じじぃの「人の死にざま_226_コペルニクス」

ニコラウス・コペルニクス - あのひと検索 SPYSEE
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Nicolaus Copernicus 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=zE_a-y5ZY0g
『人類の歴史200万年』 READERS DIGEST 1980年発行 (一部抜粋しています)
ルネサンスと教会
哲学、科学、神学、絵画、彫刻、建築、詩、服飾、探検などのすべての分野で、ルネサンス人は、既存の諸概念に挑戦した。既存の概念がもっとも明瞭な真理であるときでさえ、権威が伝えた諸概念を認めることに満足しないというこの精神が、まさに彼らを近代人として特徴づけている。
当時、地球は平板であり、陸地から遠くに行きすぎると、端から落ちるというのが常識であった。しかし、コロンブスは、この通念に疑問を持ち、新大陸を発見した。教会の教えでは、地球が宇宙の中心であり、太陽と恒星とが、天界を動いているとされていた。しかし、コペルニクスは、この通念にを疑い、地球が宇宙のなかでずっと低い地位しか占めていないことを発見した。
一方、人々は、来世に予定される喜びがすべてではなく、現世にも喜びがあるとこを再発見した。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
コペルニクス (1473-1543) 70歳で死亡。
ポーランドの一地方国パルミアの司教座聖堂参事として教区の財産管理の事務に従いながら、ポーランド王とドイツ騎士団との抗争の調停にあたるなど外交手腕を示したニコラス・コペルニクスは、一方でギリシャ時代と変わらない素朴な観測器具を用いて、1530年、『天体の回転について』という論文を書いた。すなわち人類最初の地動説である。
そのとき彼は57歳であったが、天動説を神学の根本教義とする教会からの圧迫をおそれ、草稿は少数の友人に見せたのみで、そのままひそかにしまいこまれた。
以後彼は、約13年、聖職者として実務に従いながら天体の観測と論文の手直しをつづけたが、理解者たちに激励されて、ついにこの自説を著書として出版することを決意した。が、彼は1542年以来脳溢血の発作をくりかえすようになり、上記の『天体の回転論』の初版が病床にとどけられたのは、実に彼が息をひきとる翌1543年5月24日のことであった。日本では天文12年種子島に鉄砲伝来の年。
彼の本の出版に尽力した友人の司教ティデマン・ギーゼは知人に知らせた。「彼は脳溢血の結果の右半身麻痺でだいぶ前からすべての記憶を失っていたので、息をひきとった5月24日には、もう完成した論文を見ることはできませんでした」
しかし彼は、地動説発表と同時に死んだから、彼個人は迫害の憂き目を見ずにすんだのである。彼の説を決定づけたガリレオは、コペルニクス後約一世紀を経ているのに、なお異端審問所に屈服を余儀なくされた。

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