じじぃの「人の死にざま_371_内村・鑑三」

内村鑑三 - あのひと検索 SPYSEE
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軽井沢高原教会動画 YouTube
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こころの時代 「〜宗教・人生〜 道をひらく 内村鑑三のことば」 2014年10月5日 NHK Eテレ
【講師】鈴木範久(立教大学名誉教授) 【語り】石澤典夫
近代日本の形成に影響を与えた宗教家・内村鑑三の生涯は苦難の連続。その中で掲げた人間の理想と、根底にある信仰の深まりを探求する。
「すなわち、この世の中はこれは決して悪魔が支配する世の中にあらずして神が支配するといふことを信ずることである。失望の世の中にあらずして希望の世の中であることを信ずることである」
「この世の中は悲しみの世の中でなくして、喜びの世の中であるといふことをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中の贈物として、この世を去るといふことであります。この遺物は誰にもできる遺物ではないかと思ふ」
http://sp.nhk-book.co.jp/text/detail/index.php?webCode=69108402013
内村鑑三 ウィキペディアWikipedia)より
内村鑑三は、日本人のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。
【経歴】
高崎藩士内村宜之の長男として江戸小石川に生まれる。
東京英語学校(後の東京大学予備門)に入学して3年後の明治9年(1876年)、北海道開拓にあたる技術者を急造する目的で設立された札幌農学校に入学する。新渡戸稲造、宮部金吾らと同級生となった。内村ら(第二期生)が入学する前までに、農学校に教頭として在校していたウィリアム・スミス・クラークら、お雇い外国人の強い感化力によって第一期生は既にキリスト教に改宗していた。初めはキリスト教への改宗を迫る上級生に反抗していた内村も、ついにほとんど強制的に「イエスを信ずる者の契約」なる文書に署名させられる。改宗することによって、若い内村は神社を見るたびに頭を下げずに済むようになったことを喜んだ。
明治11年1878年)6月2日には、米国・メソジストキリスト教会のM.C.ハリスから洗礼を受ける。洗礼を受けた若いキリスト者達は、日曜日には自分達で集会(「小さな教会」と内村は呼ぶ)を開き、幼いながらも真摯な気持ちで信仰と取り組んだ。そして、メソジスト教会から独立した自分達の教会を持つことを目標とするようになる。その学生の集団を札幌バンドという。明治14年1881年)、札幌農学校を卒業し、北海道開拓使に勤める。勤務の傍ら、札幌に教会を立て、それを独立させることに奔走した。翌年に札幌基督教会を創立する。
日清戦争は支持していた内村だったが、その戦争が内外にもたらした影響を痛感して平和主義に傾き、日露戦争開戦前にはキリスト者の立場から非戦論を主張するようになる。萬朝報も当初は非戦論が社論であったが、明治36年1903年)10月8日、世論の主戦論への傾きを受けて同紙も主戦論に転じると、内村は萬朝報を離れることとなった。
人格的には慈愛に満ち、高潔で、強固な意志の持ち主であったとされるが、それ故に政府の国民への抑圧的体制に対して、キリスト者の立場から後の敗戦を予言するような厳しい批判の言葉も残している。

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内村鑑三「代表的日本人」を読む』 童門冬二/著 PHP文庫 2010年発行
古い日本の教育 (一部抜粋しています)
内村鑑三さんはいまで言うとグローバルな考えを持っていたので、外国にもよくいった。外国にいくと、必ず西洋人から尋ねられたことがあるという。それは、相手が内村さんの賢明さに驚いて、「われわれが日本にいって諸君の救済教育を行うまで、いったいどのような学校教育を受けてこられたのか」ということだ。
日本にはすぐれた学校教育があった。また、家庭の躾(しつけ)もよかった。そのため内村さんは、
キリスト教でいう"十戒"のうち"八戒"は子どものときから家庭でしつけられた」
と答えたのだ。
つまり親から、
−−力は正義ではない。
−−世界は利己主義のうえには成立しない。
−−盗みはどんな形であっても悪である。
−−結局のところ、命と財産は私たちの最終目標ではない。
などを知らされた。
この躾や教育は、いまの学校教育とはずいぶん違う。昔は教育の目的を、「真の人間になるため」として、英語で言う「ジェントルマン」をめざしていた。そして教師も2、3年であらゆる種類の知識を詰め込むべきではないと考えていた。
これが昔の教育制度の長所の一つだ。歴史、詩歌、礼儀作法は相当教えられたが、主は「道徳」であった。教師も学生や生徒を一個の人間として扱い、肉体的、精神的、霊的な特質をトータルに把握していた。だから教師は必ず相手の名を覚えていた。
いまの"敵者生存の原理"に基づいた教育制度は、ジェントルマンを育てるにはふさわしくないと思われる。この点について、昔の先生方の教育理論はソクラテスプラトンと一致していた。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
内村鑑三(うちむらかんぞう) (1861-1930) 69歳で死亡。 (一部抜粋しています)
内村の遺骸は、書希望の結果、「左心臓冠状動脈の高度の延長拡長及び蛇行」「心臓自身の肥大」「心嚢水腫」などが認められた。
「第一高等学校不敬事件」「日露非戦論」−−等、官権はおろか世論ともたたかい、その厳格な信念のゆえに、彼は何人の友と絶交したことであろう。
−−そのたびに彼の心臓冠状動脈にはコレステリンが付着したに相違ない。
そのため彼は、東京柏木の自宅で昭和4年12月26日から病床につき、年が明けても病状は一進一退を繰り返した。
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昭和5年3月26日午後1時、また心臓の発作が襲った。内村は病床に端座して、苦痛にたえながらいった。
「人類の幸福と日本国の隆盛と宇宙の完成を祈る」
午後3時ごろ、夫人をそばにおいて祈った。
「奇跡をもってこの病を癒したまえ。ただし、自分のためならず、福音のためにこの病を癒したまえ」
夕方、弟子の藤沢音吉にいった。
「音吉。最後はお前に抱かれてゆく。最後の名誉はお前にとらしてやる」
音吉は感激のあまり座にたえず、庭に出て、思い切り声をあげて泣いたあと、病室に戻って内村を抱きかかえた。
内村は安らかな眠りにおちた。
しばらくして眼をさました彼は、医者と看護婦にいった。
「悪魔よしりじけ、キリスト来りたまえ。・・・・エホバはおのれを愛する者によき眠りを与え給う」
そして彼はまた眠った。
27日午後1時ごろ、また発作が来て彼は苦しんだ。こんどこそ最後の時かと思われたが、その生命力は強く、2時ごろ内村は、突然讃美歌23番を歌い出した。
夕方になって、医者にいった。
内村鑑三、主イエス・キリストにありて眠れり」
11時半、注射によって彼はこころよげに熟睡した。
しかし、28日の午前4時半ごろからまた変調が来た。そして、家族や弟子たちの見まもる中に、8時51分、こんどこそはほんとうに彼の肥大した心臓は鼓動をとめた。
相当に騒々しい死に方といえる。
子の祐之は、死せる父にいった。
「一族および枕頭にある者に代わって申し上げます・あなたがよく70年の永い間、神のために働かれたおとを感謝します。どうか今、神様のところで安らかに眠られることを祈ります」
庭の桜の老樹は満開で、弟子の夫人たちによって切りとられたその一枝が枕頭に供えられた。
その墓碑銘。
「我は日本のため
 日本は世界のため
 世界はキリストのため
 すべては神のため」

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内村鑑三 Google 検索
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