じじぃの「人の死にざま_120_ドガ」

エドガー・ドガ - あのひと検索 SPYSEE
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Edgar Degas 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=4x6QJMCRhJE
『すぐわかる画家別印象派絵画の見かた』 島田紀夫/監修 東京美術 2007年発行
印象派を生み出した画家とその周辺 (一部抜粋しています)
エドガー・ドガ
シャルル・グレールの画塾に通わなかったドガがのちの印象派の画家たちに出会ったのは、おそらくパリのカフェ・ゲルボアにおいてだった。同時代の都市を描くという点で、ドガは他の若い画家たちと関心を共有した。
「踊り子の画家」として知られるようになるドガは、バレエを主題にとりいれた最初の作品≪バレエ『泉』のなかのフィオークル嬢≫(ニューヨーク、ブルックリン美術館所蔵)を1866年に制作。その後、バレエそのものに焦点をあてるようになり、描かれる踊り子たちは劇場でスポットライトを浴びているだけではなく、稽古場での日常を見せるようになる。踊り子たちが練習や授業を受ける様子は、一瞬にして過ぎ去る日常風景を描くドガにとって重要な画題であった。
バレエの踊り子、洗濯女、カフェ・コンセールの歌手、帽子屋の売り子、娼婦など、都市に暮らす人びとの孤独や、都市労働者の姿はドガの好んだ画題だった。
彼の用いた技法は、油絵のみではなかった。視力の低下に悩まされるようになったドガは、目を近づけて制作できるパステルを用いる一方、写真にも熱中した。写真の可能性を追求したドガは、絵画制作に利用するにとどまらず、ルノアールマラルメら知人たちのポートレートを撮影した。さらに目が悪くなると、蝋(ろう)で小さな彫刻を制作した。その主題も、やはり踊り子や裸婦だった。ドガは、人の動きに興味があったのだ。
1886年の第8回印象派展に参加したのち、彼は、画商を通して少数の作品を売るのみで、大半の作品は自分の手元に残しておいた。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ドガ (1834-1917) 83歳で死亡。
逆行の中に、踊り子や競馬や洗濯屋や帽子屋など、ムーヴマンの瞬間的な動きをとらえて、数々の近代的な傑作を描いたドガは、生来の鋭敏な性格のためか、ついに生涯独身で、世に大家と認められながらも友人もほとんどいなかった。
1877年彼が43歳ころ、その数少ない友人の1人に「私の眼の前に薄い雲のようなものが通り過ぎるのが見えるようになりました」と書いたドガの眼は、晩年いよいよ悪化し、ある日画室でモデルを描きながら、突然両眼をおさえて倒れたことがあった。
そしてついには片眼は完全に失明し、残る片眼もわずかに見えるほどになってからは、彼は手さぐりで彫刻を彫るようになった。
さらに悪いことに、1912年、住み慣れたパリ、ヴィクトル・マッセ街のアパルトマンを土地収用のため追い立てられた。彼は新しい別の住居になじめず、町を徘徊し、いつのまにか昔の取り壊しの行われている工事現場の板囲いに、まだ視力の消え残った片方の眼をおしあてるのだった。・・・・
ドガは新しいアパルトマンで家政婦と2人で暮らし、賛美者が訪れても「絵? そんなものは私は興味ないね」と横をむき、記者がインタビューにやって来ても、「おれは君なんか知らないよ」と追い返し、いよいよ孤独狷介(けんかい)な老年を過ごした。
彼はついに完全に失明に近い状態になり、1917年9月はじめ病床につき、26日夜、脳溢血を起して死んだ。
ドガの言葉
「芸術は広がるものではなく、くりかえすものだ」

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エドガー・ドガ-主要作品の解説と画像・壁紙
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