じじぃの「人の死にざま_324_井上・ひさし」

井上ひさし - あのひと検索 SPYSEE
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日本国憲法が創り出した価値 動画 YouTube
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井上ひさし - 「ひょっこりひょうたん島」 を語る 動画 YouTube
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徹子の部屋 「永六輔 現役続行の勇気をくれた盟友の激励」 2013年3月21日 テレビ朝日
現在パーキンソン病を患いながらも精力的にラジオ番組や講演活動を続ける永六輔さんを迎える。懸命にリハビリをこなして病気と闘う日々のエピソードを明かして黒柳を笑わせる。永さんと黒柳の出会いは今から60年ほど前に遡る。今日は2人に共通する盟友たちの秘話が次々と。渥美清さん、小沢昭一さん、井上ひさしさん等の素晴らしい人柄が浮き彫りに…。
☆本
永六輔のお話し供養」 小学館
「無名人のひとりごと」 (株)金曜日
http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/html/130321.html
井上ひさし フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
井上ひさし(1934年11月17日-2010年4月9日)は、日本の小説家、劇作家、放送作家である。文化功労者日本藝術院会員。本名は井上 廈(いのうえ ひさし)。結婚当時(1961年 - 1986年)の本名は内山 廈(うちやま ひさし)。その他の筆名として遅筆堂(ちひつどう)を使用することもある。
日本劇作家協会理事、社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任した。
【来歴】
井上靖と競った文学青年を父として山形県東置賜郡小松町(現川西町)に生まれる。
上智大学国語学部フランス語学科を卒業する前から、浅草のストリップ劇場フランス座を中心に台本を書き始める。当時のストリップは1回2時間程度のショーに先駆け1時間程度の小喜劇を出し物としており、殊にフランス座渥美清を筆頭として谷幹一関敬六長門勇と言った後に日本を代表する喜劇役者の活躍の場であった。これらの大学時代の経験は、『モッキンポット師の後始末』に(かなりフィクションが交えられているが)小説化されている。
卒業後、放送作家として活動し山元護久と共に『ひょっこりひょうたん島』を手がける。
1983年1月、劇団こまつ座を立ち上げている。
2009年10月に肺がんと診断され、治療中の2010年4月9日に死去した。75歳没。
【人物】
・作家のイメージとは少し異なる朴訥とした親しみ易い顔形・分厚い丸眼鏡・出っ歯がトレードマークである。
エスペランティストエスペラント語使用者)でもあると推定されている(実力の程は不明である)。戯曲『イーハトーボの劇列車』では登場人物である宮沢賢治エスペラントの講習を行っている。
・揮毫を頼まれると、「むずかしいことをやさしく/やさしいことをふかく/ふかいことをゆかいに/ゆかいなことをまじめに書くこと」とよく記していた。
天皇制反対主義であったため、右翼に乗り込まれたことがある。その際、ひさしは天皇歴代全員の名前を暗誦してのけた。「あなたは言えますか?」と逆に問われた右翼は、思わぬ返り討ちに遭い退散してしまった。

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文藝春秋』 7月号 井上ひさし「絶筆ノート」
◎夫の肺がん173日闘病記 独占手記 「ひさしさんが遺したことば」 井上ユリ (一部抜粋しています)
昨年12月にがんで闘病中であることを公表した後、『文藝春秋』編集部からひさしさんに「闘病記」の執筆依頼がありました。闘病記となればプライベートな部分も公開することになります。はじめは逡巡していましたが、「3人に1人はがんで亡くなる時代に、自分の体験をことばにして伝えることこそ作家の仕事だ」と、受けることに決めました。
すでに10月から、ひさしさんは病気についてノートに記録を始めていました。冒頭に掲載したのがその内容です。B5の厚いノートに一字一字記された日記は11月初めで途切れていますが、その後も処方された薬や病院食のメニュー、胃カメラの写真からいただいたお見舞いの手紙まで、ありとあらゆる資料が几帳面に張られています。
最後のページに書かれた文章は、新国立劇場で上演する「東京裁判3部作」のチラシに掲載するコピーとして、ひさしさんが年末まで考えていたものです。最終的には、「いつまでも過去を軽んじていると、やがて私たちは未来から軽んじられることになるだろう」に決まりました。
「闘病記」について、ひさしさんはつねづねこう話ししていました。
「自分は医者でも専門家でもない。病気について詳しく追及するのは立花(隆・ジャーナリスト)さんたちに任せて、自分は"ことば"を書きたい。治療の内容や感じたこと、医者に聞いた話をことばにすることが自分の仕事なんだ」
「闘病記」を自分で書くことはかなわなくなりましたが、私のできる範囲でひさしさんの闘病中の"ことば"をお伝えしたいと思います。
「息が苦しい」
昨年9月末に小林多喜二を題材にした新作『組曲虐殺』を書き上げ、10月3日、初日の幕が開きました。翌週家族で短い旅行をした時に、食欲旺盛なひさしさんに日ごろほどの食欲がみられなかったことが気にはなりましたが、まだ執筆の疲れが残っているのだろうとそれほど疑問には思いませんでした。
ひさしさんが体の変調を訴えたのは、小森陽一さんやノーマ・フィールドさんと『組曲虐殺』を観に行き、食事をして帰宅した昨年10月19日の夜のことでした。鎌倉の自宅につづく35段の石段を上るときに息が切れたようで、家につくとしきりに「苦しい」「つらいつらい」と言います。聞いてみると、食事の時から相当調子が悪かったようです。
翌日の午後に湘南鎌倉総合病院の救急外来に言ってレントゲンを撮影すると。右肺の3分の2近くまで水がたまっています。これが息苦しさの原因でした。水を少し抜いて苦しさも軽減され、取った水を検査に回してもらってその日は帰宅しました。あれだけ吸っていた煙草も、24日にきっぱりと止めました。持ち歩いていた手帳にも、「この夜から煙草を断つ」と書かれています。
病名の告知を受けたのは、10月29日の夕方です。4種類ある肺ガンのうち、日本人に一番多い「腺がん」で、進行状態はステージⅢBかⅣ。先生が丁寧に図を書いて説明してくださり、「これほど肺に水が溜まるということは、相当進んでいると思います」と言われました。湘南鎌倉総合病院には呼吸器の専門科がありません。先生は「責任を持って推薦できる病院がいくつかある」と名前をあげて下さいました。ひさしさんは「先生がこの人なら本当に信頼できるという方を紹介してください」とお願いして、茅ヶ崎徳洲会総合病院に決めました。
すでに相当な量の水を抜いていたので深刻な病気だと覚悟していたのでしょうか、ひさしさんは案外落ち着いていました。
「今年書いた『ムサシ』も『組曲虐殺』も、よい出来だった。この2つが最後なら満足だよ。これで、出来が悪かったらつらいだろうけど。たくさん仕事をして、社会的評価も得た。書きたいことはまだまだあるけど、欲を言えばきりがない。幸せな人生だよ」
そう言ってすっきりした様子でしたが、当然ながら私はそんな気持ちになれません。水の溜まる病気はいくつもあるし、簡単でなくても気長に治療すればいい、と楽観的に思いこんでいて、がんなど想像もしていませんでした。肺から抜いた水が黄色がかっているのを見て「ひさしさんはユンケルばかり飲んでいるからユンケルロイヤルの色をしているよ」と冗談を言っていたくらいです。病気がかなり進んでいるなんて受け止められるものではありません。
翌日、2人で茅ヶ崎徳洲会総合病院に向かい、主治医になって下さる大江元樹先生にお目にかかりました。不思議なことに、大江先生の柔らかな口調で治療方針などを伺っているうちに、「頑張れるな」と前向きな気持ちが湧き出してくるのです。ひさしさんも同じだったようで、昨夜は「もう、いいよ」と言っていたのに、この日は「よし、頑張ってみようか」と言ってくれました。
私の姉(米原万里・作家)もがんで闘病した末、2006年に亡くなりました。告知を受けた姉は徹底的に自分の病気について調べ、抗がん剤を嫌がって民間療法にも積極的に取り組みました。その様子を知っていたこともあってか、ひさしさんは「自分は自然科学の素養もないし、医学の基礎知識もない。いくら勉強したって日々専門の病気と関わっている医者に追いつくはずもないから、病気については一切勉強しない」と決めていました。昔からひさしさんは、信頼した人に自分をまるごと「預ける」ことができる人。大江先生に出会って信頼できると感じ、その治療方針にただひたすら従うことにしました。
12月2日から入院し、抗がん剤治療の準備をするためにMRI胃カメラ、CTなどさまざまな検査が始まりました。抗がん剤を投与する前に、肺に溜まった水をすっかり抜いて、さらに、水が溜まりにくくするため、胸膜と肺を癒着させなければなりません。これはかなりつらかったようです。
入院した番、夕食が済んで私と息子も帰り、「さあ、今日の記録でも書こうかとノートを開いた瞬間、突然病室に先生方が大勢入ってきたんだ。『水を抜くので、今までより少し太い管が入りますよ』と言ったかと思うと、羽交い締めにされ、あちこち押さえられた上、処置が始まって・・・・」。皮膚の表面には麻酔を打ったものの、体の中は麻酔が効かないので、管が入った胸膜がぎりぎり痛む。胸膜は体の中でも3本の指に入るほど痛みを感じやすいところだといいます。あとで私には、「これからはヤクザがドスで刺すようなシーンをきちんと書けそうな気がする」と笑っていましたが、あまりの痛みに取り乱し、「家族を呼んでくれ」と叫んだため、帰宅していた私は看護婦さんに呼ばれ、病室にとんでいきました。着いた時はすべてが終わったあとで、もう落ち着いていましたが。
その後しばらくは、会う人ごとに細いチューブを使った「牧歌的な」抜き方と違って、どれほど痛いものなのか詳細に説明し、「そうだよなあ、あれほど痛いとわかっていたら誰も承諾しないから、いきなり入ってきてダーッとやってしまうんだな」と医師団の早技に感心していました。
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ことばを使う者としての責任
内視鏡検査によって、咽喉の痛みは肺と食道の間にあるリンパ節のがんが、大きくなって食道を圧迫していることが原因とわかりました。ステントという、器官を広げる金属の筒のようなものを入れれば改善されるのですが、食道がある程度細くなってからでないと、ステントがうまくはまらずに胃に落ちてしまいます。食道が狭まるのを待つこの時期は、とても辛い時期でした。1日3回、1時間かけて食事を取り、時折食道で食べ物がつまると、指で喉を押して通していく。そんな状態でおいしいはずがないのに、ひさしさんは完食しようと一生懸命でした。
このころ、「『闘病記』を自分で書くのは難しい。でもインタビューという形ならやれる、と文春に伝えてくれ」と言われました。
「苦しいけれど、自分は作品の中で『たとえ人生が残り1日でも、どんなに苦しくても、人間は生きなきゃいけない』と書いてきた。そう書いた以上は、自分のことばに責任を取るために頑張らなきゃいけない」
「こんなに苦しいことを経験してみると、今までの自分は、どこか観念的に『苦しさ』ということばを使ってきたと思う」
「こういうことについて、ちゃんと"ことば"にしてインタビューに答えたいんだ」
自分のことばを自分の行動で裏切ってはいけない、と考える人でした。
最後は流動食に近い食事にしてもらったのにそれすらも詰まり、水を飲むのもつらくなるほど食道は細くなってしまいました。4月2日にようやくステントを挿入しましたが、先生が思っていたほどは食道が広がりませんでした。多少広がればそこから食事を取って栄養をつけ、次の治療に臨めるという考えは現実のものにはならなかったのです。唾や水は少しは飲み込めるようになったものの、追加のステントを入れる体力はもう残っていません。ひさしさんは口の中にたまった唾を、ティッシュを山ほど使って自分で取っていました。
「こんなことは聞きたくないだろうけど・・・・」と前置きをしたうえで、何点か自分の死について伝えられました。
「家で死にたい」 「延命治療はいやだ」、葬儀やお別れ会のことなども話しました。お別れ会について具体的な話になり、「音楽はねぇ、」などと注文をつけているうちに、しまいには「これ、おれがプロデューサーやらないと」という話になったので2人で笑ってしまいました。
このころになると、1日単位から半日単位で病状はみるみる悪化していきました。元気な時は65キロあった体重は、50キロ近くまで落ちていました。この時期に撮影された内視鏡の画像と2週間前の画像を比べると、リンパ節のがんが急激に成長して食道をほぼ塞いでいます。前の写真の「肺がんの食道浸潤」という診断は、「多臓器がんの食道浸潤」に変わりました。この写真と診断を目にしたひさしさんは、「ああ、ここまで来たらだめだなあ」とつぶやきました。
背中の痛みを軽減するために痛み止めの量を増やしていたので、日中は朦朧としている時間も増えていました。4日に娘の麻矢さんが来た時は奇跡的に数時間元気で、こまつ座についてきちっと2人で話すことができました。6日の深夜に何か書きたい仕草を見せたので便箋とペンを渡しましたが、ほとんど判読できません。薬の副作用で妄想も少し入っているのか・・・・「はっきり」とか「まいります」という言葉は読みとれるのですが、一体何を書こうとしていたのでしょうか。
1日でも早く家に帰らせてあげたいと、先生方の協力を得てなんとか態勢を整えて家に戻ったのが4月9日の朝でした。「帰るよ」と話しかけると、朦朧としながら「うん・・・・」と答えたり、手を弱く握り返してくれました。帰りの車の中でも「今、江の島よ」 「(戯曲『人間失格』執筆の前に一緒に見に行った)太宰治の小動(こゆるぎ)よ」 「もうすぐ家よ」の音場にうなずいたり目を動かしたりしていたので、わかっていたとは思いますが、もう少し意識がはっきりした状態で帰宅させてあげたかった。それでも病院の天井を見ながら最後を迎えるのは寂しいこと。家に帰ってこられてよかったと思います。息子と麻矢さん、そして私の3人に見送られ、その日の夜にゆっくり息を引き取りました。

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ひょっこりひょうたん島」の井上ひさしさん死去 2010.4.11 MSN産経ニュース
小説「吉里吉里人」やNHKの連続人形劇「ひょっこりひょうたん島」の台本のほか、戯曲やエッセーなど多彩な分野で活躍した作家の井上ひさしさんが9日夜、死去した。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100411/acd1004110201000-n1.htm
井上ひさしの言葉
「苦しいけれど、自分は作品の中で『たとえ人生が残り1日でも、どんなに苦しくても、人間は生きなきゃいけない』と書いてきた。そう書いた以上は、自分のことばに責任を取るために頑張らなきゃいけない」
「戦争や災害だと、たくさんの人が同じ死に方をしなきゃならないんだ。ひとりひとり違う死に方ができるというのはしあわせなんだよ」

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組曲虐殺』あらすじ
『人間臨終図巻 上巻』 小林多喜二 参考 ↓
http://d.hatena.ne.jp/cool-hira/20100304/1267650295
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