じじぃの「人の死にざま_328_梶山・季之」

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梶山季之文学碑
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梶山季之
韓国ソウル(旧・京城)生まれ、広島高等師範学校(現・広島大学)卒業。
在学中に、短編集『買っちくんねえ』(共著)を自費出版、1953年に上京後、『新思潮』等の同人に加わり、創作活動に励む。やがて、「週刊明星」と「週刊文春」の創刊時より関わり、ルポライターとして活躍、 "トップ屋"の異名を奉られる。
1962年『黒の試走車』で作家としてデビュー、以後さまざまな分野の作品を発表し、流行作家となる。
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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
梶山季之(かじやまとしゆき) (1930-1975) 45歳で死亡。
「君は、肺に大きな空洞をあけながらも、朝6時に起きるや、お茶の代わりにビールを飲み、飲みつづけながら、午後6時までに50枚以上の原稿を書き、それを編集者に渡すと銀座にゆき、サントリー・オールドの水割を午前零時まで飲みつづけた。酒場にいる君のまわりには、常に、友人か、若いジャーナリストたちがいた。君の饗応であった。10余年間の、銀座がよいで、君は、いったい、どれだけの友人や後輩やジャーナリストに饗応したのだ? おそらく、延人数にして2万人以上であろう」 (柴田錬三郎
その直後、こう書かれた梶山季之は、昭和50年5月4日、黒いカバンを持って家を出た。夫人が、「伊豆? それとも?」と訊(き)いたのに対して、
「どこをさまようか、さすらいの旅に。……」
と、おどけていい、6日か7日には帰る、といった。伊豆には別荘があるが、これが梶山が旅行するときのいつもの調子であったので、夫人はさして気にとめなかった。
5日、梶山は何くわぬ顔で同伴者とともに香港の空港におり立ち、ただちに水中翼船でマカオにゆき、遊んで、6日、また香港に戻り、マンダリン・ホテルにはいった。
そして、7日正午ごろ、ホテルで突如大量の吐血をした。救急車でカノッサ病院に運ばれ、輸血を受け、また点滴を受けた。
9日に、急を聞いて夫人と13歳の娘美季が到着したとき、梶山はもっと設備のよいクイーン・メアリ・ホスピタルに移され、美季に、治療中の歯のことなどを尋ね、意識ははっきりしていた。しかし、11日朝、急に悪化して息をひきとった。
死因は肝硬変症によって生じた食道静脈瘤(りゅう)の破裂であった。
屍体ははフォルマリン処理され、棺にいれられ、飛行機で帰った。
彼は自分の関係者に無制限のサービスをした。その死を、彼ほど編集者から哀悼された作家は古今にない。

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梶山季之のエピソード
彼はマスコミの注文に、内容如何を問わずことごとく応じた。それは師の大宅壮一の命ずるところだった。昭和43年の「別冊文芸春秋」新春特大号の締め切り1週間前に有馬頼義が倒れ、急遽梶山に依頼が来た。彼は正味2日半一睡もせずに「ミスター・エロチスト」なる300枚の原稿を書き上げた。何ともすざましい才能の食いつぶし方である。

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梶山季之 Google 検索
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