じじぃの「人の死にざま_255_J・C・マクスウェル」

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James Clark Maxwell 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=EE_NJ5I-Ll0
ジェームズ・クラーク・マクスウェル フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ジェームズ・クラーク・マクスウェル(1831年6月13日-1879年11月5日)はイギリス(スコットランド)の理論物理学者である。姓はマックスウェルと表記されることもある。
マイケル・ファラデーによる電磁場理論をもとに、1864年にマクスウェルの方程式を導いて古典電磁気学を確立した。さらに電磁波の存在を理論的に予想しその伝播速度が光の速度と同じであること、および横波であることを示した。これらの業績から電磁気学の最も偉大な学者の一人とされる。また、土星の環や気体分子運動論・熱力学・統計力学などの研究でも知られている。
【大学卒業後】
1860年、マリシャルカレッジと近郊のキングスカレッジとの統合にともない教授の職を失った。所有地からの収入は年間2000ポンドに上っており収入の不安はなかったが、マックスウェルは同年7月11日からロンドンのキングス・カレッジ・ロンドン(前述の統合校とは別)の自然哲学の教授職に就いた。1861年には、光の三原色それぞれのフィルターを着けて撮影した3枚の写真を重ねることで史上初めてカラー写真の撮影に成功した。右図のように被写体はタータンリボンであり、この結果は同年5月17日に王立研究所で発表された。
また同年、気体の分子運動論の論文を発表した。この論文ではエーテルの中で力線に沿って整列した渦流が敷き詰められ、その間に小さな歯車のような存在があって噛み合っているという力学モデルを提案した。これは現実的ではないが、ここから正確なアンペールの法則が初めて導き出された。さらにエーテルを弾性体として電気・磁気の力によって伝播する波の速度を求めたところ、光速度とほぼ一致することが明らかになった。すなわち光は横波であり、かつ電磁気と一体の現象として捉えられることがわかった。これらを整理して渦流を用いずに説明できる電磁場のモデルであるマクスウェルの方程式を導き、1864年に王立学会で発表した。
論文執筆などで多忙のため、1865年4月にマクスウェルはキングスカレッジを退職した。同年秋に故郷のミドルビーに戻り、1867年の春から夏にかけては妻の転地療養も兼ねてイタリアを訪れている。1868年には論文の中で電磁波という言葉を使用し、電気と磁気の相関に触れた。また1871年には著作の中で熱力学第二法則に疑問を投げかけ、マクスウェルの悪魔と呼ばれる有名な思考実験を提唱している。
1871年3月18日にケンブリッジ大学で実験物理学の初代教授となった。ここでは第7代デヴォンシャー公爵でもある総長のウィリアム・キャヴェンディッシュの基金によるキャヴェンディッシュ研究所設立に貢献し、1874年6月16日に開所を迎えると初代所長となった。また1877年にはアダムス賞の審査員となり、かつて同級生だったラウスがこれを受賞している。1879年夏季にミドルビーに帰省した際に2年前から患った腹部の癌が悪化し、ケンブリッジで治療を受けるも11月5日に逝去した。
アルベルト・アインシュタイン1920年代にケンブリッジ大学を訪問した際、自分の業績はアイザック・ニュートンよりもマクスウェルに支えられた所が大きいと述べている。
著名になっても糊のきいた手袋とシャツを嫌い、もっぱら3等客車に乗り目上の者にも目下の者にも同じように接した純朴な人だった。

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『物理学天才列伝 上』 ウィリアム・H・クロッパー/著 水谷淳/翻訳 ブルーバックス 2009年発行
魔術師としての科学者 ジェームズ・クラーク・マクスウェル (一部抜粋しています)
心、頭、指
「定理を学ぶ方法は3つ、心、頭、指だ。このうち指は調べるためのものだが、それには常に考える必要がある。とはいえ指による方法は、記憶する上で心よりはるかに優れている。頭による方法には思考のスパイスが必要で、それはもちろん高くつくが、不安をすべて取り除いてくれる。心による方法は不安に満ちているが、思考する必要がない。また指による方法には大変な作業と絶えまない訓練が必要だが、思考と不安の両方から解放される」。これはジェームズ・クラーク・マクスウェルからいとこのチャールズ・ケイへの、間歇で謎めいた、そして奥深い忠告だ。指は記憶や技術、頭は理性、心は直感と解釈できよう。
マクスウェル自身は、3つの方法すべてに長けていた。指の能力はケンブリッジ大学で優秀な学生として証明し、物理的数学的モデルから複雑な論法によって理論を構築した。しかしマクスウェルの天才ぶりは、何より心による方法に秀でていたことによる。科学に関する見事な直観力と洞察力ゆえ、マクスウェルはニュートンアインシュタインと同列に位置づけられる。
本章で何より興味深いのは、電磁気の理論を構築する上でマクスウェルが類推という知的ツールを使ったことだ。電磁気学に関する初の論文の導入部には、次のように書かれている。
「物理理論を用いずに物理的アイデアを得るには、物理的類推の存在に慣れ親しまなければならない。物理的類推とは、一つの科学の法則と別の科学の法則が部分的に似ていて、それによって一方がもう一方を説明できることを意味する」。マクスウェルは電磁気学の理論へ到る道の途中で、力学との類推を相ついで2つ考え出す。どちらも理論ではない。最初のものについてマクスウェルは、「そこに真の理論の気配さえも含まれてはいないと思う」と書いている。しかし、いずれの類推にも真実の一端を見つけ、それを理論へと発展させた。そして仕上げに、建物の足場を外すように力学モデルを切り捨て、数学的説明、現在では有名な「マクスウェル方程式」を後に残していった。
マクスウェルの同僚から見れば、間に合わせの議論を重ね、最後にそれを棄てて微分方程式へ抽象化するというのは、まるで魔術師の手品のようだった。ある同僚は、マクスウェルの電磁気理論の世界は魔法の国のようなもので、次に何が出て出るのかまったく分からないと評している。マクスウェルが生きている間、その理論に実験的な裏付けがほとんどなかったこともまた、不利に働いた。マクスウェルを信じるには、明らかに突拍子もなく思えるマクスウェルの洞察を、実験による検証なしに受け入れなければならなかった。
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構造的に考えるマクスウェルが作り上げたのは、19世紀の壮大な知的体系の一つだった。電気と磁気のあらゆる減少を統一し、光が電磁波としての性質を持つことを明らかにし、20世紀物理学の形式と本質への扉を開いた。マクスウェルはそれを、頭と心、思考と願望、そして魔法とも呼べる心の要素を使って成し遂げたのだった。

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