じじぃの「人の死にざま_245_訒・小平」

訒小平 - あのひと検索 SPYSEE
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トウ小平 動画 YouTube
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松下幸之助訒小平の「君子の約束」(1) 2008-11-03 チャイナネット
http://japanese.china.org.cn/jp/qshn/2008-11/03/content_16703605.htm
訒小平 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
訒小平(とうしょうへい、1904年8月22日-1997年2月19日)は、中華人民共和国の政治家。生涯に3回の失脚を乗り越え、史的唯物論の視点に基づく「改革開放」政策によって、中華人民共和国市場経済化に着手した。1978年から1992年までの、事実上の中華人民共和国の最高権力者であった。
【生涯】
1904年、四川省広安県の裕福な客家系地主の家庭に生まれる。初め訒先聖と名づけられ、幼時には訒希賢の名も用いる。1920年、16歳でフランスへ留学。第一次世界大戦後の労働力不足に応じた「勤工倹学」という形の苦学生であった。ちなみに訒小平はこの後一度も帰郷したことはない。
1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため、中国首脳として初めて訪日し、昭和天皇や日本政府首脳と会談したほか、千葉県君津市新日鉄君津製鐵所、東海道新幹線トヨタ自動車などの先進技術、施設の視察に精力的に行い、京都や奈良にも訪れた。この訪日で訒小平が目の当たりにした日本の躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。また、新日鉄との提携で、上海に宝山製鉄所を建設することが決定された。
天安門事件
生涯に三度の失脚(奇しくもうち二回は学生が起こした暴動が一因)を味わったためか、訒小平中国共産党の指導性をゆるがす動き(すなわち、自らに敵対する動き)には厳しい態度で臨み、1989年6月には第二次天安門事件学生運動の武力弾圧に踏み切った。この事件については初め趙紫陽総書記などが学生運動に理解を示したのに対して、軍部を掌握していた訒小平が陳雲、李先念ら長老や李鵬らの強硬路線を支持し、最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断したといわれる。
訒小平は、武力弾圧に反対した趙紫陽の解任を決定。武力弾圧に理解を示し、上海における学生デモの処理を評価された江沢民(当時上海市党委書記)を党総書記へ抜擢し、同年11月には党中央軍事委員会主席の職も江に譲った。
・死去
訒小平は香港返還を見ることなく、パーキンソン病に肺の感染の併発で呼吸不全に陥り、1997年2月19日21時8分に亡くなった。遺言は唯物主義にのっとり、角膜などを移植に寄付した。本人は自身の遺体の献体を望んだが、これは訒楠の希望で実施されなかった。同年3月2日11時25分、遺灰は親族によって中華人民共和国の領海に撒かれた。
【逸話】
訒小平の言葉として「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」が有名であるが、これは四川省の古くからの諺である。実際に彼が言ったのは「白い猫」ではなく「黄色い猫」である。これは最も訒が好んだ言葉であり、毛沢東が訒を弾劾する際にその理由の一つとしている。
・1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の第11期3中全会決議に通じるものであった。また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」という感想を漏らしている。「日本と中国が組めば何でもできる」という、解釈によっては際どい発言を冗談まじりに残してもいる。訪日時の昭和天皇との会見で「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」という謝罪の言を聞いた時、電気ショックをうけたように立ちつくした。大使館に帰って「今日はすごい経験をした」と興奮気味に話した。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
2月19日−訒小平 (中国宰相・92歳)
毛沢東主席の後継者。訒小平こそは中国の近代化に大きく貢献した政治家と言えるだろう。
1978年の日中平和友好条約の終結をはじめとし、1979年にはアメリカと、1989年にはソ連との国交を正常化させた功績は計り知れないものがある。
3度の失脚にもめげず、共産党独裁の中でポストを堅持した。
経済力のパワーアップを図る反面、民主化運動の象徴ですらあった天安門事件では武力を行使してまで鎮圧させる烈しさも見せた。
軍人であり、理論家であり、経済の実務家でもあったと訒小平を分析する声があったが、彼の出現なかりせば、中国は世界にあってまだまだ遅れを取っていたに違いない。
パーキンソン病に加え、肺を病み、気管支をやられたことが肉体の衰弱に拍車をかけての死だったが、香港返還こそは彼が愛した母国への置き土産だったろう。

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訒小平の言葉
  「教えを請う姿勢で参りました」
松下 「何であれ、全力で支援するつもりです」

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