じじぃの「人の死にざま_87_ラフカディオ・ハーン」

小泉八雲 - あのひと検索 SPYSEE
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Kwaidan (trailer) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=D6vCcdEo41o
名著45 「日本の面影」:100分 de 名著 「小泉八雲 第1回 原点を訪ねる旅」 2015年7月1日 NHK Eテレ
【司会】伊集院光武内陶子 【ゲスト講師】池田雅之(早稲田大学教授) 【朗読】佐野史郎(俳優)
「並外れた善良さ」「辛抱強さ」「素朴な心」「察しのよさ」……今や失われようとしている、私たち日本人がかつてもっていた美質。
異邦人ならではの視点から、当の日本人ですら見過ごしていた日本の美しさ、精神性の豊かさを瑞々しい言葉で描き出してきた文学者・小泉八雲(旧名ラフカディオ・ハーン)。その初期の代表作が「日本の面影」です。7月の「100分de名著」では、優れた紀行文学であり、卓越した日本文化論としても読み解ける「日本の面影」を通して、「日本とは何か?」そして「異文化を理解するとはどういうことか?」をあらためて見つめなおしたいと思います。
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/45_omokage/index.html
小泉八雲 ウィキペディアWikipedia)より
小泉八雲1850年6月27日-1904年9月26日)は、新聞記者(探訪記者)・紀行文作家・随筆家・小説家・日本研究家。
【年譜】
1850年6月27日 - 誕生。父はチャールス・ブッシュ・ハーン、母はローザ・カシマティ。生地ギリシャレフカダ島からラフカディオというミドルネームを付けられた。
・1890年 - ハーバー・マガジンの通信員としてニューヨークからカナダのバンクーバーに立ち寄り4月4日横浜港に着く。7月、アメリカで知り合った服部一三(この当時は文部省普通学務局長)の斡旋で、島根県松江尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)と島根県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師に任じられ、8月30日に松江到着。
・1891年1月 - 中学教頭西田千太郎のすすめで、松江の士族小泉湊の娘・小泉節子(1868年2月4日-1932年2月18日)と結婚する。同じく旧松江藩士であった根岸干夫が簸川郡長となり、松江の根岸家が空き家となっていたので借用する(1940年、国の史跡に指定)。その年の11月、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身校。校長は嘉納治五郎)の英語教師。長男・一雄誕生。
・1894年 - 神戸市のジャパンクロニクル社に就職、神戸に転居する。
・1896年 - 東京帝国大学文科の英文学講師、帰化し「小泉八雲」と名乗る。秋に東京都新宿区富久町にへ転居する(1902年の春まで在住)。
・1904年3月 - 早稲田大学の講師を勤め、9月26日に狭心症により東京の自宅にて死去、満54歳没。戒名は正覚院殿浄華八雲居士。墓は東京の雑司ヶ谷墓地。
【評価についての論争】
東京帝国大学名誉教師となった日本研究者でハーンとも交友があったバジル・ホール・チェンバレンは、ハーンは幻想の日本を描き、最後は日本に幻滅したとした。また、ハーンが英語で発表した作品は同時代の日本では知られず、本格的に日本語に翻訳・紹介されたのは大正末期からであり(第一書房小泉八雲全集』など)、「天皇制を肯定、日本人独自論を提唱」しているハーンの著作は、戦前の日本ナショナリズムを補完するものとして受け止められた。
ハーン研究者でもある比較文学者の平川祐弘はチャンバレンの説に反対して、チェンバレンはハーンとの友情を破り、冷たい頭で日本を描いたが、ハーンは日本を愛し暖かい心で日本を描いたとした。しかしやはり比較文学者の太田雄三はこれに反論し、『B・H・チェンバレン』(リブロポート)や『ラフカディオ・ハーン』(岩波新書)で、ハーンは日本の過去を美化しすぎており、チェンバレンは学者として正確な日本像を描こうとしたのだと反論した。また、ハーン礼讃はナショナリズムの現われではないかとしてハーンのオリエンタリズムを批判する論者、あるいは「神々の国の首都」を書いたハーンが、明治期天皇制を日本古来のものと勘違いしたと指摘する者もいる(福間良明『辺境に写る日本』)。
また、平川・太田と同じ研究室(東大大学院・比較文学比較文化)出身の小谷野敦は著書『東大駒場学派物語』において、近年のハーン肯定論者の多くが同研究室の関係者であることを指摘し、「比較におけるナショナリズムがハーン賛歌の根底にある」としている。
平川も『ラフカディオ・ハーン』(ミネルヴァ書房)で、ハーンの筆致に誇張があったことを認めているが、上記のごとく、一部(左派系)文化人のハーンの「脱神話化」の試みにもかかわらず、現代の日本人の間での支持には確固としたものがある。三島由紀夫等も、川端康成との書簡のなかでしばしば、引用している。
【エピソード】
・16歳のときに怪我で左眼を失明して隻眼となって以降、晩年に到るまで、写真を撮られるときには必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、あるいはうつむくかして、決して失明した左眼が写らないポーズをとっている。
アメリカで新聞記者をしていたとき、「オールド・セミコロン(古風な句読点)」というニックネームをつけられたことがある。句読点一つであっても一切手を加えさせないというほど自分の文章にこだわりを持っていたことを指している。
・英語教師としては、よく学生に作文をさせた。優秀な学生には賞品として、自腹で用意した英語の本をプレゼントしていた。
【作品】
・『知られざる日本の面影』(Glimpses of Unfamiliar Japan) 1894年
・『怪談』(kwaidan) 1904年

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店 (一部抜粋しています)
ラフカディオ・ハーン (1850-1904) 54歳で死亡。
明治36年春、ハーンは東大当局と衝突して講座を失った(後任には英国留学から帰朝した夏目金之助があてられた)。そして翌37年春から早稲田大学に出講することになった。彼は日本人の妻節子との間に、10歳、6歳、4歳の3人の男の子と前年生まれたばかりの女の子があった。
9月19日に、彼は突然狭心症の発作を起した。彼は胸をおさえて節子にいった。
「私、新しい病気、得ました。・・・・この痛み、もう大きいの、参りますならば、多分私、死にましょう。私、死にますとも、泣く、決していけません。小さい瓶(かめ)、買いましょう。3銭、あるいは、4銭くらいの、です。私の骨いれて、田舎のさびしい小さな寺に、埋めて下さい。私死にましたの、知らせ、いりません。もし人が尋ねましたならば、はあ、あれは先ごろ亡(な)くなりました。それでよいのです。あなた、子供とカルタして遊んで下さい」
節子は医者を呼びにやった。そのあとで痛みは消えた。やってきた医者にハーンは笑っていった。
「ごめんなさい、病(やまい)、いってしまいました」
ハーンは、妻が煙草を好まないので、遠慮して、食後はいつも庭に下りて煙草をのむのを習いとしていた。26日夕方、庭で煙草をのんでいたハーンは、薄闇の中から座敷に上がって来て、蒼ざめた顔色で、
「ママさん、先日の病気、また参りました」
と、いい、
「人の苦しがるのを見るの、不愉快でしょう。あなた、あっちへいって、なさい」
と、いったが、節子はびっくりして、彼をベッドに寝かせた。
寝てしばらくすると、もうハーンの息は絶えていた。その顔には苦痛の色はなく、微笑みの影が残っていた。

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小泉八雲
http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/bungaku/yakumo.html
【次代への名言】4月4日 ラフカディオ・ハーン小泉八雲 2009.4.4 MSN産経ニュース
「自然と人生を楽しみ、愛すという点で、日本人の魂は、古代ギリシャ人の精神と不思議に似ているところがある」ラフカディオ・ハーン小泉八雲
 「その朝、わたしが最高に嬉しく思った印象は、日本人がわたしを見つめるまなざしが、驚くほどやさしかったことだろう」−。英国人作家、ハーン(のちに帰化)はエッセー『極東初日』にそう記している。明治23(1890)年のきょう、彼を乗せた汽船が横浜に到着した。40歳の初来日だった。
 ハーンの心をとらえたのは日本人の微笑だった。仏頂面(ぶっちょうづら)の英国人とは対照的。また、フランス人の冷笑とは質を異にする、最も気持ちのよい顔−笑顔をいつも、悲しいときでさえたたえている。西洋人にとって不思議に映るこの微笑は、実は日本人の精神の豊かさ、さらには「日本の文明は、物質的には発展途上国だが、それだけ道徳面では、西洋文明よりはるかに進んでいる」ということの象徴−。当時の彼が至った結論である。
 だが、ハーンはのちに、急速な欧米化によって「微笑」が忘れ去られようとしている、と感じるようになる。彼はつづる。「西洋人が古代ギリシャ文明を愛惜するように、日本の若い世代が過ぎ去った日本を愛惜するときがくるだろう。そのさい、最大の驚きは、昔の神々の表情であろう。なぜならその微笑は、かつての自分たちの微笑だったのだから」
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090404/acd0904040322001-n1.htm