じじぃの「人の死にざま_67_チャプリン」

チャールズ・チャップリン - あのひと検索 SPYSEE
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great dictator charlie chaplin 動画 YouTube
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知ってるつもり エンディング 動画 YouTube
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朝日新聞社 100人の20世紀 下 2000年発行
チャールズ・チャップリン  【執筆者】木村勲 (一部抜粋しています)
チャップリンは後年、母リリーについてこう語っている。
「パントマイムに関するかぎり、母は最高の名人だった。母がいなかったら私が名を成していたかどうか疑わしい」
8歳のとき、家族はロンドンの下町ランベスの屋根裏部屋に住んでいた。リリーは女優だったが、舞台中に声が出なくなり、失業していた。父も有名な俳優だったが、大酒飲みで家庭をかえりみず、別居して愛人と暮らしていた。
屋根裏部屋にあったのは、母の古いトランク一つだけだった。そこには美しい舞台衣装が入っていた。母はときどきそれを着て、チャップリンと兄のシドニーの前でパントマイムを演じた。
窓辺に坐り、通りを行く人々の動きを演じ、兄弟にそれが誰だか当てさせる。その人が今、どんな気分でいるのかまで演じることができた。
リリーの声が出なくなったのは、チャップリンが5歳のときだった。ロンドン郊外の劇場で立ち往生した。そのとき舞台のそでで見ていたチャップリンが代役で独唱し、やんやの喝采を浴びている。
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18歳で当時人気のカーノ一座と契約する。21歳、一座の米国公演に加わった。ニューヨークでブロードウェーの劇場に出演した。役回りは酔っぱらいだ。
ふらり、ゆらり、すってんころりん。
父と母のパントマイムを見て覚えた演技だった。
それをロサンゼルスの映画関係者が見ていた。3年後の1913年、ロスから声がかかる。「映画に出ないか」。人生の転機だった。
ロスの町外れにある新興の三流映画会社。4、5本に出演した。オーバーな身ぶりで走り回り、殴り合い、ひっくり返る。どたばたサイレントの定番だった。
チャップリンは納得できない。監督もさせてくれと申し出る。売れなかった場合は、使用したフィルム代として1500ドルを負担するという約束であっさりOKが出た。
「映画はドタバタ」と考えていた撮影所幹部は苦々しい。じつは、監督をさせるどころか、自分流にこだわるチャップリンを、その週末でクビにすることを決めていた。
解雇の日の朝、ニューヨークから電報が届く。
「ヒットしている。チャップリンものをどんどん送れ!」
14年、監督第一作。
山高帽にちょびひげ、窮屈なぼろ上着にだぶだぶズボン。ステッキにドタ靴、よちよちのアヒル歩き。ルンペン紳士が主役の短編が次々に生み出された。
ルンペン紳士は礼儀正しい。電柱でも犬でも、ぶつかれば丁寧にわびる。ちょっと帽子に手をやり、恥ずかしげに。
ふところはさびしい。紛れ込んだ酒場からつまみ出される。そのとき、たばこの吸いがらを肩ごしに投げ、後ろ足でポイとける。ついでに金持ちのしりもポイ−−。
演劇とは違い、サイレント映画の観客は労働者がほとんどだった。ルンペン紳士が金持ちや警官をからかうたびに、観客はどっとわいた。その瞬間、人々をしばる階級序列の意識が崩壊した。
サイレント映画はパントマイムだ。教育のない人間にも貧乏人にも、世界中のだれにも理解できた。5年後、20歳代の後半で、彼は世界のスーパースターになっていた。
32年には日本を訪ねている。『街の灯』の宣伝を兼ねた世界一周の途中だった。
5月14日、神戸に上陸して上京。同夜、東京駅で大歓迎を受ける。犬養首相とも会食の予定だった。翌日、大相撲を見物したあと、五.一五事件を知る。自分も標的になっていたことは後に聞いた。
監督・主演・脚本・音楽と1人ですべてをこなした。仕事では妥協しなかった。1シーンを数百回撮りなおしたこともある。保存されている未公開のNGフィルムを見ても、一つのギャグをさまざまなパターンで撮りなおしている。
作品は次々にヒットした。薄幸の少女への愛を描いた『街の灯』(31年)、機械文明を批判した『モダン・タイムス』(36年)、ヒトラーを告発した『独裁者』(40年)・・・・。
52年、うらぶれた往年の大スターの悲哀を描いた『ライムライト』を完成させた。迫りくる老い。自身の信条を重ねていた。躍動するルンペン紳士の面影はどこにもない。
宣伝を兼ね、ルーツの地ロンドンへの家族旅行を思い立つ。
英国籍のままだったチャップリンは、米移民局に再入国許可の申請をした。だいぶたって、移民局から「少し聞きたいことがある。お宅にうかがいたい」と連絡があった。
ビバリーヒルズの自邸に、男女4人の係官が現れた。4人は「共産主義とのかかわり」をしっこく聞いてくる。聴取は3時間に及んだ。
1週間後、ビザが出た。しかしチャップリンの胸を、万一の思いがかすめる。妻のウーナに、銀行の貸金庫の中を全部出してくるようにいった。ウーナが銀行に着いたのは、閉店の10分前だった。
妻と4人の子供たちとともにクイーン・エリザベス号に乗り込んだ。ニューヨークを出て2日目、看板にいたチャップリンに電報が届いた。
「合衆国政府は貴下の再入国許可を取り消す」
喜劇王に対する米国追放宣告だった。「共産主義を唱えたり、共産主義者または組織と関係する外国人を規制する法律」に基づいていた。
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追放された一家を、英国の人々は「お帰り、チャーリー」とあたたかく迎える。チャップリンは故郷定住を考えるが、行く先々でもみくちゃの人気に断念せざるをえなかった。
53年、スイスに移り、レマン湖のほとりに屋敷を購入した。今、長男のマイケルさんが管理する。クイーン・エリザベス号での体験は6歳のときだった。
「あの旅はよく覚えていますよ。楽しい旅でしたから。重大事が起きていることなど知らなかった」
57年、ロンドンで『ニューヨークの王様』を製作する。68歳、最後の主演作品だ。
革命が起きたヨーロッパの小国の王様が「自由の国」アメリカに亡命する。しかし王様が見たのは、異質者を排除する自由と、手段を選ばず金をもうける自由。王様は幻滅して米国を去る−−。
マイケルさんはこの映画で、いじめられる共産党員の子を演じた。「自然にやればいいんだ」と父にいわれた。それが難しかった。
10代で反抗して家出し、ピッピー暮らしもした。しかし77年、チャップリンの臨終の床に駆けつけた。
「父を一言で? 優しさと厳しさ、かな。半々でした」

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
チャップリン (1889-1977) 88歳で死亡
チャップリンは54歳のとき、17歳のウーナと4回目の結婚をし、それ以後だけでも8人の子供を生んだ。
晩年住んだのは、スイスのローザンヌに近いブベー郊外のコルシエ村の、レマン湖畔の葡萄畑にかこまれた14ヘクタールの敷地に18室を持つ大邸宅で、彼はよくブベーの町を散歩したが、やがてウーナ夫人の介添えで、車椅子に乗せられてゆく姿が見られるようになり、さらに自宅の庭に出るだけになった。
彼には人づき合いのよさと人間ぎらいの両面があったが、晩年は後者の面をおし通した。しかし71年にはフランスのレジオン・ドヌール勲章、72年にはアメリカの特別アカデミー賞、75年にはイギリスのエリザベス女王からナイトの称号を与えられる栄光の中に余生を過ごした。
1977年10月15日、ブベーの町でサーカスを見物したのが最後で、以後眼も耳も不自由となり、クリスマスの朝の午前4時、老衰で静かに死んだ。
その死の報道が日本にはいった25日夕刻、東京有楽町の「ニュー東宝シネマ1」は、たまたま彼の伝記映画『放浪紳士チャーリー』を上映中であったが、ラストシーンの途中その死がマイクで伝えられると、各席は一瞬静まりかえり、次に彼を讃える万雷の拍手が起った。
−−しかるに、その翌年の3月1日夜、彼の遺体は柩(ひつぎ)ごと、これまた墓地から盗まれて消失していることが発見されたのである。
なお彼は、「独裁者」で愚弄したヒトラーと同じ1889年の生まれである。

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チャップリンの言葉
「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇である」

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