じじぃの「人の死にざま_373_L・アームストロング」

ルイ・アームストロング - あのひと検索 SPYSEE
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Louis Armstrong 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=0Y6EMMhDCGo
LOUIS ARMSTRONG So long dearie 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=uMhfx-uM9xM&feature=related
What a wonderful world - LOUIS ARMSTRONG. 動画 YouTube
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ルイ・アームストロング ウィキペディアWikipedia)より
ルイ・アームストロングLouis Armstrong, 1901年8月4日-1971年7月6日)は、アフリカ系アメリカ人のジャズミュージシャンである。
サッチモ(Satchmo)という愛称でも知られ、20世紀を代表するジャズ・ミュージシャンの一人である。
サッチモという愛称は「satchel mouth」(がま口のような口)というのをイギリス人記者が聞き違えたとする説や、「Such a mouth!」(なんて口だ!)から来たとする説などがある。その他、ポップス(Pops)、ディッパー・マウス(Dipper Mouth)という愛称もある。
【評価】
アームストロングは明朗な性格と高い音楽的技術をあわせ持つカリスマ的かつ独創的な演奏者であり、洗練されていない地方的なダンスミュージックをポピュラーな音楽形態であるジャズへ発展させた。トランペット奏者、歌手としても有名。ジャズ界でも稀であるほどの天才トランペット奏者と言われ、ウィントン・マルサリスは「色々なトランペット奏者の良い所を盗もうとしたけど、アームストロングだけは盗めなかった。とにかく凄すぎるからさ」と賞賛。歌の方でもスキャットという手法を広めたことで知られ、マイルス・デイヴィスは「アームストロングは喋りまでジャズになっている」と語っている。

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TIMEが選ぶ20世紀の100人〈下巻〉アーチスト・エンターテイナー 徳岡孝夫 訳 1999年発行
【ジャズ・ミュージシャン】ルイ・アームストロング 【執筆者】スタンレー・クラウチ (一部抜粋しています)
ポップス。スィート・パパ・ディップ。サッチモ。ピッチも完璧、リズムも言うことなし。即興で演奏されるメロディーと歌は、高音域では月まで駆け上がり、低音域では都会のどん底で死にかかっている殺し屋の血の滴ほど沈んで、魂を揺さぶる、ジャズに重要な革新的役割を果たした人物の多くがそうであったように、彼も小柄な男だ。しかし、ジャズ界、アメリカ音楽界、そして世界全体に及ぶその影響力があまりにも永続的であるがゆえに、彼はいまでは、ストラビンスキーやピカソジョイスらと並び称される数少ない人間のひとりとなっている。彼の人生は、極貧から大金持ちへ、無名の一市民から世界中に模倣者を持つ革新者へと上り詰めた典型的な人間の一生を体現したものだった。ルイ・ダニエル・アームストロングは世界を揺るがすような言葉を発したが、その言葉はあまりにも広く浸透したので、電球や飛行機、電話のように普通の、ありふれたものになった。
だから、アームストロングは、われわれアメリカ人が音で何かを表現しようとする時、いまでも根底で作用する力であり続けている。ウィントン・マルサリス、ウォレス・ローニー、テレンス・ブランシャール、ロイ・ハーグローブ、ニコラス・ペイトンといった今日のジャズ・ルネサンスを代表するトランペット奏者の演奏の中に彼の影響を聴き取れるだけではない。その影響は、カントリー・アンド・ウェスタンから、ラップの狂詩にいたるまで、さまざまなリズムの中に見て取れるのだ。
長い間、アームストロングは1900年7月4日、ニューオーリンズに生まれたと考えられていた。それは今世紀のアメリカのために音楽の独立宣言を書いた人物にぴったりの誕生日だった。しかし、作家のゲイリー・ギディンが出生証明書を発見し、アームストロングは1901年8月4日生まれであることがわかった。社会の最下層で育ち、毎日を懸命に生きた。家に何か持って帰ろうと、ゴミ箱をあさって夕食のおかずになりそうな食べ物を探すこともあった。しかし、アームストロングの世界を支配する精神は貧しさゆえの恵まれない環境にも、放任された生活に潜む危険にも左右されることはなかった。
何よりも彼を圧倒したのは、伝記『サッチモ−−ニューオーリンズの日々』の中で述べているように、人々が何かの儀式のたびに見せる活気だ。ヨーロッパ系の青白い白人のものから漆黒の黒人のものにいたるまで、ニューオーリンズの黒人には多くの社交クラブやパレード、野外パーティーなどがあった。ラグタイムやブルース、オペラの断片や教会音楽などといった具合に、さまざまな種類のリズムやメロディが生み出され、およそ人々のかかわるところならどこでも、それらの音楽があり、場に活気を添えていたのだ。アームストロングは楽器の演奏家になる以前にも、子供のころから、小銭稼ぎに踊ったり、夕食の足しに他の子供たとと路上を練り歩く四重唱団を組んで歌ったりしていた。ニューオーリンズをあちこち歩き回って、亜熱帯地方の夕べに甘く響き合うハーモニーの心地よい風をそよがせていたのである。
彼にはまた、ちょっと抜けたところもあった。生まれつき喜びが体からあふれているといった感じのスラム育ちの少年だった。彼は大みそかにピストルを乱射して騒いだため、黒人の非行少年を更生させるウェイフス・ホーム少年院へ送り込まれた。ここで初めて、少年ルイはコルネットのマウスピースに唇を当てる。アメリカの少年らしく、社会のどんな階層に生まれようと、彼には夢があった。夜、ベッドに横になっては、通りで名手フレディ・ケパードがあの金色のコルネットを吹いているのを聞き、自分もいつかはあの澄んだ音を出せるようになりたいと思っていた。
ルイの腕はすぐさま上達し、やがてニューオーリンズかいわいで素晴らしいコルネット奏者として知られるようになる。彼が演奏するのは、親切でやさしく、汚れのない世界の場合もあれば。反対にひどく荒っぽい世界でもあった。黒人の娘たちのために野外パーティーで演奏することもあれば、タキシード姿の黒人を見たことがないという白人たちを前にミシシッピ川の渡し舟の上で吹いたこともあった。客がナイフや銃を振り回している場面に飛び込んでしまったこともあったし、一度など、ふたりの女性がナイフで死闘を繰り広げる現場を目撃している。そんなさまざまな経験をしたせいで、彼の奏でる音色の中には、華やかさから、ユーモア、エロチックな魅力、深い悲しみ、威厳、陰うつ、高度の精神性まで、ありとあらゆるものが取り込まれた。彼はアメリカ人の指針となったのである。
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1924年に一流のバンドリーダー、フレッチャー。ヘンダーソンに呼ばれてニューヨークを訪れた時には、もうアームストロングはあのアームストロングだった。彼は自分の音楽が真剣に受け入れられること、自分が正当に遇されることを求めた。彼の即興演奏は街中を陶酔させた。当時の堅苦しいリズムは、打奏的で舞い上がるようなリズムの組み合わせに打ち負かされた。彼はまたすぐにシカゴに戻り、やりかけた仕事を完成させ、次から次へと、アメリカの音楽を再編成するようなレコードを生み出していった。『ポテト・ヘッド・ブルース』や『アイム・ア・ディング・ドング・ダディ』などだ。みずからの即興による独創的なメロディーをより多く響かせることを必要としたアームストロングは、ニューオーリンズでは対位法を構成するために組んでいたクラリネット、トランペット、トロンボーンによる第一旋律を、第一ホルンのみの演奏に絞るが、やがてこれが慣例となった。彼のように、妙技と力強さと情熱を組み合わせた演奏は他に類を見なかった。西欧音楽の世界においても、楽器でここまで革新的な成功を収めながら、歌を歌おうとおもむろに立ち上がってポーカリストに転向した人はいなかった。バッハだってそんなことはしなかった。ポップス。スィート・パパ・ディップ。サッチモ
アームストロングが、美しい旋律を奏でるリズミカルな未来への展望を開き、世界の人々は、芸術の場においては、頭脳と肉体がかくも完全な調和を見せるのかということを目の当たりにした。ニューオーリンズ出身の天才の汗ばんだ体の中でアポロとディオニュソスが出会い、完成と情熱がいままでにない言葉で叙事詩を語っていた。アームストロングが徹底的なアレンジを加え、ホルンと声でポピュラーソングをひねり合わせると、歌から感傷が消え、本格的な芸術に昇華した。彼はスイングという変革の立役者を世の中に送り出したが、それは今世紀のもっとも革命的なリズムだった。彼が使うスラングは共通語となった。いやはや、たいした男だ。
実際に、ルイ・アームストロングの存在感たるや、圧倒的だったので、ビッグバンドの演奏はどれも彼のサウンドのように聞こえた。呼び物の即興演奏者も彼のやり方を模倣した。以来どこのジャズの学校も、アームストロングがスイングヤブルース、バラード、アフロ・ヒスパニック・リズムといった表現形式の基本をどう解釈したかを扱わなければならなかった。ジャズの器楽奏者ならだれであれ、彼に非常に多くのものを負っている。また、ビング・クロスビーやビリー・ホリデー、エラ・フィッツジュラルド、サラ・ボーン、フランク・シナトラエルビス・プレスレー、マービン・ゲイといったさまざまな歌手も、アームストロング的なものを共通に持っているのである。彼のとらわれなのなさ、ウィットや規律正しさ、みだらなとこらや威厳、深い悲しみやしの報いと闘おうとする押さえきれない意志の力、そうしたものすべてが、彼の音楽に永遠に未来の音楽への懸け橋となる地位を与えている。
アームストロングは終始世界を旅して回った。1932年に英国王の前で演奏した時のこと、彼はひとつ、チャーミングなへまをやらかした。ある曲を次のように言って紹介したのだ。「国王陛下、この曲をあなたに捧げます。『アイル・ビー・グラッド・フェン・ユア・デッド・ユー・ラスカル・ユー』(お前さんが死んでくれたらうれしいのに)」。彼は子供たちをとても愛し、また、いつでも仲間のミュージシャンへの援助を惜しまなかった。王族や国家元首には肩の力を抜いたらというジョークのつもりで下剤を渡したこともあった。しかし、欧州で彼がどんなに歓迎されたとしても、50年代後半のツアーで、西アフリカの大勢の人々が彼を出迎えた時の喝采ぶりの方が、この20世紀の音楽界における巨大なセコイアには、はるかにふさわしいものだった。
彼はいつもは人生をありのままに受け入れ、自分なりにアレンジした。しかし、すべてを受け入れたわけではなかった。1050年代中ごろまでには、若い黒人ミュージシャンたちから、黒人をちゃかした人物として拒絶され、持て余し者にされていた。その演奏も、感情を抑制したクールジャズの時代に、陽気過ぎて、感情的でホット過ぎるとされた。若いミュージシャンたちは、アームストロングが黒人の足を引っ張っていると言った。なぜなら、笑ってばかりで、白人連中から受けてしかるべき敬意を要求していないからだ。しかし、40年前、アーカンソー州リトルロックの学校で人種融和政策が始まった時、アームストロングは消極姿勢のアイゼンハワー大統領を大っぴらに批判した。その時ジャズ界のだれからも不平の声は聞かれなかった。彼のヒロイズムは、相変わらずへそ曲がりだった。いや、これこそ真に偉大な人物のやり方なのだろう。連帯してやるか、最初からひとりでやるか。とにかく、やるべきことをやるのだ。ルイ・ダニエル・アームストロングはそんな男だった。

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サッチモのディズニーアルバム 「星に願いを」より
When you wish upon a star
Makes no difference who you are
Anything your heart desires
Will come to you
   
星に願いをかけるのは
誰であろうと同じこと
心から望みさえすれば
どんなことも叶うはず
何か夢見ているのなら
届かぬ望みなどはない
夢見る人らしく
星に願いをかけなさい
   
運命の女神は慈悲深い
恋する者たちの
心に秘めたる想いには
耳を貸してくださる
青天の霹靂のように
運命は突然やってくる
星に願いをかけたなら
どんな夢もかなうはず

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