じじぃの「人の死にざま_230_西行」

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西行法師の生涯
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西行 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
西行(さいぎょう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。 父は左衛門尉佐藤康清、母は監物源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(西行の娘)がある。俗名は佐藤義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。
勅撰集では『詞花集』に初出(一首)。『千載集』に十八首、『新古今集』に九十四首(入撰数第一位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者に擬せられている。
【評価】
後世に与えた影響はきわめて大きい。後鳥羽院をはじめとして、宗祇・芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅のなかにある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇・芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切取ったものではなかったし、『撰集抄』『西行物語』をはじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生れていった所以もまたここに存する。例えば能に『江口』があり、長唄に『時雨西行』があり、あるいはごく卑俗な画題として「富士見西行」があり、各地に「西行の野糞」なる口碑が残っているのはこのためである。

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『世界に誇れる日本人』 渡部昇一/著 PHP文庫 2007年出版 (一部抜粋しています)
西行こそ最も日本的な歌人
西行は同時代のみならず、その後においても大変に尊敬された歌人の一人である。勅撰集の『新古今集』に圧倒的な数の歌が収録されているのは、最も尊ぶべき人として仰がれた現れであり、長い間、信じられないほどの影響力があった。西行が第1の歌人と称されるようになった一因として、
「願はくは 花のもとにて 春死なむ そのきさらぎの 望月(もちづき)のころ」
と詠み、広川寺で予言したとおりに春の日に亡くなったことも大きかっただろう。予言どおりに花の下で亡くなったということは、きわめて甚大なる精神的影響を当時の人にも与え、後鳥羽上皇なども非常に感動した。
その西行を私が特に重視するのは、西行こそが最も日本的な歌人であったと考えるからだ。
どこの国にも歌というものはあるだろう。しかし、日本における和歌は、社会の中でも特別に尊い意味をもつものとして考えられてきた。『古事記』でも『日本書紀』でも、和歌を書き記す時には特別の扱いがされているぐらいである。特に『日本書紀』はきれいな漢文で書いてあるのに、和歌のところだけは漢字を音標文字として使い、大和言葉の音を写している。和歌には言魂(ことだま)がこもっているという感覚から、そういう形で記されたわけだが、『日本書紀』ですらも和歌の音は変えることができなかったということで、ますます神聖感が高まっていったと思う。
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風景それ自体を宗教とみなす
仏教徒の聖行が日本中をまわったのは仏地を巡る旅と解することができる。日本の神話によれば、日本国は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)が海を天の瓊矛(ぬほこ)でかきまわして作った。これを本地垂迹の考え方で置き換えれば、何らかの如来がお作りになった島ということになり、すなわち仏地である。わが国は神国であると同時に仏国。したがって、日本の風物を愛(め)でながら日本をまわることは仏地巡りであり、そこで深く自然を感じること自体が西行にとっては仏教体験だったと思う。
たとえば、西行は桜の花を愛したが、彼にとっては桜の花は日本の花で有ると同時に仏地の花なのである。普通、仏地の花といえば蓮華(れんげ)を思い浮かべるけれども、西行にとっては日本国が仏地だから、仏地の花は桜でいいわけである。元来は日本にもあまりないような蓮(はす)に憧れるのではなく、桜を愛した。そのへんがおもしろいが、その桜の木を心を込めて見ることは仏地を見ることであり、信仰であると、西行はそう信じて疑わない。これをいまの人は自然宗教というかもしれないが、秋の谷川に鳴く鳥の声も全部、仏の地の風景であり、深い自然体験を得ること自体が仏道を究めることだった。
風景それ自体を宗教とする、こうした宗教観のなかで、西行の和歌の道は「心を込めて日本の風景・風物を歌えばお経を作るのと同じ。その和歌を誦(しよう)すればお経をあげるのと同じ」というところまで行く。いってみれば、和歌自体が祝詞(のりと)でもありお経でもあるという感覚である。
神道には仏教の戒律のようなものはないし、理屈もあまりない。キリスト教などと比べると、自然なものだからだが、そのために精神的なことを文章に残そうとすると、どうしても仏教の言葉になる。それを西行は和歌という形で示したわけだ。その和歌は教訓も理論もいらない。自然を深く感じる心があればいいのである。
このような感じ方が、日本の風景と宗教を本当に密着させたといえる。それまでも多くの歌人は同じような感じ方をしたと思うが、西行に至ってそれをはっきりと意識的に示したことになる。これが中世以降の和歌の本道にとなり、ひいては日本人の感受性の元につながっていったと思う。「和歌すなわちお経」という思想によって、一度その意識まで和歌が高められると、和歌は日本人にとって文字どおり日本の心になった。
余談になるが、仏教の膨大なお経を唱えなくても、あるお題目だけを唱えればいいとする宗派が生まれたが、心を込めて和歌を詠めば同じことになると位置づけた西行の感覚が、そういった宗教のヒントになったのかもしれない。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
西行 (1118-1190) 72歳で死亡。
「願はくは 花のもとにて 春死なむ そのきさらぎの 望月(もちづき)のころ」
かってそう詠んだ通り、ただし日は1日ちがっているが、西行法師は、建久元年−−義経が殺された翌年−−2月6日、河内国葛城山西麓の広川寺で示寂(じじゃく)した。
これはいまの暦で3月30日にあたるから、葛城山麓の桜もほころんでいたであろう。当時から人々はみんなこのことに感心したらしい。
「哀々(あわれ〃)此の世は縦(よし)やさもあらばあれ 来る世も斯(かく)や苦しかるべき」
                                 −−西行−−

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【次代への名言】わが道を往く編(3) 2010.3.25 MSN産経ニュース
「善(よ)し悪(あ)しの人のことをば言ひながら わがうへ知らぬ世にこそありけれ」西行
ある渡し舟に西行が乗り込んだときのことだ。すでに武士たちで満員だったため「坊主はおりろ」という声がとんだ。西行は黙殺した。すると、舟の一人がいきなりむちで西行を打った。彼の頭部からは血が滴り落ちた。 武門の名家の棟梁(とうりょう)に生まれた西行にとって、無礼者を川にたたき落とすことなど簡単なことだったろう。しかし、彼は黙って手を合わせ、舟をおりたという。
西行は沈黙する。彼は出家の理由もまた、沈黙し、後世を悩ませる。
小林秀雄はいう。「凡(およ)そ詩人を解するには、その努めて現さうとしたところを極めるがよろしく、努めて忘れようとし隠さうとしたところを詮索(せんさく)したとて、何が得られるものではない」
でも、さすがに「神様」だ。西行の歌への批評に出家原因を暗示させている。
「彼の悩みは専門歌道の上にあつたのではない。陰謀、戦乱、火災、飢饉(ききん)、悪疫、地震、洪水、の間にいかに処すべきかを想つた正直な一人の人間の荒々しい悩みであつた」
彼の「悩み」の一つは現代にもみられる人の心のあさはかさだったにちがいない。だから冒頭の歌を残したのだろう。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100325/acd1003250321001-n1.htm
さくらさくら今咲きほこる(写真と和歌) ぼやきくっくり
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid649.html