じじぃの「人の死にざま_354_三橋・美」

三橋美智也 - あのひと検索 SPYSEE
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哀愁列車 三橋美智也 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=d2u0992sbZ8&feature=related
リンゴ村から 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Dus_QMb6RKE
三橋美智也 -赤い夕陽の故郷 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=JjFIVNsgay4
三橋美智也 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
三橋美智也(みはしみちや、1930年11月10日-1996年1月8日)は日本の歌手。本名は、北沢 美智也。北海道函館市近郊の上磯町(現・北斗市)出身。愛称は「ミッチー」。
【歌謡界の重鎮】
民謡をベースにした伸びとつやのある美声で、春日八郎、村田英雄らとともに長年歌謡界をリードしてきた、戦後日本を代表する男性流行歌手。多くのヒット曲を連発し、特に全盛期の昭和31年から32年当時は「三橋で明けて三橋で暮れる」と言われるほどの絶大な人気を得ていた。また、キングレコードの全盛期を春日、若原一郎と共に築き上げ、「キング三羽カラス」「三人男」とも呼ばれた。さらに、長年の民謡の業を元に、民謡三橋流を創設。津軽三味線を演奏し、レコードも出している。門下に細川たかしらがいる。四国愛媛県松山の松山まつりの「神輿音頭」も唄っている。地元松山では知らない者がいないぐらい有名な曲と言われる。
【晩年】
糖尿病の悪化も手伝い、晩年は声の衰えを隠せず、また薬の副作用等により脱毛が酷く、それを隠すためにカツラも使っており、かつての恰幅のよさも無くなっていた。このことについて、親交が深かった立川談志は「もっと年齢相応に(キーを下げたり)しても良かったのでは」と著書に記している。
生真面目な性格でも知られ、自身のショーで歌っているときに歌詞を間違ったら「もう一度」とやり直していた(晩年はそのようなことは無くなっていた)。このような性格と私生活での心労が死期を早めたのではという声もある。
1995年10月、ゴルフの帰りに車中で意識を失い、そのまま意識が戻ることなく1996年1月8日午前11時30分、多臓器不全で大阪市阿倍野区大阪市立大学付属病院で没した。享年65。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
1月8日−三橋美智也 (歌手・65歳)
日本が一番美しかった時代。それが昭和30年代だと私は思っている。
日々の暮らしはまだ貧しかったけれど、戦後10年余りの傷跡に必死になって耐えながら、限りなく広がる未来に夢を託し、人々が前向きに生きていた時代だった。
三橋美智也の美しく練り上げられた高音が高らかに謳いあげた望郷演歌の数々は当時の日本人たちの心情をどれだけ揺さぶり、かつ励まし、なぐさめたことだろうか。
「哀愁列車」、「りんご村から」、「赤い夕陽の故郷」。これらの曲を聴くと私は涙がでるほどせつなさを覚えてならない。

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三橋美智也 Google 検索
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