じじぃの「人の死にざま_309_田中・美知太郎」

田中美知太郎 - あのひと検索 SPYSEE
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京都市名誉市民 田中美知太郎氏
http://www.city.kyoto.jp/sogo/hisyo/honor_28.html
田中美知太郎 ウィキペディアWikipedia) より
田中美知太郎(1902年1月1日-1985年12月18日)は、日本の哲学者。京都大学名誉教授。文学博士(1950年)。新潟県新潟市出身。
西洋古典学の多くの著作を出し、専門家を多数育成した。ソクラテスプラトン研究の第一人者であった。また戦後いち早く著名な保守論客としても活躍。サンフランシスコ講和条約の際には小泉信三とともに単独講和に多くが反対する中でこれを支持した。1968年には「日本文化会議」を設立に参画し理事長をつとめた。
1950年日本西洋古典学会を呉茂一、高津春繁、村川堅太郎、松平千秋等と設立、1956〜65年に委員長をつとめたほか、関西哲学会会長も在任した。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
12月18日−田中美知太郎 (哲学者・83歳)
新潟県出身。プラトンを中心とするギリシャ哲学を専攻し、生涯をかけて研究を重ねた人だった。
1945年5月の東京大空襲で大やけどを負い、奇蹟的に一命をとりとめた。その後、京都大の教授となり、象牙の塔にこもりながらも進歩的文化人を批判しつづけていた。
「ロゴスとイデア」なる著作は毎日出版文化賞を受賞するに至った労作である。
人間は絶対的に知的動物だと思っている。それだけに日々、向上心を求めて勉強しなければいけないと考えている。
生涯をかけて哲学する!! 田中の場合、それは仕事の域であったろうけれど、とても人間的ですばらしい。こういう人がいてくれたことに私は感謝の念を抱きながら献杯したい気がする。

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小林秀雄の思ひ出―その世界をめぐって』 郡司勝義/著 文藝春秋 1993年発行
土の世界(田中美知太郎をめぐって) (一部抜粋しています)
小林秀雄が、50歳を超えたばかりの頃、「学問」をする決心をしたといふのは、欧州旅行から帰って来た昭和28年の7月以後のことであった。といふのも、既に旅行中にその臍をかためてゐたのは言ふまでもない。帰ってきてきて、放送会社からの、といふより中学校時代からの友人でカトリック学者の小林珍雄が、当時、関係してゐた放送会社からの勧誘によって、ラジオ放送をしてゐるうちにぶつかった近代画家たちの生き方に、心を動かされて書き出したのが、『近代絵画』であった。
これは小林秀雄にとっては、まさに事件と呼ぶにふさはしかった。それを眼前に見てゐた愛弟子の中村光夫が、「わづか4、5百枚のこの作品に、5年という歳月を、しかも人生にとって一番貴重な時期に、費やしたのは異常なことであった」と感激の語を発したのを見ても明らかである。
このやうなことは、古典学徒である田中美知太郎にとって、最初からきはめて自明の理であった。戦時中、国粋主義者言動の氾濫するなかで、氏は単なる古典学者の埒内にとどまらず、常に現実ときり結ぶ複眼的思考をもって、「ロゴス」と題する論文から始まって、その不足を「ミソロゴス」と題して論じ、若い福田恆存をして感動せしめたことは、その証左の一端ともてよいであらう。さらに「最も必要なものだけの国家」を、戦争直後の困難な時期に発表するに至るが、その10篇からの論文を書いた9年間は、小林秀雄とはなにか相呼応するものがあった。田中美知太郎の愛弟子の森進一は、これを「哲学といふ川」を中に挟んで対峙してゐた、と見事に記している。
その2人の姿勢をたがひに物語る機会は、のちにやってきた。
≪現代の唯物史観的な歴史家の傾向というものは、進歩したつもりで、実は退歩してゐる。徳川時代の古学者とか国学者の考へ方の方がずっと正しい処があると言へます。彼等にとって歴史的対象とは、ある時代の事実ではなくて、事実がその時代に経験された、その経験の意味だったのです。これは正当なことです。客観的事実自体には歴史的意味はない。その事実が、どういふふうに感じられ、どういふふうに考へられてゐたかといふことが、歴史的事実である≫といふ小林秀雄の言葉を、素直に肯定した上で、田中美知太郎はかう応じてゐる。
≪実際に宗教家とか、さういふ人が書いたそれが、実は一番うそのない証拠なんですね。あとの物的証拠といふのは完全犯罪の場合と同じやうに、うっかりするとだまされることもある。だからその時代を知るには、その時代に生きた宗教家とか、芸術家とか、さういふ人の書いた書物をほんたうに理解すると、それがやっぱり一番うそのない証拠になる、それを大事に取り扱はないのは大変な間違ひだ≫
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田中美知太郎は、昭和54年に全三巻の予定で、まさにライフワークの名に値ひする『プラトン』を出し始めた。核心は、次の第二巻からで、翌々年に刊行された。小林秀雄が、これを丹念に呼んだのは言ふまでもない。
「田中さんの例の仕事、叮嚀に読んだよ。あれだけの学識があって、あれだけの力倆がある。すばらしいものだ、当今、日本では田中さんを超える者はゐない、と僕は信じてゐる。さうすると、まだるこくても、やはり一つ一つ立証して行かなくはならないんだらうね、・・・・やはり学問なのだから、くどいやうでも仕方がないね。もし僕が田中さんほどの学識と力倆をもってゐたら、もっと工夫をこらして、僕はもっともっとうまい文章を書いてみせる、それだけの自新はあるな。そして、若者をみんな僕のところへ引き寄せて惑はせてみせるよ。おしいかな、天は二物をあたへずだな」
まさに「言葉の魔術師」あるいは「言葉の錬金術師」の異名をたてまつられてきた小林秀雄のことである。が、かう言ったからとて、何も田中美知太郎をおとしめようといふ意図があってのことでは、さらさらない。それではあまりにも短絡にすぎるといふものだ。

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田中美知太郎の言葉
「日本人の欠点は、感覚を偏愛し、理性に欠ける所にある」

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田中美知太郎 Google 検索
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