じじぃの「人の死にざま_301_大宅」

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大宅壮一フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
大宅壮一は、日本のジャーナリストであり、ノンフィクション作家。毒舌の社会評論家として有名。妻は大宅壮一文庫の理事長を務めた大宅昌、三女はジャーナリストの大宅映子。
【来歴・人物】
大阪府三島郡富田村(現高槻市)の醤油屋に生まれる。
1937年の南京攻略戦では現地を取材しており、南京大虐殺については規模に議論があるとした上で日本軍による虐殺自体には肯定的証言をしている。太平洋戦争中の1941年には海軍宣伝班としてジャワ作戦に配属された。その際、同じ班には詩人の大木惇夫や漫画家の横山隆一がいた。その後、大木はこの時の経験を基に詩集「海原にありて歌へる」を出版し、その際に大宅が跋文を書いているが、その中で「戦争といふものは実に素晴らしい文化的啓蒙者である。」と言っている。
イデオロギー的な表現を嫌い、「無思想人」と自称していた。ただし宗教と偽善者の排撃は終生止めなかった。宗教関係の文章では「出口王仁三郎訪問記」(『文学時代』新潮社1931.01)「出口王仁三郎と大本弾圧事件」(『中央公論』〔80巻4号〕中央公論社1965.04)などがある。中国で発生した文化大革命については幼い紅衛兵が支配者に利用されて暴れている様子を「ジャリタレ革命」と表現している。
駅弁大学」「恐妻」「一億総白痴化」「口コミ」「太陽族」「緑の待合」「男の顔は履歴書である」「肥後猛婦」などの造語を生んでもいる。
1967年1月に大宅壮一東京マスコミ塾(略称・大宅マスコミ塾)を開塾する。逝去で幕が閉じられるまで、8期480名の塾生を送り出した。没年である1970年から、彼の名を被せた「大宅壮一ノンフィクション賞」、が毎年気鋭のノンフィクションに与えられている。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
11月22日−大宅壮一 (評論家)
歯に衣着せぬ毒舌を以って、世相を斬りまくってきたジャーナリストとしてこの人も20世紀に大きな足跡を残した一人といえるだろう。
子供のころから本の虫だった。中学時代、教育勅語の文法に誤りありと指摘したエピソードは後の大宅壮一を物語る萌芽の時期のようで面白い。
大宅は戦争終結によりそれまでの軍国主義が一転して民主主義に変わったことで、1955年に「無思想宣言」なる本を著わし、時代の天気予報官になることを決意する。
あっちこっちに出来る大学を"駅弁大学"と斬りつけ、国民に対し、"一億総白痴化"やら"総評論家"と一笑に付した。
大宅の立派な点は後継者育成に力を注いだことである。1967年に東京マスコミ塾を開き、その2年後には≪大宅壮一ノンフィクション賞≫を設立し、後進の羅針盤とした。
大宅が力尽き、天に召された時、マスコミ葬が行われた。これは大衆葬とも言われた。
マスコミや作家たちが資料探しに馳せ参じる東京・八幡山にある大宅壮一文庫は彼が遺したこの世への偉大なる置土産だろう。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
大宅壮一 (1900-1970) 70歳で死亡。 (一部抜粋しています)
生来健康で病気ひとつしなかった大宅壮一は、昭和38年63歳の夏ごろから以上にふとり出し、1.68メートルの身長で体重90キロを超えるようになり、書庫の階段を1段ずつ上がるたびに立ちどまって、呼吸を整えなければならないありさまになった。
医者の体重をへらさなけれはいけないといわれ、心理学者の宮城音弥にコンニャクをすすめられ、以来主食をコンニャクとし、その結果体重はたしかにへったが栄養失調をきたし、ライフワーク『炎は流れる』も中断する羽目になった。
昭和41年、66歳のとき愛児歩(あゆむ)の夭折(ようせつ)に逢い、彼の衰えは人の目に立つほど進んだが、しかし仕事とマスコミに対するサービスはなお馬車馬のように超人的で、最後の3年間も毎年海外旅行をやめなかった。昭和45年1月西サモア、フィジー、トンガ諸島を訪問し、西サモアの大酋長に任じられたが、その旅行中も、見ていてもいたいたしいほどの歩行ぶりであった。
その年10月26日、山中湖の山荘で急に息苦しさを訴え、同日急遽帰京して東京女子医大心臓血圧研究所に入院した。
11月16日には妻の晶子に「こんな苦しいなら、一服盛ってもらったほうがいい」と弱音(よわね)を吐いたが、失禁状態のためおむつをあてがう娘の洋子には、薄目をあけて、「洋子か、ふるさと見学だな」と、いった。
しかし、医者のいうことは実によく聞き、手と足に点滴を受けながら、「動かないように」といわれると、小学生のように手を大腿の上にのせてじっと動かなかった。
草柳大蔵は記す。
「11月18日のことだった。大宅氏は昏睡状態から醒(さ)めると、『ああ、ハラがへった。なにか食うものをよこせ』といった。絶体絶命のピンチに追いこまれて、酸素吸入まではじめた病人がどなったのである。彼はまず、酸素吸入のための幕をうるさがった。
『なんだ、これは。こんな邪魔くさいもの、早くとってくれ』
彼は、見舞客のために用意した幕の内弁当の中から小さな枕のようなニギリメシ1個とカエデの葉くらいの鳥肉ソテーをむしゃむしゃと食べた。それからは、入って来る見舞客約60人に対して、仕事の上のアドバイスを与えたり、女性関係をからかったりして、しゃべりつづけた。この饒舌(じょうぜつ)は午前5時まで続いた。
翌日また昏睡に入った。その翌日は、睡りながらも意識はハッキリしていて、『講演にゆかなけりゃなあ』といい。『それには入歯をなおさんと、どうも具合がわるい』とつぶやいたりしている。 (中略)
交代で病室に入ってみると、大宅氏は小さなシャックリを繰りかえしながら、ベッドに斜めになっていた。10月26日の入院以来剃らなかったヒゲがのびて、ちょっと愛矯のある顔が赤く輝いている。 (中略)
ふつう、臨終にある病人は、小さくしぼんで、見る影もない姿になるものだが、大宅氏はすこしもかわらなかった。1ヵ月も点滴だけで生命を支えてきたというのに、掌にも足にもふっくらと肉がついていて、身体のムキをかえるのにも4、5人かからなければ動かせないほど重かった。
藤倉医師の聴診器があてられている胸は、胸郭がぐっと張って、農民や筋肉労働者のような盛上がりを見せていた」
11月22日午前3時4分、いちど心臓が停止したがまた戻り、3時43分に永遠にとまった。
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実際はガンであって、医者が大宅の気力を信じてこれを告げたところ、大宅はショックのため3日間ベッドの上で毛布をかぶって動かなかったというゴシップが伝えられたが、草柳はいう。「大宅の死因は『動脈硬化症による腎不全および心不全』ということであって、たとえばガンとか蜘蛛膜下出血というような決定的な因子があったわけではない」

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