じじぃの「人の死にざま_274_C・ブロンテ」

シャーロット・ブロンテ - あのひと検索 SPYSEE
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ジェーン・エア (2006) Trail 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=xV4qpvF-e80
ブロンテ姉妹 シャーロット・ブロンテ
http://www1.odn.ne.jp/~cci32280/pbBronte.htm
ジェーン・エア あらすじ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
ジェーン・エア』は、シャーロット・ブロンテの長編小説。1847年刊。当初はカラー・ベルという男性の筆名で出版した。
孤児ジェーンが、家庭教師として住み込んだ家の主人と結ばれるまでを描く。当時の社会に反抗した主人公は新しい女性像を提供し、多大な反響を呼んだ。

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『VOICE』 6月号 2010年5月10日発売  PHP研究所
おじさんのための名作講座 『嵐が丘』とブロンデ三姉妹 堀井憲一郎 (一部抜粋しています)
世界文学全集がえらばれるときに、必ず入る作品というのがある。ゲーテトルストイシェイクスピアなどの諸作品が人気であるが、女性作家で入る作品はといえば、何と言ってもまず『嵐が丘』、ついで『ジェーン・エア』だ。日本でもっとも紹介されている海外女性作家は『嵐が丘』のエミリー・ブロンテと、『ジェーン・エア』のシャーロット・ブロンテということになる。こと、昭和の日本においてはそうだったということだ。大正時代もそうですね。
たまに知らない人もいるが、エミリー・ブロンテと、シャーロット・ブロンテというのは姉妹である。知らないのはただ興味がないからですね。あなたのことですよ。それくらいの小説は知ってるよおって人が、かえって怪しいですね。姉妹です。
もちろん研究者には興味深い姉妹であるから、ブロンテ姉妹についての研究書は枚挙にいとまがない。それに、この姉妹の年譜を見ていると、少し心打たれてしまいのだ。
シャーロットが姉、エミリーが妹です。しかもその下にアンってのがいて、彼女も小説を書いている。しかも近年になってアンの評価が高まっているので、ときとして「ブロンテ三姉妹」として紹介されることも多くなってきている。なんか、時代劇ファンに水戸黄門にお供しているのは佐々木助三郎渥美格之進だよと得意げに説明してる気分になってくるが、まあ仕方がない。由美かおるがいよいよ出演最後だそうですよ。どうでもいいですね。
姉妹はまだいた。長女がマリア、次女がエリザベス、三女がシャーロットである。それぞれ一つ違い。シャーロットのすぐ下に長男のブランウェルがいて、四女エミリー、五女アンとなる。
アンを産んだ翌年にこの6人の子どもに母は死んだ。その4年後、長女のマリアと次女エリザベスが相次いで結核で死んだ。マリアが12歳、エリザベスが10歳である。入学した学校の生活環境が悪かったから、とされている。西暦で言うと1825年、日本では文政年間である。
姉妹はまず詩を書き、詩集を出し、それから小説を書いた。これが本来の小説家になってゆく筋ですね。
シャーロットが30歳(になる年)で処女作『教授』を書くが、出版を断られる。続いて『ジェーン・エア』を書く。ほぼ同時にエミリーが『嵐が丘』を書き、アンが『アグネス・グレイ』を書いた。この3冊はほぼ同時に刊行されている。シャーロットの『ジェーン・エア』は文壇の大御所ウイリアムサッカレーに絶賛され、評判になった。このために、当時の出版社が、『ジェーン・エア』の作者の作品だとして、妹たちの小説を売り出そうとしたのだ。
この三作品が出版された翌年に、ブランウェルが死ぬ。シャーロットの弟、エミリーとアンの兄である。絵を描いたり詩を書いたり物語を書いたりするもモノにならず、飲酒や麻薬に逃避していたと言われる長男は、伝記を見る限り、ぼろぼろになって死んだ。エミリーはその葬式のおり風邪を引いたのがもとで、結核を患い、しかし医者の診察も拒み家に籠もり、兄の死後3ヵ月でなくなった。享年30である。アンもその半年後になくなった。28歳。シャーロットだけ生き残るが、でも6年後に38歳で亡くなっている。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
シャーロット・ブロンテ (1816-1855) 38歳で死亡。 (一部抜粋しています)
31歳のとき『ジェーン・エア』を書いたシャーロット・ブロンテは2人の姉や2人の妹弟−−その妹は、『嵐が丘』を書いたエミリー・ブロンテである−−も失い、ただ老いた牧師の父と寂しく暮らしていたが、貧しく平凡な副牧師のニコルズに求婚された。
しかし父は、断固(だんこ)としてこれをしりぞけた。表面上の理由は、すぐれた作家であり、ただ一人残った娘を、そんなつまらない男に与えられるものか、というのであった。
ニコルズは追い払われたが、また戻って来て、シャーロットに愛を求めつづけた。シャーロットの心に、しだいに愛憐の情が生まれた。
彼女は父に訴えた。
「お父様、私はもうお嬢さんではありません。若くもなく、美しくもありません。いまではもうみにくいのです。このような私を7年間も待ってくれるような人が、たくさんあるとお思いでしょうか」
シャーロットは、1854年6月にニコルズと結婚した。父は結婚式に出席もしなかった。
その年の秋、シャーロットは夫と荒野を散歩していて、豪雨にぬれ、風邪をひいた。ようやく治りかけたので、翌1855年の1月に人を訪問したが、それでまた悪化し、3月31日に亡くなった。
最後のお祈りをしている夫のニコルズに彼女はいった。
「ねえ、あたしは死なないわね? あたしたちは離れやしない。あんなに幸せだったんですもの」
ただ一人残った頑固な父は、なお6年間生きて84歳で死んだ。