じじぃの「人の生きざま_38_モハメド・アリ」

モハメド・アリ氏死去=ボクシング元ヘビー級王者−20世紀の英雄、74歳 2016.6.4 時事ドットコム
プロボクシングの元世界ヘビー級チャンピオンで、20世紀を代表するカリスマ的英雄だったモハメド・アリ(本名カシアス・クレイ)氏が入院先の米アリゾナ州フェニックスの病院で3日死去した。74歳だった。
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016060400177&g=spo
Muhammad Ali Tribute 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=w68sXTLsdqI
1996 Atlanta Opening Ceremonies - Lighting of the Cauldron 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=5TaITzi64Sw
モハメド・アリ

モハメド・アリ ウィキペディアWikipedia) より
モハメド・アリ("The Greatest" Muhammad Ali、男性、1942年1月17日 - )は、アメリカ合衆国の元プロボクサー。アフリカ系アメリカ人ケンタッキー州ルイビル出身。本名は同じで、旧名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア(Cassius Marcellus Clay Jr.)。アフリカ系の他に、イングランドアイルランドの血を引いていた。 デビュー当初「カシアス・クレイ」と呼ばれていたが、後にイスラム教へ改宗したのを機に、リングネームのみならず本名自体を「モハメド・アリ」に改名し、その名で呼ばれるようになった。アマチュアボクサーとしてボクシングを始め、1960年のローマオリンピック・ライトヘビー級金メダリスト。プロに転向するや無敗でヘビー級王座を獲得。その後は3度王座奪取に成功し通算19度の防衛を果たした。
20世紀最高のスポーツマンの一人である。また、人種差別と戦ったり、ベトナム戦争の徴兵拒否など社会的にも多くの注目を集めた人物である。

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朝日新聞社 100人の20世紀 下 2000年発行
モハメド・アリ (1942〜) 【執筆者】大高宏元 (一部抜粋しています)
ある日曜日の夜、米ニュージャージー州のホテルで、モハメド・アリを主賓とするカクテル・パーティーがあった。
ホテルの玄関に車が着いた。付き添いに両脇を支えられ、アリが降りてくる。顔はむくみ、伸びたひげが白かった。
両手の指が、上着のすそを引っかくように絶えずふるえている。「丸薬を丸めているみたいな」ふるえがパーキンソン病特有の症状だという。
アリは1981年に引退する。その3年後の84年、「パーキンソン症候群」と診断された。神経麻痺と筋肉硬直を伴う難病だ。元主治医のヘルディ・パチョコ医師は「明白なパンチ後遺症で、進行性です」と指摘する。
会場には60組ほどの家族連れが拍手でアリを迎えた。パーティーといっても実際は「アリを囲む写真撮影会」だ。客のグループが順番にアリのところにやってきて、一緒に写真に納まる。大手スポーツ代理店がアリと契約し、一卓1000ドル以上で売り出したものだ。
背広姿で立ったままのアリは一人一人と握手し、抱き合う。若い女性客にキスされると目が回った振りをしてみせ、周りを笑わせる。
私も握手した。手は温かかったが、言葉はもつれてよく聞き取れなかった。体の調子はいかがですかと尋ねた。
「ノー、プロ、ブレ、ム」
絞り出すような声だった。それでも子供たちの頭をなで、赤ちゃんを抱き上げてあやす。ハンカチやカードの手品まで演じてサービスする。客席はやんやの拍手だ。
しばらくして、ハッとした。アリの口元からよだれが流れ、背広のえりをぬらしているのだ。病気の典型的な症状である。会場が静まり返った。付添い人がさりげなくティッシュを渡し、アリがぬぐう。再びざわめきが戻った。
パチュコ医師はマイアミビーチに住む。77年、アリが35歳のときに、もう引退すべきだと説いてアリと衝突、けんか別れした。
「薬で抑えて人前に出ているようだが、副作用がこわい。アリは十分に活躍した。もうゆっくり休むべきなのだ」
雑誌や新聞も「かっての雄姿を汚すような状態で公衆の前に出るばきではない。療養に専念した方がいい」と書く。
しかしアリとロニー夫人(43)は、それに強く反対している。
ケンタッキー州ルイビルは南部の保守的な町だ。アリはその貧しい黒人地区で、看板描きの息子として生まれ育った。
ボクシングとの結びつきは偶然だった。12歳のとき自転車を盗まれ、届け出た相手の警官がボクシング教室のコーチだったのだ。その場で教室に入った。
天性の敏捷(びんしょう)さがあった。それに加え、練習熱心だった。高校には、市営バスと競争しながら走って通った。
プロ転向のころからマネージャー兼トレーナーを務めてきたイタリア系白人のアンジョロ・ダンデーさんはいう。
「もちろんアリは天才だ。あのパンチの速さ、軽いフットワークはだれもまねできない。しかし、彼ほど練習熱心なボクサーは見たことがない。禁酒禁煙。節制と、人一倍の激しいトレーニング。魔法の筋肉なんかじゃない。練習の成果なんだ」
ルイビルの町を流れるオハイオ川に「メダル投げの橋」と呼ばれる橋がかかっている。
60年秋、ローマ五輪で優勝した18歳のアリは、英雄として帰ってきた。パレードがあり、市長主催の祝賀会が開かれた。
祝賀会が終わって、友人とバイクでレストランに行った。そこで主人に「黒んぼはお断りだ」といわれる。金メダルを見せたが、鼻であしらわれた。
居合わせた白人の暴走族らとけんかになり、バイクで追いかけられる。やっと逃げきったこの橋の上で、アリはメダルを川に投げ捨てた。
黒人少年はこのとき、白人社会と闘う決意をした、とされる。有名な「アリ伝説」である。
それから36年過ぎた96年。アトランタ五輪で聖火を点火したアリのふるえる左手が、世界中の感動を呼ぶ。国際オリンピック委員会IOC)はアリに金メダルを再交付した。
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アリは98年4月、日本にも来た。プロレスのアントニオ猪木(56)の引退式に出るためだった。
76年、東京でアリと猪木が闘った「異種格闘技」の試合を取材したことがある。猪木はマットに寝転がっての足げりばかり、アリはロープタッチの逃げばかり。肝心の格闘場面がほとんどなく、結果は「引き分け」だった。
私は試合前に、「ボクシングファンをあざむく茶番劇」という記事を書いた。猪木事務所のマネージャーが激怒し、「訴訟を起こす」と抗議が来たのを覚えている。
実はあの試合後、アリが1ヵ月以上も入院していたのを、今回の取材で知った。猪木の「横げり」を受け、足がひどい内出血を起こしていたのだ。
猪木によると、アリは前日になって「米国に帰る」といいだした。
使用するグローブを公式試合の3分の1の軽さにするなど、大幅に譲歩してやっと試合が成立した。軽くて薄いグローブでは、アリのパンチは凶器に近い。
試合中1度だけ、けりでアリが横倒しになる場面があった。猪野木が馬乗りになる。「ひじ打ち1発で終わりにできた」唯一最大のヤマ場。しかし、猪木はそうしなかった。
「だって、打てなかったんだよ。余裕を失っていたのかなあ」
猪木はそれ以上語らない。
猪木はあくまでプロレスラーだった。そして同時に、アリを心から尊敬していたのだ。
フロリダ州マイアミ。市コンベンションセンターの大ホールのフロア中央に、丸い銅板画はめ込まれている。
「1964年2月25日、モハメド・アリ、まさにこの場所で世界ヘビー級チャンピオンになる」
22歳のカシアス・クレイは、ここに特設されたリングでソニー・リストン(32)=当時=をTKOで破り、世界王座につく。翌日この町で、イスラム教への改宗とモハメド・アリへの改名を宣言した。
トレーナーのダンデーさんは、今でもマイアミでジムを経営し、若いボクサーを育てている。
「クレイというさなぎが、アリというチョウになって、このマイアミから世界に飛び立ったのさ」
王座について3年後、アリはベトナム反戦を訴えて徴兵を拒否し、懲役5年、罰金1万ドルの有罪判決を受ける。
「その後は徴兵拒否なんてごく当たり前になった。いま思えばアリがちょっと先取りしただけのことだったんだ。時代がアリに追いついたんだよ」
アリは死ぬまで人前に出つづけるつもりだ。とダンデーさんはみている。
「金のためじゃない。人前に出たいんだ。アリ、アリの歓声が、彼にとってはすべてなんだ」
好きなようにさせてやるのが一番だよ。とダンデーさんはいった。
「アリは、そこに立っているだけでアリなんだ」

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