退すると公言する。このため、松永の訃報を受けた佐藤栄作内閣が政府叙勲を即日決定したものの、遺族は松永の遺志を尊重して辞退した。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
松永安左衛門(まつながやすざえもん) (1875-1971) 96歳で死亡。 (一部抜粋しています)
若き日、人生は大学卒の免状で勝負するものではない、として、福沢諭吉がまだ在世中の慶応義塾を飛び出し、波乱万丈、幾変転の実業生活ののち、次第に電力業界の大立者となる一方、「耳庵(じあん)」と称する大茶人ともなった松永安左衛門は、戦後、老躯をひっさげて、日本の電力再興のために、九電力分割体制、電力料金値上げの政策を、天下を敵として強引に押し通し、「電力の鬼」と呼ばれた。
昭和40年、なお電源開発のために疾走する90歳の松永の風貌を、大宅壮一は次のように描写する。
「まず眼につくのは、そのりっぱな耳である。長く、そして広い。それが真横に張り出しているから、いっそう大きく見える。瞼にかぶさる白く長い眉毛、笑うと深いシワの中に細く隠れてしまう眼、髪ももちろんまっ白、が、短く刈りあげたそのラインは意外に若い。イヤホーンのコードを指先にまきつけてはほぐす。年を経た大木を思わせるような手である」
彼はこの年の正月、1句を作った。「初夢や若き娘に抱きつけり」
そして大宅に。女性との最後は77、8であったと告白し、こんなことをいった。
このごろ、よく若いとこの夢を見ますね。夢の中じゃ、完全なことができます。若い時だと、そういうときは夢精が起るでしょう。もう、それはありませんがね。しかし、実弾を撃った感じはする。……こんなことをいうと怒られるけれど、私は女は性器だという観念が非常に強いですね。女性を見ているうちの、この人のはどんなだろうな、という考えがずっと発展してゆく。……」
そして、「ふり返って見て、90年というと長いですか、短いですか」という大宅の問いに、
「長いですねえ。もうこれ以上生きたって馬鹿らしいという気がせんでもない」
と、答える。
しかし彼はなお電力業界の大ボスとして東奔西走の活動をやめなかった。また、ただの実業人でない証拠に、自分が傾倒するトインビーの『歴史の研究』の邦訳24巻を世に送り出した。
43年2月1日、93歳の松永安左衛門は、小田原の邸内を散歩中、立小便しているところを愛犬に飛びかかられ、ころんだはずみに左大腿骨を接骨して入院したが、病院で銅線吊引(ちょういん)の治療中、いちど大声で「痛い!」とさけんだだけで、あとは弱音をあげず、その後は汗をながしながし松葉杖による歩行訓練で回復した。しかし、「このことがなければ、まだ3年寿命がのびたはず」と側近者はいう。
昭和46年4月15日、夜半急に苦痛を訴え、未明に慶応病院に入院した。
入院後も、自分の関係する仕事の方向をきいたり決裁をしたりしていたが、6月15日未明から呼吸に異常を呈し、16日午前4時26分、灯の消えるようにこの世を去った。病名はアスペルギルス病といい、コウジカビの一種の菌が、皮膚、耳、眼、鼻、肺などに炎症性、肉芽腫性の病巣を作るという奇病であった。
人間も身体にカビがはえるほど生きればいうことはない。
彼は、昭和33年逢い歳が死亡したときも葬式を出さなかったが、自分の死に際しても、無葬式、無戒名、無叙勲の遺言を残し、その通りにはかられた。

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