じじぃの「人の死にざま_262_大隈・重信」

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大隈重信と野球」関係示す企画展 動画 YouTube
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大隈重信 ウィキペディアWikipedia) より
大隈 重信は、日本の武士・佐賀藩士、政治家、教育者。
第8代、第17代内閣総理大臣。位階勲等は従一位大勲位爵位は侯爵。東京専門学校(現早稲田大学)の創立者
【生い立ち】
大隈は、長州藩への協力および幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するには至らなかった。そして慶応元年(1865年)、佐賀藩が長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)にて、副島種臣と共に教頭格となって指導に当たった。またフルベッキに英語を学んだ。 このとき新約聖書アメリカ独立宣言を知り、大きく影響を受けた。また京都や長崎に往来して、尊王派として活動した。慶応3年(1867年)、副島と共に将軍 徳川慶喜大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛の上、佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた。
明治維新
明治維新に際しては小松帯刀の推挙により明治元年(1868年)、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。キリスト教禁令についてのイギリス公使パークスとの交渉などで手腕を発揮するとともに、明治2年(1869年)からは会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定などの金融行政にも携わった。明治3年(1870年)に参議に補され、明治6年1873年)5月、大蔵省事務総裁、10月から参議兼大蔵卿になった。
大隈の下には伊藤博文井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで近代国家の早期建設を謳って大久保利通らを牽制した。当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして「築地梁山泊」と称した。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
大隈重信 (1838-1922) 84歳で死亡。
大隈重信は、大正6年79歳の8月、持病の胆石で重態におちいり、一時は40度高熱を発したが、その後快方に向い、10月には床払いして「死に損(ぞこ)なったよ」といった。
そして芝の紅葉館で前快祝いの賀宴をひらき、
「我輩も老人になったにはちがいない。そこでこれからは、我輩という言葉をやめて老生と呼ぶことにする。・・・・しかし老とは弱ったということではない。人間は老年になるに従って、いっそう急進的になり、積極的になり、不動明王のごとき火を背負うようになる。その意味での老生であるんである」と、例によって例のごとき飛躍した説を、元気よく述べた。
83歳のとき、侍者に腕をまくって見せてその皮膚の若さを誇り、かつ頭をなでて、「ここにも少し毛があると見かけがよくなるんだがな」と笑い、すぐにまた「これにも周期があって、そのうちまた生えてくるさ」といった。しかし侍者には、それは自信と言うよりも、彼が無理に強がっているような感じしか与えなかった。
大正10年8月下旬から、彼にはまた病徴が現われた。医者は膀胱炎という診断を下したが、それは実は前立腺ガンの症状であった。
9月には血尿が出、夜間の催尿がはげしく、睡眠困難になった。しかしこの間も、少し病状が軽くなると客に会い、医者が注意すると「吾輩は少し話をせぬといかんのである」といった。
11月にはやや小康を得たが、以前には塩辛いものを好んだのに、急にカステラに蜂蜜を塗ったような甘いものを食べたがるようになった。
12月23日、また烈しい血尿を出し、大みそかには医者が危篤を告げたが、それを何とか切りぬけて11年の新年を迎えると、蒲団から両腕を出して躍るまねをし、夫人に「ばあさん、おれは苦しいけれど、まだ元気はこんなにあるんである」といったり、夫人が着物を着かえているのを横目で見て、「ばあさん、きれいになった」といったりした。
しかし病状は刻々悪化し、1月10日午前4時28分、前日からみぞれがふりつづく夜明け前、さして苦しむことなく絶命した。
大隈はかねてから人間125歳寿命説を唱えていたが、やはりその3分の2しか生きられなかった。
当時野(や)にいた大隈に「国葬」は適用されないことがわかったので、1月17日、日比谷公園で「国民葬」が行われ、参集する者30万人といわれた。

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【次代への名言】凛々の政治家編(10) 2010.5.5 MSN産経ニュース
「(1)怒るな (2)愚痴をこぼすな (3)過去を顧みるな (4)望(のぞみ)を将来に置け (5)人のために善をなせ」大隈重信
「天下の人心が自らわれに向い、藩閥も軍人も眼中に無し、と過信したのがわが輩の大いなる誤りであった」。明治14(1881)年、首相格だった大隈重信は政府を追われた。あらぬ謀反という疑いをかけられうえ、「命だけは僅かに保ち得た」という窮地だった。
「力を養わなければならぬ。それには民間の大なる力と結びつかなければ」
そう考えた大隈は政党(立憲改進党)の結党にはじまり、早稲田大学の前身・東京専門学校の創立、鉱山や出版社の経営までさまざまな分野で挑戦を試みる。
だが、大隈を「危険人物」とみた政府は陰に陽に妨害を加える。ために一部の例外をのぞいて「どれもこれも、皆失敗した」。いまは想像もできないが、学生募集難・教員獲得難・経済難が創立当初の東京専門学校の「三難」で、金銭的な苦境に陥った大隈を支援したのは旧藩主の鍋島家と高利貸だけだったという。
ここで冒頭をご覧いただきたい。『大隈候八十五年史』には大隈の「長生五カ条」として紹介されているが、座右の銘と考えてよかろう。だから彼は、人生のどん底にあっても前を向き続ける。そして思わぬ方面から転機がやってくる。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100505/acd1005050255000-n1.htm
大隈重信 Google 検索
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