じじぃの「人の死にざま_111_ヒッチコック」

映画「ヒッチコック」予告編 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=qkjZY5rsUq4
プレミアム8<文化・芸術> 巨匠たちの肖像「ヒッチコック サスペンスの深層」 2009年11月17日 NHK HI
“サスペンスの神様”と呼ばれた映画監督アルフレッド・ヒッチコック。「サイコ」に隠されたメッセージや、「鳥」の合成技術の再現から、作品に込められた思いを探る。
https://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20091117-10-03908
アルフレッド・ヒッチコック ウィキペディアWikipedia) より
サー・アルフレッド・ジョウゼフ・ヒッチコックは、イギリスの映画監督、映画プロデューサー。1939年からはおもにアメリカで活躍した。スリラー映画で成功し、製作・脚本・編集・美術も手がけた。サスペンス映画の神様とも称される。
【生い立ち】
1899年8月13日ロンドンのレイトンストーン生まれ。青物商のウィリアム・ヒッチコックと妻のエマ・ジェーン・ヒッチコック(旧姓ウェーラン)の三人の子供の二番目であった。一家はアイルランドカトリック教徒であった(イギリスでは少数派)。ヒッチコックはロンドンでカトリックの寄宿学校に入学し、後に彼は幼年期は孤独であったと語っている。
【ハリウッド】
1940年にヒッチコックアメリカでの初作品『レベッカ』を制作する。同作の企画はイギリスで行われ、原作もイギリスの作家ダブネ・デュ・モウリアによるものであった。作品はジョーン・フォンティン演じるヒロインが後妻として入ったイギリスの屋敷での出来事を描くサスペンスで、1940年のアカデミー最優秀作品賞を受賞した。
【主な作品】
レベッカ』 - Rebecca (1940) アカデミー作品賞
『海外特派員』 - Foreign Correspondent (1940)
『スミス夫妻』 - Mr. & Mrs. Smith (1941)
『断崖』 - Suspicion (1941)
『逃走迷路』 - Saboteur (1942)
『疑惑の影』 - Shadow of a Doubt (1943)
『救命艇』 - Lifeboat (1943)
『闇の逃避行』 - Bon Voyage (1944)
マダガスカルの冒険』 - Aventure Malgache (1944)
『白い恐怖』 - Spellbound (1945)
『汚名』 - Notorious (1946)
パラダイン夫人の恋』 - The Paradine Case (1947)
『ロープ』 - Rope (1948)
山羊座のもとに』 - Under Capricorn (1949)
『舞台恐怖症』 - Stage Fright (1950)
『見知らぬ乗客』 - Strangers on a Train (1951)
私は告白する』 - I Confess (1953)
ダイヤルMを廻せ!』 - Dial M for Murder (1954)
『裏窓』 - Rear Window (1954)
泥棒成金』 - To Catch a Thief (1955)
『ハリーの災難』 - The Trouble with Harry (1955)
『知りすぎていた男』 - The Man Who Knew Too Much (1956)
『間違えられた男』 - The Wrong Man (1956)
『めまい』 - Vertigo (1958)
北北西に進路を取れ』 - North by Northwest (1959)
『サイコ』 - Psycho (1960)
『鳥』 - The Birds (1963)
『マーニー』 - Marnie (1964)
『引き裂かれたカーテン』 - Torn Curtain (1966)
『トパーズ』 - Topaz (1969)
『フレンジー』 - Frenzy (1972)
『ファミリー・プロット』 - Family Plot (1976)

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ヒッチコック (1899-1980) 81歳で死亡。 (一部抜粋しています)
アルフレッド・ヒッチコックは、10歳のころから肥満症に悩んでいた。彼は一生、減量のためにありとあらゆる療法を試みたがだめであった。
映画監督になってから、彼が自分を自作映画の1シーンに必ず登場させたギャクは、ただのお遊びでなく、ひとから笑われるより先に自分で戯画化するという、彼の映画を成立させているデリケートなバランス感覚から出た心理的必然性によろものであった。
ヒッチコックは1976年、77歳のときの「ファミリー・プロット」の脚本製作中に心臓発作で倒れ、以後ペースメーカー(心臓の拍動を1分間70回のペースで保つ医療器具)を胸にとりつけて、この映画を完成させた。
それから次回作「みじかい夜」の準備にとりかかったが、腎臓病と関節炎も併発して、車椅子によらなければ動くことも不自由となり、ただ脚本をいじりまわしていることを余儀なくされ。本人も自棄的になり、自分のプロダクションの事務所にやって来ると、看護婦の眼を盗んだコニャックをがぶ飲みし、泥酔状態になってかつがれて帰ると言う毎日になった。
1979年3月7日、AFI(米国映画協会)から功労賞が贈られ、その受章祝賀会でイングリッド・バーグマンケイリー・グラント、ジュームス・スチュアート、アンソニー・パーキンスなどのスターが代る代るお祝いの言葉を述べた。
ヒッチコックは、1週間前からアルコールを断ってこの日にそなえ、車椅子で出席したが、出席者たちは彼がこのパーティのおしまいまで保(も)つかどうか、ハラハラのし通しであった。彼は車椅子から立ちあがれない状態であったが、ともかくも挨拶をした。その中で彼は、「私は、私の仕事においてだれよりも貢献してくれたある人々の名をあげなければ、これから眠れぬ夜を過ごさなければならないでしょう。その1人はシナリオ・ライター、1人は私の映画の編集者、1人はみごとな奇蹟をみせてくれた料理人、1人は私の娘の母親で、この4人の名前はひとしくアルマと申します」とのべた。
彼の妻アルマは、しかし数年前から脳溢血で倒れ、以来病床にあった。
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8月13日、彼は80歳の誕生日を迎えたが、そのころの彼について知人は語る。「彼は『みじかい夜』のシナリオを眼の前において、いつもの調子で、その中のシーンをどんな風に撮(と)るかあれこれ語ってくれたが、もはや彼自身がそれが実現するとはまったく信じていないことはあきらかだった」
彼は、翌1980年4月29日にこの世を去った。

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ヒッチコックの言葉
「私の専門は恐怖を作ることである」
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