じじぃの「人の死にざま_162_中村・八」

中村八大 - あのひと検索 SPYSEE
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梓みちよ/こんにちは赤ちゃん 1963年(昭和38年) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=yMMsGdah_uM
中村八大メドレー 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=gFORlx3iRn0
徹子の部屋 「永六輔 現役続行の勇気をくれた盟友の激励」 2013年3月21日 テレビ朝日
現在パーキンソン病を患いながらも精力的にラジオ番組や講演活動を続ける永六輔さんを迎える。懸命にリハビリをこなして病気と闘う日々のエピソードを明かして黒柳を笑わせる。永さんと黒柳の出会いは今から60年ほど前に遡る。今日は2人に共通する盟友たちの秘話が次々と。渥美清さん、小沢昭一さん、井上ひさしさん、中村八大さん等の素晴らしい人柄が浮き彫りに…。
☆本
永六輔のお話し供養」 小学館
「無名人のひとりごと」 (株)金曜日
http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/html/130321.html
中村八大 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
中村八大(1931年1月20日-1992年6月10日)は、中国青島出身の作曲家・ジャズピアニスト。
上を向いて歩こう』、『こんにちは赤ちゃん』、『遠くへ行きたい』、『明日があるさ』など、1950年代末から1960年代にかけての数々のヒット曲を作曲した。
兄の中村二大はクラリネット奏者。妹の夫は漫画家の寺田ヒロオ

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昭和 僕の芸能私史 永六輔/著 朝日新聞社 1999年発行
昭和37(1962)年 「こんにちは赤ちゃん」秘話 (一部抜粋しています)
17歳の吉永小百合が主演した「キューポラのある街」(浦山桐郎監督)。この映画の中で、朝鮮民主主義人民共和国へ帰国する人たちがドラマの重要な場面になっていて、時代背景がよくわかる。
工場街だった川口は、今やマンション街。キューポラで働く男の男の銅像は駅前の近代ビルに圧倒されてひっそりと建っていた。
荒川をはさんで足立区と隣り合わせ、埼玉県というより東京都の気分なので、選挙が難しいと聞いた。
選挙ならタレントが強いけど、それを最初に証明したのがこの年、NHKテレビ「私の秘密」の藤原あき。
以後、テレビタレントは多く自民党にかつぎ出されることのなる。
そして政治家になって知られた名前ほどに活躍した人はまだいない。
この反対で、知名度がまったくなくてヒーローになったのが堀江謙一の「太平洋横断」。
僕がこのニュースを知ったのは漫画家・久里洋二のボートで神奈川県の葉山を出航、悪戦苦闘の航海で瀬戸内海に入った時だった。
寄港した波止場で見かけた新聞のトップに「太平洋横断」とあり、すっかり気力を失ったことを覚えている。
・・・・久里洋二艇は進水式からついていなかった。
舳先(へさき)でシャンパンを割るつもりが、舳先のほうがポコンとへこんでしまったのと、その舳先に吊ったクス玉の位置が低く、割れると同時に舞い上がるはずの鳩は、そのまま海に落ちて溺れてしまったのである。
本当にこの航海は不運だった。
しかし堀江謙一は記者会見で、心細い時には「上を向いて歩こう」を歌っていたと嬉しいエピソードを紹介。
その曲が、アメリカで「スキヤキ」としてヒットするのが、その直後だっただけに忘れられない。
歌でいえば、この年、「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾)がヒットし、後に同名の旅番組になって、今も日曜日の朝に放送されている。
そしてSKDをやめて歌手デビューしていたのが賠償千恵子。
彼女が「下町の太陽」をヒットさせて、逢った時に、いきなり「先生」と呼ばれて面くらったが、「だって、私、小学生の頃によく勉強を見ていただいたから、先生です」との返事。
たしかに、そんなことがあった。
小学生の彼女を膝の上に載せている証拠の写真も見せてもらった。
僕の家では千絵に続いて、2人目の娘、麻里が生まれていた。
そして、中村八大にも待望の長男が生まれる。
僕が八大と産院に駆けつけた時、緊張していたこの父親は、ガラス越しに看護婦さんの抱く赤ちゃんに向かって「はじめまして、父親です」と、きちんと挨拶をした。
こうして「はじめまして」と赤ちゃんに挨拶する歌ができた。
最初は「はじめまして」に続いて、「私がパパだ」となっていて、八大はこの曲を自分で歌っていたのである。
「その歌をパパではなくて、ママにできませんかね」
そう言いだしたのは「夢で逢いましょう」のディレクター、末盛憲彦だった。僕は反対した。
「生まれてきて、はじめましてというのは父親の歌で、母親は、妊娠したとわかった時に『こんにちは』という感覚ではないだろうか」
いつでもそうだが、中村八大は僕の意見を無視して、このパパの歌をママの歌にしてしまった。
この歌は梓みちよが歌うことになったが、実は「さようなら赤ちゃん」という歌が先にあったのだ。
芥川也寸志作曲、草笛光子主演のミュージカル「歯車の中で」。
大江健三郎原案で、作詞が僕。
ドラマの中で、妊娠したものの流産してしまった主人公が歌ったのだ。
「さようなら赤ちゃん」と「こんにちは赤ちゃん」。僕の中ではつながっている。
ミュージカルや主題歌の作詞が忙しくなったが、放送をベースによく働いていた。
この頃から、「呼び屋」と呼ばれる海外スター招聘(しょうへい)プロモーターが活躍しだして、この年には、イブ・モンタンフランク・シナトラという大物が来日公演した。

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