じじぃの「人の死にざま_186_斉藤・茂吉」

斉藤茂吉 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%96%8E%E8%97%A4%E8%8C%82%E5%90%89/8208/
斎藤茂吉記念館:ホームページ
http://www.mokichi.or.jp/
斎藤茂吉 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
斎藤茂吉は、山形県南村山郡金瓶村(現在の上山市金瓶)出身の歌人精神科医である。伊藤左千夫門下。大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。長男に斎藤茂太、次男に北杜夫、孫に斎藤由香がいる。また、妻の弟齋藤西洋の妻の兄は堀内敬三

                                        • -

日本史有名人 [おやじの背中]  新人物往来社/著 新人物文庫 2009年発行
斉藤茂吉 自己顕示欲と才能で成功を収めた養父 【養父】斉藤紀一 (一部抜粋しています)
東北は山形県に生まれた歌人斉藤茂吉には、実父守谷熊次郎と養父斉藤紀一という2人の父がいる。
実父熊次郎は小柄であったが、意欲に溢れた好漢で、茂吉誕生時は31歳。4町5反の地所を持つ、金瓶村(現上山市)の旦那衆の1人であった。田畑のほかに、これから発展していく養蚕や蚕種業を始めるという才覚を持ち合せていた。何事にも積極的で、歌や踊り、果ては砲術まで習った。政治にも関心が深く、隣家宝泉寺の窿応住職に草稿を書いてもらい、政談演説までやったという。
この窿応和尚は、茂吉の優れた才能を愛し、9歳から習字や漢文を教えた。一時は、自らの後継者とまで考えたようだ。養父紀一と茂吉を結びつける仲立ちとして、その生涯を決定づけたのも彼であった。
茂吉の生家守谷家と紀一の斉藤家とは親戚同士であり、少年茂吉も紀一の父三郎右衛門に凧絵を習っている。
当時、斉藤紀一は東京で浅草医院を開業していた。斉藤家は農家で名主の家柄だったが、紀一は明治13年(1880)に上京し、ドイツ語を取得。いったん帰郷して山形医学校を卒業後、済生学舎で学び、21年に医学開業試験合格、24年に浅草の地で開業したのである。
紀一は優れた資質の茂吉を窿応から知り、彼を引きとって医学を修めさせ、ゆくゆくは東大卒の医者として養子にでもするつもりであった。ただ、これは茂吉の出来がよければの話であり、斉藤家に引きとられた当初の茂吉の立場ははなはだ不安定なものだったらしい。風呂場の2階に部屋があてがわれた、いわば書生の1人しかなかった。
この紀一は、名誉心と事業欲が非常に強い、いってみれば自己顕示欲の固まりのような人物だった。しかし、患者の頭に聴診器を当てたり、「頭の中が相当腐っておる」と診断するなどの印象的なエピソードからは、自己顕示欲の強烈な人から受ける不愉快さがあまり感じられない。
茂吉の長男で自らも精神科医の茂太は、紀一を「我々には恥ずかしくて到底口にできないような言葉が紀一の口からはよどみなくすらすらと出た。お世辞を云い、おだて、人をいい気にさせる。こういう点では紀一は一種の天才と云えた」と評する。茂吉の次男宗吉、すなわち北杜夫(もりお)の名作『楡家(にれけ)の人々』には、紀一をモデルとした基一郎が生き生きと描かれ、実際の紀一を彷彿とさせる。
    ・
昭和3年(1928)、紀一は63歳で亡くなる。前年、青山脳病院長に就任した茂吉は、次のように詠んで往事を回想した。
 かぞふれば明治二十九年われ十五歳
  父三十六歳父斯(か)く若し
                                  (小池博明)

                                        • -

『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
斉藤茂吉 (1882-1953) 71歳で死亡。 (一部抜粋しています)
茂吉は敗戦後の昭和21年ごろから飛蚊(ひぶん)症(眼球硝子体の混濁により眼前に蚊が飛んでいるように見える症状)を訴えはじめ、以来年ごとに老化現象を深めていった。
68歳の昭和25年10月には、左半身の麻痺を起した。やがてこれは軽くなっていったが、それ以来左脚を軽くひきずって歩くようになった。そのころ彼は、息子の茂太に、「俺の仕事は終わった。あとは最悪の場合を考えていればまちがいないよ」といった。
まことに斉藤茂吉は、彼の人生が入日にはいった昭和21年から22年にかけての歌集『白き山』で、彼の歌の最高境地に達していた。
 けふ一日雪のはれたるしづかさに
  小さくなりて日が山に入る
 最上川の流のうへに浮びうけ
   行方(ゆくへ)なきわれのこころの貧困(ひんこん)
 最上川逆(さか)白波のたつまでに
  ふぶくゆふべとなりにけるかも
26年4月5日、アララギ歌人柴生田稔は訪ねて、
「対面した茂吉は、すでに顔面の筋肉が弛緩して、別人のような風貌になっており、私は何とも言いようのない衝撃を受けた」と書き、さらに、「茂吉が、ほとんど口を利くのも億劫(おっくう)にするようになった頃の或る日、夫人が、以前は机に向かって何か彼にかしていたのでしたが、もう全く何にもしなくなりましたと、寂しそうに語られたことも私は忘れることが出来ない。そうして、その時の茂吉は私たちの傍に茫然としていたのであった」と書く。知能の働きも完全に停止していたのである。
    ・
27年3月30日、妻や息子の茂太や北杜夫に護られて浅草観音に詣り、抱きかかえられて左手だけで拝(おが)んだ。
その年から自分の手で食事をすることが難しくなり、食事をしたことを忘れるようになり、寝床からオイオイと盛んに家人を呼び、自分が放擲(ほうてき)されているような被害妄想を現わすようになった。そして暮れからは完全な寝たきり老人になった。
茂吉の最後の歌はしかしこの年に作られる。
 いつしかも日がしづみゆきうつせみの
  われもおのづからきはまるらしも
28年2月25日午前11時ごろ、突然顔色が蒼白になり、脂汗が流れ出し、最後にはいつ呼吸がとまったのかわからないような状態で、11時20分心臓が停止した。
息子の茂太は医師として解剖を希望した。茂太の表現によれば「ドライな合理主義者」である妻の輝子はただちに賛成した。
26日、東大病理学教室で解剖した結果によると、要するに高度の動脈硬化症による老衰死であった。
茂吉の妻輝子は彼より13歳も若く、茂吉が幼な妻と呼んだほどであったが、茂吉の死後、鳥の羽ばたくごとく全世界を飛びまわり、その天衣無縫ぶりから世に「快妻オバサマ」と呼ばれた。88歳でなおインド洋のセーシェル諸島に旅し、翌年の昭和59年、茂吉の死後31年目にして胆嚢(たんのう)ガンで死去した。