じじぃの「人の死にざま_166_沢村」

沢村栄治 - あのひと検索 SPYSEE
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沢村栄治プロ野球・元巨人軍) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Iu9tlOqlL8o
沢村栄治 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
沢村栄治は、三重県出身のプロ野球選手(投手)。
【経歴】
1917年2月1日、三重県宇治山田市(現・伊勢市)の澤村賢二・みちえ夫婦の長男として生まれる。京都商業学校(現在の京都学園高等学校)の投手として1933年春、1934年春・夏の高校野球全国大会(当時は中学野球)に出場。1934年の夏の大会終了後に京都商業を中退して、読売新聞社主催による日米野球の全日本チームに参戦。
11月20日静岡県草薙球場で開かれたアメリメジャーリーグ選抜軍との対戦でベーブ・ルースルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックスを三振にしとめるなどの好投を見せた。また、別の試合では、ドロップ(カーブ)を投げるときに舌を出すという癖を見抜かれ、10失点以上のメッタ打ちに遭っている。1試合を完封に抑え一矢を報いるはずだったがこれも2130試合連続出場のゲーリッグの1発を浴び、シリーズは9戦全敗に終わった。しかし、この時にルーは沢村の直球が打てないと悟り、変化球を狙うバッティングに切り替えている。僅か17歳だった少年の好投はアメリカ選抜軍の選手にも強い印象を残した。
【獲得タイトル・記録】
・最優秀選手:1回(1937年春)
最多勝利:2回(1936年秋、1937年春)
最優秀防御率:1回(1937年春)
・最高勝率:1回(1937年春)
最多奪三振:2回(1937年春、1937年秋) ※当時はタイトルではない
ノーヒットノーラン:3回
  1936年9月25日、対大阪タイガース戦(甲子園)
  1937年5月1日、対大阪タイガース戦(洲崎)
  1940年7月6日、対名古屋軍戦(西宮)

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
沢村栄治 (1917-1944) 27歳で死亡。
昭和9年11月、はじめて来日したベーブ・ルース、ゲーリックらのアメリカ大リーグを迎え、ゲーリックのホームランによる1点だけに抑えるという偉業をなしとげたため、後年セ・リーグの最優秀投手に授けられる「沢村賞」を残した沢村栄治は、これを機とする日本のプロ野球創設とともに巨人軍のエースとなったが、昭和13年日中事変に出征し、左腕に負傷して昭和15年復員したものの、昭和16年10月再召集されてフィリピン上陸作戦に上等兵として参加した。昭和18年1月にまた帰還して巨人軍に復帰したが、相つぐ兵役のため肉体的にも技術的にも彼の投手生命はすでに失われていた。昭和18年10月24日、西宮球場での対阪神戦に、青田昇の代打としてファイル・フライを打ちあげたのが彼の最後のプレイであった。
昭和19年10月、3度目の召集を受け、11月27日、門司から輸送船で南方へ向かう途中、12月2日午前4時30分、屋久島西方の東支邦海でアメリカ潜水艦のために撃沈され、彼も散華(さんげ)した。