じじぃの「人の死にざま_278_A・フレミング」

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Alexander Fleming, the inventor of Penicillin 1888-1955 動画 YouTube
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アレクサンダー・フレミング フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
サー・アレクサンダー・フレミング1881年8月6日-1955年3月11日)はイギリスの細菌学者である。抗菌物質リゾチーム(lysozyme)と、アオカビ(Penicillium notatum)から見出した世界初の抗生物質ペニシリンの発見者として知られている。
ペニシリン
1929年、フレミングブドウ球菌の培養実験中にコンタミネーションにより生じたアオカビのコロニーの周囲に阻止円(ブドウ球菌の生育が阻止される領域)が生じる現象を発見したことに端を発する。フレミングはアオカビが産生する物質が細菌を溶かしたものと考え(実際には、この現象は溶菌ではなく細菌の発育阻止によるものであった)、アオカビを液体培養した後のろ液にも同じ活性があることを突き止め、彼自身は単離しなかったその物質を、アオカビの学名にちなんでペニシリンと名付けた。
その後、1940年にH.W.フローリー(Howard Walter Florey)とE.B. チェイン(E.B. Chain)がペニシリンの単離に成功したが、1つと思われたペニシリンは、ペニシリンG、ペニシリンN等の混合物であった。翌1941年には実際臨床でその抗菌剤としての効果を確認した。フレミングの「ペニシリンの発見」とフローリー等の「ペニシリンの再発見」とそれに続くペニシリンGの実用化は感染症の臨床治療を一変させ、その功績によりフレミング、フローリー、チェインには1945年にノーベル医学・生理学賞が授与された。

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TIMEが選ぶ20世紀の100人〈上巻〉指導者・革命家・科学者・思想家・起業家 徳岡孝夫/訳 1999年発行
【細菌学者】アレクサンダー・フレミング 【執筆者】デービッド・ホー博士 (一部抜粋しています)
1928年にアレクサンダー・フレミングペニシリンを発見するにいたった信じ難い偶然の積み重なりから科学の神話は生まれた。
若いスコットランド人研究者だったフレミングは、ロンドンの売れっ子芸術家相手に梅毒の治療をするという金になる副業を持っていたが、ある日、持論−−自分の鼻の粘液に殺菌効果がある−−の研究に使うブドウ球菌を植えつけた培養皿を研究室の実験台の上に置きっぱなしにしたまま、2週間の休暇に出かけてしまった。
研究室に戻った時、図らずもカビの一種によって培養菌が汚染されており、その黄緑色の株の周囲に何も育たない領域が広がっているのにフレミングは気づいた。彼は知らなかったが、ペニシリウム・ノタトゥムという珍しい種類のカビの胞子が、一階下の菌類学の研究室から迷い込んだのだった。フレミングは運よく培養皿を暖かい培養器に入れないことにしていた。またその時、ロンドンは寒波に見舞われて、カビが育ちやすい環境にあった。後になって気温が上昇すると、ブドウ球菌が芝生のように育ち、培養皿全体を覆ってしまった。−−カビに汚染された周辺を除いては。その円形の空白領域をひと目見て、フレミングははっとした。その瞬間に洞察力を働かせ、演繹的な推理を行った。カビが何か細菌の成長を疎外する物質を出しているに違いないという彼の推論は、正しかった。
それは歴史の流れを変える発見だった。そのカビが作る有効成分を、フレミングペニシリンと名づけたが、それは感染症に対抗できる恐るべき潜在能力を秘めた物質だった。それが人命を救うのにもっとも効果的な薬であることが確かめられた時、ペニシリンは細菌感染症の治療法を永久に変えてしまった。20世紀の半ばまでに、フレミングの発見から一大製薬産業の発展を見、合成ペニシリンが大量に生産されるようになった。それは、梅毒、壊疽(えそ)、結核といった人類の古くからの災いの一部として恐れられた病に、打ち勝ったのだ。
レミングは、1881年スコットランドの牧羊農家に生まれた。学業に秀で、ロンドンの聖マリア病院附属の医学校で医学を学んだ。彼は背が低く、たいていはボウ・タイをしめており、有名人の仲間入りをしてからも、上流社会の集まりにはうまくなじめなかった。1928年の9月、運命のいたずらによってペニシリンを発見しなければ、彼はおそらく地味な細菌学者として終わっていただろう。
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肺炎、梅毒、淋病、ジフテリア、猩紅熱(しょうこうねつ)、さまざまな外傷、分べんに伴う感染症など、これまで見境なしに多くの人命を奪ってきた病気が、突然治療可能になったのだ。細菌感染による死亡率が急降下するにつれて、世間は感謝を捧げるための英雄を必要としていた。フレミングひとりが称賛を受けたのには、おそらくふたつの理由がある。第一にフローリーはマスコミ嫌いだったが、フレミングは人前に出るのが好きだったようだ。第二に、おそらくこちらの方がより重要だろうが、畏敬の念を抱いていた大衆にとって、個人の演繹的な洞察の法が科学者チームの技術的な連携プレーよりも理解しやすかったのだ。
さまざまな賞や栄誉が次から次へとフレミングの元に舞い込んだ。1944年には(フローリーとともに)ナイトの称号を得、1945年には(フローリー、チェーンとともに)ノーベル医学賞を受賞した。しかしこの時点になるとフレミングですらすでにペニシリンには弱点があることに気がついていた。「投与量が少な過ぎると・・・・耐性菌の出現につながる」と彼は1946年に書いている。この問題は今日にいたってもわれわれを悩ませている。
レミングが1955年に心臓発作で死んだ時、世界中がその死を悼み、国家の英雄としてロンドンにあるセントポール寺院の地下に葬られることになった。フレミングの研究はそれ自体はまたそれだけでは偉大であったとは言えないが、そのたったひとつの貢献によって彼は医療そのものを変えてしまった。彼は最高の評価を受けるに値するのだ。と同時に、みずから名づけたところの「フレミング神話」には、抗生物質の開発に携わった偉大な人物たちの業績も含まれていることを心にとめておかなければならない。

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