じじぃの「人の死にざま_246_中江・兆」

中江兆民 - あのひと検索 SPYSEE
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兆民先生行状記
http://homepage3.nifty.com/chomin/frame7.htm
第1回 日本はどこへゆくのか 〜福澤諭吉中江兆民〜 | 日本人は何を考えてきたのか 2012年1月8日 NHK Eテレ
【出演】知花くらら(モデル)、坂野潤治東京大学名誉教授)、松永昌三(岡山大学名誉教授)、郄橋美鈴アナウンサー
黒船来航によって開国させられた日本。文明世界を初めて見た日本人は何を考えたのか。明治日本を代表する2人の思想家・福澤諭吉中江兆民の欧米での体験を探ろうとモデルの知花くららさんがアメリカ、フランスを訪ねる。
幕末、米欧を訪れた福澤はイギリス流の2大政党による議院内閣制に注目。一方、岩倉遣欧使節団でフランスに留学した中江はルソーに影響を受け、直接民主制を民主主義のモデルと考えた。しかし、政府は伊藤博文井上毅らを中心にプロイセン等の憲法をもとに明治憲法を制定。天皇と政府に強い権限を与えた。こうした中で、中江は上から与えられた「恩賜的民権」を下からかちとった「恢復的民権」へ育てていくことを主著「三酔人経綸問答」で訴える。また、福澤は明治憲法のもと官民が調和した政治をめざしていく。
日本の民主主義の様々な可能性が論議されていた明治10年代、福澤と中江はどのような未来構想を思い描いていたのか。そして、欧米列強による植民地化が進むアジアで日本の行くべき道どのように示していたのか。アメリカ、フランス、韓国、海外の研究者の目から2人の思想家の構想を見つめ直す。
http://www.nhk.or.jp/nihonjin/schedule/0108.html
中江兆民 ウィキペディアWikipedia)より
中江兆民(なかえちょうみん)は、江戸時代後期から明治の思想家、ジャーナリスト、政治家(衆議院議員)である。フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となった事で知られ、「東洋のルソー」と評される。衆議院当選1回、第1回衆議院議員総選挙当選者の一人。兆民は号で、「億兆の民」の意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。名は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬。
【誕生と修学】
高知城下の山田町に生まれる。文久元年(1861年)2月に父が死去し、5月には家督を相続して足軽身分となる。文久2年(1862年)には藩校の文武館開校と同時に入門し、細川潤次郎、萩原三圭らの門下で学ぶ。外国語なども学び、慶応元年(1865年)9月には、藩が派遣する留学生として長崎へ赴く。このころ郷土の先輩である坂本龍馬と出会っている。龍馬に頼まれてたばこを買いに走った、などの逸話を残している。その後、幕府の語学所学頭平井義十郎からフランス語を学ぶなど外国語習得に努める。慶応3年(1867年)5 - 6月に江戸へ上京し、村上英俊の達理堂で学ぶが破門され、横浜天主堂の僧にも学んだという。同年末に兵庫が開港されると上方へ赴き、フランス外交団の通訳を務める。
【在野時代】
元老院の辞職後は家塾経営や翻訳業のほか、漢学修行を続けている。自由民権運動の気運が盛り上がる中、明治14年1881年)3月に西園寺らと創刊した『東洋自由新聞』の主筆を務めるが、すぐに廃刊となり、翌明治15年(1882年)には仏学塾から『社会契約論』の漢文訳『民約約解』を刊行。自由党の旗揚げに関わり、翌明治15年に創刊した党発行の新聞である『自由新聞』社説掛となる。明治16年(1883年)には日本出版会社を設立。明治18年(1885年)には長野県出身のちのと結婚。外相井上馨の条約改正交渉を巡る大同団結運動に参加し、明治20年(1887年)には長野で演説、後藤象二郎の伊藤内閣辞職を求める封書を代筆するなど運動に関わったため、同年公布の保安条例で東京を追われる。また、明治21年1888年)には仏学塾も廃塾となる。
明治21年1888年)に大阪で創刊した『東雲新聞』の主筆も務める。兆民の演説に感銘を受けた角藤定憲に芝居公演の企画を提唱し、角藤は大阪新町座で大日本壮士改良演劇会を旗揚げし、いわゆる壮士芝居の先駆となる。そのときの演目のひとつ「勤王美(義とも)談上野曙」は兆民が幸徳秋水に依頼したといわれる。
三酔人経綸問答 ウィキペディアWikipedia)より
三酔人経綸問答は、明治期の思想家・中江兆民の著作。1887年(明治20年、兆民41歳)に刊行。のちの石橋湛山らに先駆け、早い段階で小日本主義を主張していると評価される。
【概説】
3人の思想の異なる登場人物、洋学紳士(紳士君)、豪傑君、南海先生が酒席で議論する物語で、紳士君は人類史を3段階に区分し、明治10年代に日本へ紹介されていた社会進化論を用いて、進化を発展の原動力とした。フランス、ドイツなどヨーロッパ列強を批判し、完全民主制による武装放棄や非戦論などの理想論を展開。これに対して豪傑君が反論し、中国進出を主張。両者の論争を現実主義的立場に立った南海先生が調停する構成である。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
中江兆民 (1847-1901) 55歳で死亡。 (一部抜粋しています)
明治33年の11月から、兆民はしきりと咳(せき)が出てとまらなかった。彼は咽頭カタルだと考えていた。
翌34年3月下旬、関西に旅行したが、のどの痛みがいよいよ烈しくなったので、4月、医者の診察を受け、自分が咽頭ガンにかかっていることを知った。
彼は医者に、あとどれくらい生きられるか、正直に教えてくれ、といった。医者はいいにくそうに、「1年半くらい」と、いった。
宿に帰って彼は書いた。「1年半、若し短といわんとせば、10年も短なり、100年も短なり。・・・・もし為すありてかつ楽しむに於いては1年半是れ優に利用するに足らずや。嗚呼(ああ)いわゆる1年半も無なり、50年100年も無なり、すなわちわれらは、虚無海上の一虚舟」
5月にのどの切開手術を受けたあと、寝たきりで、枕を抱いてうつぶせになった姿勢のまま、豆腐だけの食事で、かれは随筆評論『一年有半』を書き出した。
そして、9月に発行された『一年有半』とついで10月に出た『続一年有半』は大ベストセラーとなった。
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兆民は11月から症状が重くなり、12月13日に死んだ。医者から1年半と宣告されたが、彼の余命は8ヵ月しかなかったのである。
兆民の長女の思い出によると、
「父が亡くなりましたとき、門弟の幸徳さんが男泣きに慟哭(どうこく)していたことを私は今でもあざやかに憶えております。弟の廿吉が、幸徳さんのありさまがあまりすさまじいので、近くで不思議そうに眺めておりました」
その幸徳秋水の記録。
「・・・・10月『続一年有半』刻なるの後、先生苦痛ますますはげし。しばしば石盤に書きて曰く、我や一の欲望なし、一の執着なし、ただ死の速(すみや)かならんことを欲するのみと。11月下旬に至りて病ますますあつく頭脳昏々として、時として夢と現(うつつ)とを弁ずる能わず、筆談の文字おうおう転倒し、或は画(かく)を成さざるに至る。
12月初旬、病とみに革(あらた)まり、この月13日午後、ついに起たず。
翌14日、先生の遺骸を大学病院に送って解剖に附す。山極博士刀(とう)をとりて咽頭より一気に割(さ)きて臍下到る。しばらくして肋骨を切り、肺胃を出し、咽喉元を検す。包丁の牛を割くに似たり」
17日の葬式は、彼の遺言により、一切宗教的儀式を排するために、「告別式」という形で行われた。これが日本における「告別式」の始まりである。然るに、すべてをあいまい化してしまう日本人は、やがて「告別式」のほかにも依然二重の手間をかけて「葬式」を行い、兆民の考えた「告別式」と別の形態のものにしてしまった。
兆民は墓さえ作らせなかった。
「霊魂なるものは火なり。肉体は薪なり。薪尽きて火滅す。かくのごとくのみ」
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