じじぃの「人の死にざま_321_チンギスハーン」

チンギスハーン - あのひと検索 SPYSEE
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チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展 動画 YouTube
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チンギスハーン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
チンギス・カンは、モンゴル帝国の初代皇帝(大ハーン)(在位1206年 - 1227年)。
【征服事業】
着々と帝国の建設を進めたチンギス・カンは、中国に対する遠征の準備をすすめ、1211年に金と開戦した。三軍に分かたれたモンゴル軍は、長城を越えて長城と黄河の間の金の領土奥深くへと進軍し、金の軍隊を破って北中国を荒らした。
この戦いは、当初は西夏との戦争の際と同じような展開をたどり、モンゴル軍は野戦では勝利を収めたが、堅固な城壁に阻まれ主要な都市の攻略には失敗した。しかし、チンギスとモンゴルの指揮官たちは中国人から攻城戦の方法を学習し、徐々に攻城戦術を身につけていった。この経験により、彼らはやがて戦争の歴史上で最も活躍し最も成功した都市征服者となるのである。当時5千万人ほどいた中国の人口がわずか30年後にした調査によると約900万人ほどになってしまったというから虐殺の規模がうかがい知れる。
【陵墓と祭祀】
チンギス・カンの死後、その遺骸はモンゴル高原の故郷へと帰った。『元史』などの記述から、チンギスと歴代のハーンたちの埋葬地はある地域にまとまって営まれたとみられているが、その位置は重要機密とされ、『東方見聞録』によればチンギスの葬送の隊列は行く手に見かけた人々を全て殺して進んだという。埋葬の痕跡を消すために1000頭の馬を走らせたとされる。

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『ああ知らなんだ こんな世界史』 清水義範/著 毎日新聞社 2006年発行
モンゴルが中央アジアに来襲した (一部抜粋しています)
さて、チムールについて語った時、その人物はモンゴル系の家から出たと言った。それから、彼はチャガタイ・ハーン国がうまくひとつにまとまっていない時代に出た、とも。
すなわち、ウズベキスタンをはじめとする中央アジアの国々は、チムールによって大帝国にまとめられる前は、モンゴルの支配を受けていたということだ。
日本にも、モンゴルは襲来したことがある。鎌倉時代元寇(1274年の文永の役と1281年の弘安の役)がそれだ。あの時、運よく嵐があったせいで日本は元軍を追い払うことができた。
しかし、モンゴルはアジアの大部分を攻め滅ぼして、空前の大帝国を造ったのだ。もちろん、中央アジアはまっ先にモンゴル軍に攻めかかられた。
ウズベキスタンサマルカンドはチムール帝国の都だったところで、いくつものモスクやメドレセや廟が修復されていて見所がいっぱいあると既に語った。ところが、それらはすべて、チムール帝国より後のものであって、それより前のものはひとつもない。
サマルカンドで、街外れのアフラシャブの丘、というところを見物したことがある。見物と言っても、見るものなど特にない。荒れた丘にすぎない。何か工事をしようと掘り返しかけて、すぐに中止してしまったかのように、地面が凸凹である。そこに草が生えていて、許可された人が羊を放牧しているだけだ、見渡す限りの荒地である。
実は、その丘こそが、もともとのサマルカンドがあった場所なのである。中央シルクロードの要地として古くから栄え、BC4世紀にそこへ来たアレキサンダーが、「話しにきいていたとおり美しい、いやそれ以上に美しい」と言ったと伝えられる古都が今は雑草しか生えない荒地になっているのだ。
今はなき昔のサマルカンドは、城壁で囲まれた街で4つの大きな門があったという。街には舗装が敷かれており、水道が各家庭に延び、緑であふれかえっていたそうである。
ところが、モンゴル軍がその街を、地上から消し去り、一面の何もない丘にしてしまったのだ。1220年のことである。
それより前、中央アジアを支配していたのは新興のホラズム・シャー王国(1127〜1231)だった。時のスルタン、アッディーン・ムハンマド二世は、イランを席巻し、アッバース朝カルフが生きつづけているバグダッドをうかがうほどの勢いだった。
なのに、東からモンゴルのチンギスハーンに攻めかかられたのである。そのいきさつについて、有名な話がある。
ホラズム・シャー王国とカラキタイ(西遼)との国境近くに、オトラルという街があった。その街の長官イナルチュクはスルタンのムハンマド二世とは母方のいとこ同士だった。
そういうオトラルに、1218年のこと、チンギスハーンがつかわした通商使節団がやってきたのだ。250人の彼らは隊商でもあって、大量の商品を持っていた。
チンギスハーンからの友好の申し出を伝えるその250人を、欲に目がくらんだイナルチュクは殺害してしまい、荷物を奪った。それをきいたチンギスハーンは山にこもって3日間泣き、報復のために立ち上がった。そして、またたく間にホラズム・シャー王国は滅亡させられてしまう。
という話を、私はウズベキスタンでガイドのしてくれる歴史の説明できいた。そしてモンゴルを相手に、その長官はなんてバカなことをしたものだ、と思ったものだ。
ところが、その話はモンゴル側の資料にしか出てこないもので、実はモンゴルの西征を正当化するための作り話なのだそうだ。
通商使節団は実は、モンゴル側に寝返っている商人たちで、モンゴルの強さをいいふらし、ホラズム・シャー側の内状をさぐるのを目的にしたスパイだったのだ。つまり、その時にはモンゴルはもう中央アジアに攻めかかる気で準備をしていたのだ。
イナルチュクはそれを見抜き、仲間の決起をうながすために、スパイを投獄し、後に処刑したのだ。
1219年、モンゴル軍がついに攻めてくる。イナルチュクは包囲されたオトラルで半年もの籠城戦に耐えたが、ついに捕えられ、チンギスハーンの前に引きたてられ、その命令によって、溶かした銀を両眼と両耳に流し込まれて殺害された。
そしてモンゴル軍は、オトラルより先にブハラや、サマルカンドも攻め落としていた。その時、サマルカンドは徹底的に破壊され、地上から消し去られたのだ。そこが今のアフラシャブの丘なのである。
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モンゴルはなんと、中国に元王朝を建てたのを始めとして、中央アジア、イラン、トルコ、ロシアまでをも版図とするのだ。そのうち、中央アジアチャガタイ・ハーン国、イランを中心とする西アジアイル・ハーン国となったわけである。ロシア等の北方はキプチャク・ハーン国となった。
モンゴルは全てを破壊し、何も建設しない、ということが、アフラシャブの丘に立ってみるとひしひしと感じられる。ただ家々を壊しただけではなく、水路をズタズタに破壊したので、人の住めない荒地になってしまったのだ。
モンゴルは遊牧の民族なので、街などいらないのだ。彼等は戦争のために行軍する時も、天幕を持っていってその中で生活する。総大将のチンギスハーンも天幕生活である。だから、街を建設するということがない(中国の元が、今の北京である大都を建設したのだけが例外)。
まるで馬のための草を求めるかのように、ただ襲来し、虐殺し、都市を破壊し、掠奪の限りをつくす、というのがモンゴルなのか、なんて気がしてしまう。でもそんなやり方で、一度は空前の大帝国を出現させたのがモンゴルなのだ。日本は本当にラッキーだったなあ。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ジンギスカン(チンギスハーン) (1167-1227) 60歳で死亡。
1226年秋、ジンギスカン西夏国を征服するために軍を発したが、翌年甘粛省清水県で狩猟中に落馬し、そのときの負傷が悪化して陣歿した。1227年8月18日という。遺骸は蒙古本土に運ばれた。
彼はかって蒙古のオノン湖畔のブルハン山中に狩りをして、うっそうと茂る大樹の下で休んだとき、「われ死せばこの樹の下に埋めよ」と遺言したので、その地に葬られたが、元来蒙古族遊牧民の慣習として墓は作らないので、まもなく彼の埋葬場所もわからなくなってしまったという。
ジンギスカンの生年には諸説があるが、ここでは『広辞苑』による。

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