じじぃの「人の死にざま_169_ヘプバーン」

オードリー・ヘプバーン - あのひと検索 SPYSEE
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名作映画で英語学習① 動画 YouTube
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オードリー・ヘプバーン Audrey Hepburn
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映画 「ローマの休日

オードリー・ヘプバーン ウィキペディアWikipedia)より
オードリー・ヘプバーン(1929年5月4日-1993年1月20日)は、イギリスの女優。
【キャリア】
ローマの休日』のアン王女役のスクリーンテストに合格。パラマウント映画と契約し、アメリカにおいて映画初出演を果たす。『ローマの休日』のアン王女役で一躍有名となり、女優業での成功がほぼ確実視されている状況となると、専属するパラマウント映画は、オードリーの為に次回作を用意するも、彼女はブロードウェイの舞台『オンディーヌ』への出演を熱望する。もちろん、偉大な映画作家達の作品と名優との共演という筋書きを整えていたパラマウント映画は大反対するも、オードリーは反対を押し切るかたちで舞台への出演を行う。結果的には舞台作品『オンディーヌ』においてトニー賞の主演女優賞を受賞し、舞台女優としても大成功を収めることとなる。
華奢で日本人に親しみやすい風貌と言われ、その衣装も憧れの的となり、当時の女性達の間ではヘップバーン・カットやサブリナパンツなどブームとなった現象も数ある。現在でもその人気は根強く、写真展等のイベントが開催されるほどである。映画への出演数はそれほど多くはないものの、『ローマの休日』ではアカデミー主演女優賞を獲得(イタリア・ローマで開催されたプレミアではイングリッド・バーグマンがオードリーの演技に感動して泣いてしまった)。
その後も『麗しのサブリナ』、『ティファニーで朝食を』、『マイ・フェア・レディ』等に出演。本人によると『マイ・フェア・レディ』では、ごく一部を除き歌唱部が吹き替えられ、また『ティファニーで朝食を』では主人公が彼女の本来のイメージとはかけ離れており、どちらもがっかりしたという。ただし、作曲家のヘンリー・マンシーニは彼女をイメージして名曲『ムーン・リバー』を作曲して、広く親しまれている。
【晩年】
1989年の引退後に、国際連合児童基金ユニセフ親善大使に就任し、当時内戦の続くソマリアスーダンなどの子どもたちに笑顔を届けた。就任の際に、オードリーは「わたしは、ユニセフが子どもにとってどんな存在なのか、はっきり証言できます。なぜって、私自身が第二次世界大戦の直後に、食べ物や医療の援助を受けた子どもの一人だったのですから」と語っている。その一方で『世界の庭園(庭園紀行)』という番組のホスト役として、7ヶ国、16の庭園を訪れる。
1993年1月20日、スイス・ローザンヌ近郊のトロシュナ村で大腸がんのため亡くなる。
死後10年以上経つ現在でもなお「スクリーンの妖精」として世界中のファンを魅了し続けている。

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人びとのかたち 塩野七生/著 新潮文庫 1995年発行
女の生き方 (一部抜粋しています)
オードリー・ヘプバーンが死んで、日本ほどではないがイタリアでも哀惜の空気に満ちている。最後のスターだったと、私も思う。
まず、美形かどうかには関係なく、美しかった。第2に、イヤ味のない演技巧者だった。第3に、登場してきただけで目立ってしまう、華(はな)があった。そしてエレガントで、センスが良くて、品があった。
オードリーの出世作と衆目一致の『ローマの休日』は、1953年の製作である。その年、わたしは17歳。ということは、私にとっては同世代のスターということになる。ならば、ものすごく影響を受けていなければならないはずだ。私は、しごくまっとうにミーハーであったもので。
ところが、考えてみるや意外と影響を受けていないですね。若い女にとって影響を受けるということは、それが同性によってもたらされるものならばなおのこと、感情移入をできるか否かにかかっているのではないかと思う。それなのに私は、彼女の演ずる女たちに感情移入ができなかったのだ。
オードリーの数ある出演作品の中でも、作品の出来には関係なく女たちに人気があるのは、つまり彼女たちが何度観てもうっとりするのは、『ローマの休日』『麗しのサブリナ』『昼下がりの情事』あたりではないかと思う。
ローマの休日』は、御存じプリンセスの、ローマならではの休日のオハナシ。それが残りの2作になると、いずれも、比較的にしても貧しい若い娘が、大金持の中年の男と結ばれるオハナシになる。つまり、女には多いといわれるシンデレラ症候群に、ぴたりと照準を合わせたからヒットしたのだと思う。『サブリナ』のハンフリー・ボガードの、『昼下がり』のゲイリー・クーパーの役どころが、もしも大金持でないただの中年の男であったなら、まずもって現実的な話になっていたであろうし、なによりも、それでもイイなんて言う私のような、非シンデレラ症候群女しか観に行かなかったであろう。
それでも、影響は皆無というわけではない。『ローマの休日』のほうは、それより数年して私自身が徹底して追体験したので、思う残しはなくなった。『麗しのサブリナ』は、今に至るまで影響している。あの映画に、パリから戻ったオードリーのあまりの変身に、ウィリアム・ホールデンが、運転手の小娘とは気づかない場面がある。そのシーンで、パリ帰りのオードリーのもっていたスーツケース一そろいが、白い羊皮製であったのだ。とたんに私は、優雅な女のスーツケースはあれでなくてはならぬ。と心に決めた。この表現には、相当な歳月を要した。なにしろ、やたらと値が張ったからだ。それでも、今では一そろいはもっている。ただし、白い羊皮のスーツケースをもって旅するのは、エレガントかもしれないが不都合も多い。
あのタイプのスーツケースには、引いて運ぶための"車輪"をつけるわけにはいかない。それで、赤帽もいなく手押し車もないところでは、私は完全にお手あげとなる。日本の男は、未知の女には絶対、手助けしないからなおのことだ。送迎という虚礼を嫌っていた私だったが、ペルガメーナのスーツケースで旅をしたければ、それを受けざるをえなくなったのであった。
『昼下がりの情事』をはじめて観たのは、私が20歳頃ではなかったかと思う。あの年頃ならば、大金持と結婚するオハナシに、うっとり観入ってもよかったはずである。
ところが、私の非シンデレラ症候群の源泉は、一生おかねもうけには縁のなかったわが父と、12、3歳の頃に観た『摩天楼』のゲイリー・クーパーにあるから、このときもシンデレラ・オードリーに感情移入ができなかったのだ。『摩天楼』は、自分の建築理念のためにはおかねにも妥協しない男の話である。それで、『昼下がり』もクーパーには大金持の役は似合わない、と思いながら観る始末だった。
ただ、一場面だけ、眼からウロコが落ちる想いになったことを覚えている。劇場の天井座敷にいたオードリーの視点からとらえたシーンなのだが、女を同伴して一階席に移ってくるクーパーを、背中から映した場面だった。私はその瞬間、中年の男の魅力は背中に出る、と痛感した。歴史小説を書くときに、一度ぐらいは使ったのではないかと思う。若い男と比較して、年を重ねた男の魅力を描出したかったときに。
とはいえ、こんな具合で、女優としてオードリーは立派だと思うが、彼女の演ずる女たちには共鳴しなかったのだから、私はヘソ曲がりの女であったのかもしれない。金持であることが、男の魅力に少しも影響しないというわたしの性向は、おんなとしては救いようのない欠陥であると、自ら認めているのだが。
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オードリーの演じた女たちには共鳴できなかった私だが、女としてのオードリーには共鳴できるのである。これからは、8歳年下でも排除するのはやめよう。結婚なるものはもう経験したのだから、愛したら結婚すべきなどという、若い女的現象から自由に生きたのにも賛成だ。

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