じじぃの「人の死にざま_59_中浜・万次郎」

ジョン万次郎 - あのひと検索 SPYSEE
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Heart of a Samurai book trailer 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ewVlHiIlOnw
JohnMang 1 of 5 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=yjztBbGzhbs
Heart of a Samurai、ジョン万次郎 2012年7月19日 土佐西遊記ブログ
マーギー・プロイスさんが書いた「Heart of a Samurai」の翻訳本で、
ジョン万次郎の伝記本ながやけんきらきら
毎年、アメリカで最も優れた児童文学に贈られるニューベリー賞も受賞しちょうビックリhttp://ameblo.jp/tosasaiyuki/entry-11305757747.html
歴史秘話ヒストリア 「今こそ知りたい! ジョン万次郎 〜日本開国前夜 驚きの舞台裏〜」 2013年11月6日 NHK
【キャスター】渡邊あゆみ
●エピソード3 日本開国前夜 知られざる万次郎の活躍
ペリー来航により、開国か鎖国継続かで二分された江戸幕府。幕府に、アメリカの内情に関する情報のほとんど無いことが、混乱に拍車をかけていました。日本未曾有の危機に、アメリカ帰りの万次郎へ期待があつまります。“日本開国”前夜、何があったのか? 万次郎の知られざる活躍に迫ります。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/183.html
『世界危機をチャンスに変えた幕末維新の知恵』 原口泉著 PHP新書 2009年発行
島津斉彬の工業化と対外貿易政策 (一部抜粋しています)
ジョン万次郎を最大限活用
ジョン万次郎は、坂本龍馬と同じ土佐の中浜村で、貧しい漁師の息子として生まれました。父を早く亡くし、母も兄も病弱だったために、幼いときから働きました。寺小屋へ通う余裕もなく、詠み書きはまったくできなかったそうです。
彼が14歳になった天保12年(1841)のことでした。彼は漁に出て遭難し、太平洋にある無人島に漂着し、なんと143日間も仲間とそこで生活しました。彼らを救助してくれたのはアメリカの捕鯨船でした。
船長にすっかり気にいられた万次郎は、ハワイで降ろされた仲間と別れ、ともに航海することにしました。ジョンと呼ばれるようになったのはこのときからです。捕鯨船の船名が「ジョン・ハウランド号」だったのです。
アメリカに渡って船長の養子になった彼は、アメリカで英語や数学、そして造船や航海術や測量など、さまざまなことを学びました。その後、捕鯨船員の道を選びましたが、やがて帰国を決意し、ゴールドラッシュだったカリフォルニアで資金を貯めました。
貯めた資金で彼は船を買い、ハワイで再開した仲間とともに琉球に到着しました。嘉永4年(1851)、奇しくも斉彬がようやく藩主になった年でした。斉彬は、本土に送られてきた万次郎を長期間とどめ、西洋事情を聞きだしました。
帰国から2年後、万次郎は土佐に帰りましたが、ペリー来航で混乱した社会は彼を放っておいてはくれず、中浜万次郎になった彼は直参旗本に抜擢され、幕府の通訳として江戸で働くことになりました。
斉彬の薫陶(くんとう)を受け、出目にこだわらず、人材を求める薩摩が、彼に注目しないはずがありません。大学の理工学部のような学校をつくり、維新推進のために彼を最大限活用したにちがいありません。
維新後は、現東京大学の開成学校の教授になり、生涯教育者として過ごしました。政治の世界に入る気はまったくなかったようです。
余談ですが、日本語の読み書きができない万次郎は、英語の文章を訳すのは苦手だったといわれています。しかし、耳から覚えた発音は正確で、彼の作った辞書の英語にふられた発音法を教材に使っている教室もあるそうです。

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ジョン万次郎物語
http://www.geocities.jp/s_s_s_tamago/jonmanjirou.html
【次代への名言】12月6日・中浜博 2008.12.6
 「万次郎は不思議な人だ。大名とも話すし乞食(こじき)とも話す」(中浜博『私のジョン万次郎』)
 新暦嘉永6(1853)年のきょう、徳川幕府は大抜擢(ばってき)人事を行った。土佐出身の26歳、漂流して米国に渡り、10年ののちに帰国した元漁民を「中浜万次郎」として直参に召し抱えたのだ(辞令の日付は前日、実際の異動は翌年)。米国の黒船が来航したのはその5ヵ月前だが、ペリー司令長官は条約の締結を求め、再来を予告していた。海外渡航は国禁の当時、万次郎は日本人で最高の英語の使い手だった。「必要」が封建時代を支えてきた身分制度を突き崩したのだ。
 その万次郎の心には冒頭のことば(著者の博氏は万次郎のひ孫)のように、度胸と博愛が同居していた。井伏鱒二の『ジョン万次郎漂流記』によると、万次郎は薩摩藩主だった島津斉彬(なりあきら)に「米国では人才によって尊卑が定まる」と報告(世襲ではあるが、さすがに賢侯の斉彬、大きくうなずいたという)した。一方で、高官にとりたてられても「本来人間は皆同じなのに、運命の無情が悲しい」と貧しい者に施しを与え、声をかけた。
 激務がたたったのだろう。明治4(1871)年、万次郎は脳溢血(いっけつ)で倒れる。以降、表舞台から去り、その経験と知識、精神を新しい国づくりに生かすことはなかった。本当に惜しい、と思う。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081206/acd0812060235002-n1.htm