じじぃの「人の死にざま_384_吉川・英」

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吉川英治記念館 動画 YouTube
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吉川英治 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
吉川英治は、日本の小説家。本名、英次(ひでつぐ)。神奈川県生まれ。
様々な職についたのち作家活動に入り、『鳴門秘帖』などで人気作家となる。1935年(昭和10年)より連載が始まった『宮本武蔵』は広範囲な読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を執筆。幅広い読者層を獲得し、「国民文学作家」といわれる。
宮本武蔵』の誕生
こうして巨額な印税が入ったが、貧しいときから寄り添っていた妻やすは、この急激な変化についていけず、次第にヒステリーになっていく。これを危惧し、印税を新居に投じ、さらに養女をもらい家庭の安定を図った。こののち、『万花地獄』『花ぐるま』といった伝奇性あふれる小説や、『檜山兄弟』『松のや露八』などの維新ものを書く。しかし妻のヒステリーに耐えかね、1930年(昭和5年)の春に半年ほど家出し、この間『かんかん虫は唄ふ』などが生まれた。このころから服部之総と交友を結ぶ。1933年(昭和8年)、全集の好評を受け、大衆文学の研究誌・衆文を創刊、1年続き純文学に対抗する。松本学の唱える文芸懇談会の設立にも関わり、また青年運動を開始し、白鳥省吾・倉田百三らと東北の農村を回り講演を開いた。1935年(昭和10年)『親鸞』を発表。同年の8月23日から「宮本武蔵」の連載を始め、これが新聞小説史上かつてない人気を得、4年後の1939年(昭和14年)7月21日まで続いた。剣禅一如を目指す求道者宮本武蔵を描いたこの作品は、太平洋戦争下の人心に呼応し、大衆小説の代表作となる。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
9月7日−吉川英治 (作家)
宮本武蔵』、『三国志』、『新平家物語』など歴史小説を綴り、国民的文学とまで評された吉川英治だが、この人は常に大衆のために筆を振るってきた作家だった。
「我以外人は皆師なり」という有名な言葉の中にも吉川のポリシーが脈打たれているように思う。
吉川自身、印刷工、行商、雑貨商、土木作業員、港湾労働者と社会の底辺を支えるような仕事に就き、貧乏を舐めた。いわゆる汗の尊さを知る男だったから大衆の心を知っていたのだろう。
大衆のために勇気と希望を持てるような小説を書いていきたいと願った吉川だが、出世作となった『宮本武蔵』の本を心の支えに戦地へ飛んだ若者がたくさんいたということを伝え聞いた時には蒼ざめたといわれる。
けれども戦死した若者たちにとって吉川が書いた武蔵がどれだけ励ましてくれたか知れやしない。これぞ作家冥利というものだろう。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
吉川英治 (1892-1962) 70歳で死亡。 (一部抜粋しています)
吉川英治は、昭和36年春ごろから健康がすぐれなかった。彼自身が書いた年譜に、3月「このころより机忙(きぼう)おりおりに疲労を覚ゆ」 4月「(京都より)帰京後下痢、疲労甚し」 5月「疲労深し」 6月「(ゴルフ)アウト8番にて気分すぐれず落伍する」などの文字が見える。
しかし彼は、33年1月以来、「毎日新聞」に『私本太平記』を連載中で、7月になって軽井沢の別荘に出かけた後も、その執筆をつづかなければならなかった。
8月中、「夜々烈しい咳痰に悩まされて睡眠も浅く、異常ただならぬ容体をひそかに思う」「このころより咳痰に血線を見る」(自筆年譜)
9月、軽井沢でゴルフ中、吉川が力のない咳をしているのを見た川口松太郎夫妻は、その前夜テレビで千葉医大の中山恒明教授の肺がん手術とその解説を見たこともあって、吉川のようすに思い当たることがあって、面(おもて)を犯して然るべき病院の本格的な診断を受けることを忠告した。
しかし、吉川は現行の義務に従う。
「9月『私本太平記』の完結、あといくばくもなし。1日1回の稿も、ようやく心身を削るの思いをなす。厠に立ちては中2階の階段をはうて机に戻るの有様に至る。血痰も日毎に濃く、疲労はなはだし。食欲、体重すべて減る」
「軽井沢診療所より日々往診を乞うて当座の注射などを受けつつ稿をつづけ、からくも月末27日、最後の一稿を毎日の村松学芸部長に手渡して、何かと連載4年間の社の好意を謝す」
その夜、待ちかねたように慶応病院の笹本浩助教授が東京から来診し、一刻の猶予もなく入院手術すべきことを伝えた。
しかし、彼にはまだ雑誌「日本」に連載中の『新・水滸伝』を書く仕事が残っていた。彼はなお数日の猶予を乞うてその原稿を書きあげた。吉川英治は自分の仕事に最後まで渾身の力をふりしぼったのである。
原稿は23枚でとまり、その末尾に「余儀なく今月は短章に終わる。読者諸子の寛恕(かんじょ)を乞う」とあるのが、読者を大切にする大作家吉川英治の読者に対する最後の文章であった。
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彼が慶応病院に入院したのは、10月2日のことであった。
「3日後、連日、手術に備うるための肺、心臓、その他種々のテストを受ける。『日々地獄めぐりのようだ』と笑う。手術は6日と決まる。執刀は石川七郎博士にて、石川氏より発症説明を直接聞く。5日夕、長男英明、大阪より呼び返されて枕頭に顔を見せる。同日深夜は妻とただふたりきりの病室にて、生涯の思いと昨今の感慨とを語り合うて更(ふ)ける。妻、この夜初めて、余の発症のまことは『肺がん』なることを打ち明ける。あらましは自分にも察しられていたせいか、かえってすがすがしく思う」
それは彼があまりに仕事のことを気にして、病室を逃げ出すことまで口にするので、夫人がついに思い切って真実を知られたのであった。
「6日、午前9時15分手術を受け、12時45分終了。もちろん全身麻酔を受けてのこと。何も知らず。13日抜糸。この日『私本太平記』の連載、紙上にて完結を告ぐ」
手術後の経過は、一応良好に見え、12月31日、「試験的」に赤坂の自邸に帰り、そのまま帰りきりになった。
翌37年2月11日のパレスホテルにおける娘の曙美の結婚式には、みずから出席して来賓に挨拶したほどであった。
しかし、ガンは再発した。石川博士のレポート。
「7月10日朝、吉川夫人から青天霹靂(へきれき)の電話を頂いた。吉川氏が急に意識不明になられたというのである。急いでかけつけて診ると、意識はやや恢復していたが応答が明らかでなく(失語症)記憶喪失があるようであった。神経学的には特別の異常はないが、血圧が200〜120mmHgもあった。症状は高血圧性の脳障害か、ガンの脳転移が考えられた。
すぐに近所の山王病院に入院して頂き、長谷和三院長の診療をえた。笹本助教授も往来して、高血圧に対する治療が行われた。そのころ、私は、初めて、吉川氏の左鎖骨上窩(じょうか)に、かすかではあるが硬い膨隆を認めた。やはりリンパ節転移があったのである」
以後吉川は植物人間のようになったが、いちど夫人の激励に応えて、紙と鉛筆を求め、たどたどしく、
「ヨ ク ナ ル」
と書いたことがあった。
「しかし、(8月)22日午前11時、3度目の発作が来てしまいました」と妻の文子は書く。「ほんのわずかな間でございましたが、その瞬間、何かおそろしいものにでも取りつかれたとうに、大きく目を見開きました主人の表情を、私は忘れることが出来ません」
石川博士のレポート。
「9月9日午前2時、輸血が進むにつれて血圧110 脈搏124 呼吸46 という状態に安定した。
この頃、報道関係の方々と第1回の会見をして病状を伝えた。御臨終は時間の問題であろうが、現在は持ち直して落ち着かれたとのべた。この時から午前5時頃までは、全く同じ状態が続いたが、その後、徐々に、灯の消えてゆくような感じが、吉川さんの脈をはかり続けている私の肌に伝わって来た。脈搏数が110、100と下がり、呼吸数が35に減った。
しかし、これは好転の微(きざし)ではなく、全身が疲れ、心臓が弱った証拠にほかならなかった。私と米山博士とは、もう医師として、何もすることのできない自分達を哀しみながら、ただ脈をみ続け、酸素テントのビニール膜を通して吉川さんの顔色をうかがっていた。
吉川なんは、そのとき、房々した黒い髪を少し乱し、顔を右側に向け、眼をとじて、あえぐような呼吸をしていた。咽喉部には、気管切開孔があり、その金具が呼吸とともに動いた。痩せが目立ちはじめていたが、皮膚はきれいで、浮腫や出血はどこにも見られなかった。何者かが、この人の生命を、ある一点でおさえて、とどめを刺している。自分達はそれに対して、対抗するすべがなく、ただ吉川さんの死を待っている、という感じであった。
9月7日午前9時9分、吉川さんは、あえぐように、大きい呼吸を4つ5つしてから、永久にその呼吸を止められた。同時に心臓は、永い酷使から解放されたかのように、その動きを止めた」
吉川が文字通りかくも「死力」をしぼった『私本太平記』はいかんながら吉川作品中決してAクラスのものではないが、しかしその死に方はまさしくAクラスというべきものであったといえる。

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