じじぃの「人の死にざま_103_新渡戸・稲造」

あの人に会いたい 新渡戸稲造 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0/1656/
新渡戸稲造第1弾 〜世界を結ぶ志〜 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=CTk97Tx_MlQ
ありえへん世界 「波瀾万丈伝“偉人を陰で支えた…ニッポンの妻SP!」” 2015年3月17日 テレビ東京
【司会】関ジャニ
●あの偉人を陰で支えたニッポンの妻
旧5千円札に描かれている新渡戸稲造を陰で支え続けた外国人妻メリー。 明治から大正にかけ、日本の文化や風習を海外に広めた教育学者、新渡戸稲造その名を世界に知らしめた1900年にアメリカで出版された1冊の本“BUSHIDO’武士道)”。
新渡戸稲造1862年岩手県盛岡で武士の家に生まれた。21歳の時、東京大学に進学し英文学を専攻。面接にあたり英文学専攻の理由を尋ねられた稲造は「もし天が許すなら、日本の文化を西洋に伝えまた西洋の文化を日本に伝える。太平洋の架け橋になりたい」と語った。
22歳の時、アメリカへ留学した稲造は教育者として活動していたメリーと出会った。しかし親からの反対に合った稲造は自分の父に手紙を書いた。そして父親からの返事は50枚にも及ぶ長文の便箋。その内容は日本人と外国人が結婚し失敗に終わった実例が書かれていた。更にメリーの父親からも反対された。だが稲造の熱意にメリーの父親は結婚を認めざるを得なかった。
1891年1月、稲造とメリーは国境を越えて結婚。2人で帰国し夫婦生活を始め稲造は母校の教授に着任した。
メリーと稲造は散歩中に会った知り合いと世間話をしていると彼女は日傘を降ろし日が照りつける中、そのまま話し始めた。メリーは話を聞きながらも日傘を下ろした彼女の風習に疑問がわいた。メリーからの質問がきっかけで稲造は外国人が日本文化で理解できない疑問を解決し、日本の良さを世界に伝え太平洋の架け橋になる一番の近道を考えた。
そして1900年、「武士道」を出版。本には様々な外国人目線の日本文化への疑問が綴られている。妻の疑問を引用し、著書では日本人が相手を敬う“謙譲の心”を説明。外国人が不思議に思う日本人の文化や風習を解説したこの本は20ヵ国以上に翻訳され世界的ベストセラーになった。稲造は1920年、日本人としては初めて国際連盟事務局次長になりこれまでの功績を称え「太平洋の架け橋」と呼ばれるようになった。
http://www.tv-tokyo.co.jp/ariehen/
『武士道』 新渡戸稲造/著 奈良本辰也/訳・解説 三笠書房 (一部抜粋しています)
サクラは「ヤマト魂」の典型
マッシュー・アーノルドが定義したように宗教が「情念によってひきだされた道徳」にすぎないものであるとすれば、武士道はまさしく、宗教の列に加えられるべき資格を有する道徳体系に他ならない。
本居宣長
 しきしまのやまと心を人とはば
 朝日ににほふ山ざくらばな(肖像自讃)
と詠んで日本人の純粋無垢な心情を示す言葉として表した。
たしかに、サクラは私たち日本人が古来からもっとも愛した花である。そしてわが国民性の象徴であった。宣長が用いた「朝日ににほふ山ざくらばな」という下の句に特に注目されたい。
大和魂とは、ひ弱な人工栽培植物ではない。自然に生じた、という意味では野生のものである。それは日本の風土に固有のものである。その性質のあるものは偶然、他の国土の花と同じような性質を有しているかもしれない。だが本質において、これは日本の風土に固有に発生した自然の所産である。
また、私たち日本人のサクラを好む心情は、それがわが国固有の産物である、という理由によるものではない。サクラの花の美しさには気品があること、そしてまた、優雅であることが、他のどの花よりも「私たち日本人」の美的感覚に訴えるのである。私たちはヨーロッパ人とバラの花を愛(め)でる心情をわかち合うことはできない。バラには桜花のもつ純真さが欠けている。それのみならず、バラは、その甘美さの陰にとげを隠している。バラの花はいつとはなく散り果てるよりも、枝についたまま朽ち果てることを好むかのようである。その生への執着は死を厭(いと)い、恐れているようでもある。しかもこの花はあでやかな色合いや、濃厚な香りがある。これらはすべて日本の桜にはない特性である。
私たちの日本の花、すなわちサクラは、その美しい粧いの下にとげや毒を隠し持ってはいない。自然のおもむくままにいつでもその生命を棄てる用意がある。その色合いはけっして華美とはいいがたく、その淡い香りには飽きることがない。
草花の色彩や形状は外から見ることしかできない。それらはその種類の固定した性質である。しかし草花の芳香には揮発性があり、あたかも生命の呼吸に似てかぐわしい。
そのためにあらゆる宗教的な儀式においては乳香りや没薬(もつやく)が重要な役割を演ずる。香りには精神に働きかける何かがあるのだ。
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短い快楽のひとときが終れば、人びとはあらたな力と充たされた思いをもって、日常の仕事に戻っていく。このようにサクラは一つではなく、さまざまな理由からわが日本国民の花となっているのである。
では、このように美しく、かつはかなく、風のままに散ってしまうこの花、ほんのひとときの香りを放ちつつ、永遠に消え去ってしまうこの花が「大和魂」の典型なのだろうか。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
新渡戸稲造 (1862-1933) 71歳で死亡。 (一部抜粋しています)
日米破局に至る前、アメリカに日本を理解させることに情熱を燃やしつくした代表的日本人。
青年時代クラーク博士に学び、「われ太平洋に架ける橋とならん」という志をたて、明治33年に英文『武士道』をアメリカで出版して多数の読者を得た新渡戸稲造は、しかし大正未年からのアメリカの排日移民問題、昭和初年からの日本の満蒙進出問題で、急激に高まるアメリカの日本への悪感情に悩まされつつ上記の目的のために努力した。
昭和8年夏、彼はカナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会の国際会議に出席したが、カナダ到着後すぐバンフに赴く車中で激しい腹痛を訴えた。
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10月16日午前、手術した。開腹してみてはじめて出血性膵臓炎(すいぞうえん)であることが判明した。手術後、彼はしきりに「足が痛い痛い」と訴え、またまどろみ、ときどき目ざめて手真似で話をしたが、夜にはいって容態急変し、午後8時35分に永眠した。病院をつつむオーク樹の森には、冷たい夜の雨がしずかに降っていた。
遺言らしいものはなかったが、重態に陥ってから書いた紙片を判別すると、それはどうやら「外国人の妻(アメリカ人、メリー・エルキントン、日本名万里子)を一人あとに残してゆくが、よろしく頼む」という意味らしかった。
メリー夫人は、夫が死んだあとさすがに落胆して眼をとじていたが、しかしとり乱すこともなく、博士の病状篤(あつ)しときいて続々輸血を申し出たバンクーバーの在留邦人に対し謝礼の言葉を伝えてくれるように、といった。それはあたかも日本の武士の妻のようであった。
矢内原忠雄はいう。「先生は猛火をおかして飛びこんで消防士の如く自分自身で焼け死にました」

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新渡戸稲造
http://www.makuya.or.jp/forjapan/kirisuto/nitobe.htm
【次代への名言】8月3日・新渡戸稲造 2009.8.3 MSN産経ニュース
「今後の道徳は武士道にあらずして平民道にあり」新渡戸稲造
 世界的名著『武士道』の著者の一文だけに、けげんに思われる方もおられると思う。その名も『平民道』(岩波文庫新渡戸稲造論集』所収)という、『武士道』の発表から約20年後にあたる大正8(1919)年の評論にある。
 新渡戸は旧暦で1862年のきょう、生まれた(戸籍の記載による。8日誕生説もある)。京都帝大や東京帝大の教授、東京女子大の初代学長を歴任し、1世紀も前に「品格」と「品性(キヤラクター)」がいかに大切かを説いた教育者。「太平洋の橋になり度(たい)」。30歳そこそこのときにたてたこの誓いの通り、第一次世界大戦後に発足した国際連盟事務局次長を7年間にわたって務めた国際人でもある。
 「武士道は一の独立せる倫理の掟(おきて)としては消ゆるかもしれない、しかしその力は地上より滅びないであろう。(中略)なおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう」
 こう『武士道』(原文は英文、矢内原忠雄訳)に記した新渡戸は、平民道にその後継を求め、武士階級というわくを超え、万民が「忠君の念、廉恥(れんち)心、人道なる思想」を身につけてほしい−と願った。そう、新渡戸にとって平民道とは、和魂を備えた「デモクラシー」だった。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090803/acd0908030236000-n1.htm