じじぃの「人の死にざま_65_本田・宗一郎」

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本田宗一郎「失敗のない人生なんて面白くない」 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=_ynFw5JZbiI
朝日新聞社 100人の20世紀 下 2000年発行
本田宗一郎 (1906-1991) 84歳で死亡 【執筆者】福田広樹 (一部抜粋しています)
「あれをいつか腹いっぱい食ってみたいなあ」
本田はよくそういっていた。サバの煮付けが大変なごちそうだった時代に、本田は幼年期を過ごした。
器用さはそのころからだった。通信簿を親に見せなくてすむように、級友たちにハンコをつくってやったことがある。よくできたハンコだったが、すぐばれた。左右対称に彫らなかったからだ。「本田」はそのままでよかったのだが。
小学校のとき、初めて自動車を観た。自転車で追いかけた。ガソリンのにおいに「気の遠くなるような歓喜を覚えた」と、本田は記している。
小学校の高等科を出ると15歳で上京し、自動車修理業「アート商会」に就職する。21歳で独立、さらに「東海精機重工業」をつくってピストンリングの製造にかかわる。戦後の混乱期に本田技研工業を設立した。従業員は20人。自動車の運転ができる者は、今の飛行機の操縦ができる者より希少価値だった。
ドリーム号の苦闘や経営危機を乗り越えて、本田技研は58年に50CCの「スーパーカブ」を生む。後々まで会社を助けることになるロングセラーだ。
スーパーカブのヒットに続いて、米国に販売会社設立、オートバイのマン島レース制覇、「S500」で4輪車に進出、F1グランプリ参加。本田は戦後高度成長の象徴のような進撃を続けた。
支えたのは藤沢だった。
本田は天才肌の職人であったが企業経営と呼ぶにはふさわしくなかった。自分で「社長の印鑑にさわったこともない」といっている。
「どんな数字でも、ミリとかパーセントとかついているとみんな覚えられた。ところが『円』がついていたらまったくだめ」
その穴を、藤沢が埋めた。資金繰りや販売を一手に引き受けた。
「こういうのをつくってみろ」
「つくった、さあ売ってみろ」
互いに力量を認める2人が張り合うほどに、会社は伸びていった。ついには、車社会の本家アメリカに本田の名前が刻まれることになる。
ミシガン州ディアバーンの「自動車の殿堂」(AHF)に本田は89年、日本人として初めて仲間入りした。
フォードやベンツと並んで一角を占めるホンダのコーナーで、ジーン・マキニーAHF総裁は語る。
「彼は日本人として異端児だ。何しろ米国に乗り込んで、ビッグスリーに対抗して車を売ろうとしたんだからね。度胸があった。そして、それを本当にやってのけた」
イオニアになるものは、つねに異端児だった。フォードもクライスラーもそうだ。本田は同じスピリットを持っていた。だからこそ、ここに名前が掲げられている−−。マキニー総裁の本田評だ。
しかし、パイオニアならではの試練もあった。66年に発売と同時に人気を呼んだ軽自動車「N360」が欠陥車として指弾され、技術に絶対の自信を持っていた本田を苦しめた。
「欠陥車」は本田技研という一メーカーだけの問題だけではなかった。大衆消費社会を迎え、日本でも消費者運動が芽生え、人々の意識そのものが大きく変わろうとしていた。
「これからは企業といえども社会の一員なんだ、という自覚が生まれた」と河島さんはいう。欠陥車問題は、本田技研にとって大きな転機だった。
夢の実現のために、本田は寝食を後回しにした。しかし、企業を私物化することを厳しくいましめた。社名に「本田」と付けたことさえ後悔していた。
自分が育て上げた会社を、子供にも継がせなかった。66歳だった73年、あっさりと社長の座を降りるとバトンを河島さんに渡した。
作家の城山三郎さんは「日本の経営史上まれにみる見事なバトンタッチ」と、その引き際を称賛する。一線を退いてからは、会社のやることに口を出さなかった。
ファンが多かった。城山さんもその一人だ。
「あの人はだれでもファンにしゃうんですよ。戦後の日本で私たちが自慢できるもののナンバーワンではないか」
企業を私物化することをきらった本田は、政治からもまた距離を置いていた。用地取得の交渉では、社員に政治家に頼るな」と命じた。75年には、当時の三木武夫首相から東京都知事選への立候補を誘われたが、断った。

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本田宗一郎の言葉
「やってみもせんで、何がわかる」

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我が友 本田宗一郎 〜井深大が語る“技術と格闘した男”〜 NHKオンデマンド
1991年、本田技研の創業者・本田宗一郎さんが亡くなりました。世界のモータリゼーションに大きな足跡を残した本田さんの気取らない人柄は、誰からも愛されました。また、常に現場に立ち続けるその姿は、経営者というよりも、技術者という言葉が一番似合う人でした。本田さんと同じく、もの作りへの熱い魂を持つソニーの創業者井深大(まさる)さんが、生涯を通じての友である本田さんについて語ります。
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2008000059SA000/index.html
本田宗一郎 画像 Google
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【次代への名言】8月5日・本田宗一郎 2009.8.5 MSN産経ニュース
 ■「進歩を運命づけられた人間の辞典には、不可能という言葉はあり得ないと私は考えます」本田宗一郎
 「成功とは99パーセントの失敗に支えられた1パーセントである」−。これは色紙によく書いたということばだ。本田宗一郎はもちろん、本田技研工業(ホンダ)の祖。きょうは、日本が生んだ最高の経営者であり、自由を愛し、創意にあふれた技術者だった本田の命日(平成3年没)にあたる。
 「私は、他人の真似(まね)をするのが大嫌いである。真似をして楽をしたものはその後に苦しむことになる」。この哲学から生まれた世界最高峰の技術の一つが1972(昭和47)年のCVCC(複合渦流調整燃焼方式)エンジン。低公害のCVCCは当時最も厳しかった米国の排ガス規制を世界で初めてクリアし、「技術立国ニッポン」の象徴となった。
 「政府が介入すれば企業の力は弱まる」が持論。だから自動車産業への参入を規制しようとした『官僚たちの夏』のモデルとやりあったこともある。また、公私の区別を厳格にし、“世襲”を排した。そんな彼の数ある著作のなかから最後に、外国で日の丸を見た感激をもとにいたった信念を紹介したい。
 「国民的自覚を捨てて、国際的な感覚は持てない。すぐれた国際人は同時にその国の立派な国民でもあるのだ」
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090805/acd0908050309000-n1.htm