じじぃの「人の生きざま_03_ビル・ゲイツ」

ビル・ゲイツ - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%84/1126/
Windowsは大変な効果音を鳴らしていきました動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=fjgu0DBCtcE
世界一受けたい授業SP 「東大の人気先生大集合&東大生が選ぶ頭がいい人ベスト50」 2015年2月21日 日本テレビ
【校長・教頭】堺正章上田晋也 【学級委員長】有田哲平 【生徒】佐々木希生瀬勝久宮崎美子宇治原史規織田信成千原ジュニア桝太一、その他
東大の人気先生がずらり集結! ▼やる気スイッチは脳に実在!? ▼おなじみコロッケがある香りでプロの味! ▼簡単アルツハイマー予防法 ▼東大生が選ぶ頭がいい有名人とは!?
東大生が選ぶ頭がいい人ベスト50
1位 池上彰
2位 林修
3位 ビル・ゲイツ
4位 北野武(ビートたけし)
5位 上田晋也
6位 タモリ
7位 香川照之
8位 村上春樹
9位 宇治原史規
10位 秋元康
http://www.ntv.co.jp/program/detail/21838251.html
ビル・ゲイツ ウィキペディアWikipedia)より
ウィリアム・ヘンリー・ゲイツ三世(William Henry Gates III, 1955年10月28日- )は、アメリカ合衆国の実業家でマイクロソフト社の共同創業者・会長、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団共同会長。称号はイギリス女王より名誉騎士(名誉大英勲章ナイト・コマンダー)、立教大学及び早稲田大学より名誉博士を贈られている。
【ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団】
ビル・ゲイツが彼の妻メリンダ・ゲイツ、父親のウィリアム(ビル)・ゲイツ・シニアとともに作った慈善団体。2005年には国際団体「ワクチンと予防接種のための世界同盟」に、民間としては最大規模の7億5000万ドルの寄付を発表した。
財産管理は主にメリンダが行っており、寄付をする際の検査は、厳格に調査していると公表している。
なお、2006年6月15日の記者会見にて、2008年7月にマイクロソフト社の経営とソフト開発の第一線から退き、「ビル&メリンダ・ゲイツ財団 (B&MGF)」の活動に専念すると発表した。早期に引退し慈善活動に携わることが成功者の美徳とされるアメリカの慣習に法った決断と言える。
2006年12月1日には、夫妻の死後50年以内に財団の資産を使い切って活動を終えると発表した。同基金は「我々が取り組んでいる問題を今世紀中にめざましく進展させるため」と、存続期間を限定した理由を説明している。
基金は、途上国のエイズマラリア結核の根絶や教育水準の改善などに尽力しており、今後は寄付を拡大する方針も明らかにもしている。
2006年06月、投資家ウォーレン・バフェットは374億ドルの資産のうち、85%にあたる310億ドルをB&MGFに寄付をおこなうと発表した。

                                  • -

TIMEが選ぶ20世紀の100人〈下巻〉アーチスト・エンターテイナー 徳岡孝夫 訳 1999年発行
【ソフトウェアの独裁者】ビル・ゲイツ 【執筆者】デービット・ギランター (一部抜粋しています)
もし、わたしたちが創造性とアイデアについて語るなら、ビル・ゲイツは独創性に欠けるアメリカ人だ。彼はマイクロソフト社の共同創設者にして最高責任者であり、世界一の大金持ちでもある。その経歴から読み取れるのはこんなメッセージだ−−先頭を走るより追いかけるほうが賢い。革新的なアイデアを持つ者には未開の地を走らせて、損をさせてやれ。じっと待って後から追いかければ、安心して大もうけできる。
ゲイツは、アメリカのテクノジー界におけるビング・クロスビーなのだ。あっちこっちから曲を拝借しては、それらをすべて空前の大ヒットに変えてしまう−−大胆にパッケージし直す離れ業と、まったく超人的な愛想によって。ビル・ゲイツが、(控えめに表現すれば)信じられないくらい勤勉で、成功した実業家であるのは確かだとしても、わたしたちの想像上のビル・ゲイツはとてつもなく大きな存在になってしまっている。
さらに私たちの彼に対する扱いは不公平だった。現在生きているアメリカ人で、彼ほど恨まれ、うらやまれ、けなされている人物はいない。しかし、ある意味で彼のキャリアは品位によって評価される−−そしてその点については、彼はあまり評判がよくない。テクノロジーはわたしたちを混乱させ、煙にまく。ゲイツに関して言えば、わたしたちは見当はずれの非難を繰り返してきたのである。
1968年に撮影された写真は、ティーンエージャーのビルが、コンピュータ端末に向かってキーをたたく友人、ポール・アレンを、夢中になって見ている様子を示している。アレンはマイクロソフトの共同創始者になった。幼いゲイツはこぎれいな髪形で、まじめで愛想のよい微笑みを浮かべている。どれもこれもみな「ねぇ、僕っていい子でしょ」と訴えているようだ。彼はハーバード大学に入学したが、マイクロソフトを設立するため、1975年に中退した。マイクロソフトの製品第1号は、アルテア8800(世界初のパーソナル・コンピュータと言ってよいだろう)のためのプログラム言語で、BASICの改良版だった。BASICは、1964年にジョン・ケネニーとトーマス・カーツによって開発された、他人のアイデアだった。アルテアもそうだ。ゲイツはただ、あるものをほかのものと結びつけただけだ。いわばベーグルにクリームチーズを塗って、人気商品に仕上げたようなものだった。
1980年の時点ですでに、パーソナル・コンピュータの生産を決定していたIBMははPC(IBMおよび交換機メーカーのパソコン)用のオペレーティング・システムを必要としていた(コンピュータは裸で生まれてくる。人前に出すにはオペレーティング・システムという服を着せる必要がある)。巨大優良企業のIBMは、数千人という有能なソフトウエア設計者を雇いながら、そのただひとりも信用していなかった。IBMは、マイクロソフトにオペレーティング・システムの設計を依頼した。マイクロソフトはシアトル・コンピュータ・プロダクツという会社からQ−DOSを買い取り、それをPCに合うように作り直した。
PCは1981年8月に発表され、続いてピーピーガーガー音を出す交換機が大挙して市場になだれ込んだ。マイクロソフトのディスク・オペレーティング・システム(DOS)は3つの公認PC用オペレーティング・システムのひとつだったが、すぐに他のふたつを駆逐した。その当時、身なりのきちんとしたコンピュータが身につけていたオペレーティング・システムはベル研究所から発表されたUNIXか、あるいは(もし好みが平均以上なら)ゼロックスが1970年代に開発していた革命的なウインドウ・メニュー・マウスシステムの変形であり、それに比べて、DOSは不細工で原始的だった。しかしそのやぼったさにもかかわらず(あるいはもしかするとそのやぼったさゆえに)DOSはコンピュータの世界における征服としての地位を確立した。魅力的ではなかったが、だれもがそれを必要とした。こうして再び、ゲイツは他人のアイデア同士の結婚を仲介し、ヒットを生み出した。DOSはBASICよりさらに大きなヒットとなった。ゲイツがそれを作った。
アップル社が1984年1月にマッキントッシュを発表し、おしゃれで精巧なコンピュータが大衆の手に届くようになった。DOSは単不器用なだけでなく、時代遅れになった。しかし、その後も、DOSは金をかき集め続けたのだから、評論家に嫌われたところでどうだというのだ。1990年5月に、マイクロソフトはついにアップルのウインドウ・メニュー・マウスシステムの自社版を完成し、それをマイクロソフト・ウインドウズ3.0と名づけた−−これもまたもうひとつのメガヒットとなった。今度はゲイツが本当に(冗談で言っているのではなく、本当に)それを作った。
1990年代初めごろまでにはEメールとインターネットは大きな存在になっていた。技術者は、インターネットを中心としたコンピュータの利用を「鏡の世界」と呼んだ。ハイテクマニアは「情報スーパーハイウエー」に熱中した。1994年のワールド・ワイド・ウェブの出現により、ブラウザが必要になり、ネットスケープ 社が同年設立された。サンマイクロシステム社は、インターネットのプログラム言語「JAVA」を開発した。ゲイツはじっと待った。1996年になり、マイクロソフトはついにゲイツ自身によれば「全霊を傾けてインターネットに取り込むようになった」。
追いかけることができるのに、先頭を走る必要があるだろうか。マイクロソフトの最初のブラウザ、インターネット・エクスプローラ1.0はスパイグラスという会社からライセンスを受けた。それはおまけであり、ひと口のおつまみ、ソフトウエアの前菜、なくても生活できるがらくたでぎっしり詰まった45ドルのCD−ROMの一部としてすぐ買えるものだった。それがエクスプローラだった。
今日マイクロソフトは、ウェブブラウザの世界最強の供給元であり、ゲイツが本当にそれを作っている。アメリカ司法省は、不法に地位を利用してネットスケープ のような企業に反則パンチを繰り出すマイクロソフトを提訴している。どちらが勝ってもゲイツはなお業界ナンバーワンの座を守り続けるだろう。(注.2003年5月、マイクロソフトネットスケープマイクロソフトが和解金を支払うことで合意した。ファイロとヤンが1995年3月がYahoo!を共同設立した。1998年9月、ラリー・ペイジセルゲイ・ブリンGoogleを創業した)
世界中がビル・ゲイツは偉大な思索化に違いないと決めつけた。第二次世界大戦中、積荷崇拝がニューギニアメラネシアで流行した。それまで一度も飛行機を見たことのない人々が、やってきた米軍機を見て、これは神に違いないと決めつけたのだ。技術は時に人々を混乱させるものだ。だからこうした崇拝も、ある状況下では合理的なものだった。1995年にゲイツは『ビル・ゲイツ未来を語る』というタイトルの本を出版した(エイサン・ミアボルドとピーター・リニアスンとの共著)。はるか未来を見つめ、彼はテクノロジーに囲まれた夢の世界を垣間見た。そこでは彼の著書にあるように、あなたは「クラーク・ゲイブルやビビアン・リーの顔と声を自分のと取り換えて『風と共に去りぬ』を観賞する」ことが可能だろう。これがまさに大衆がやってみたいと強く感じていることのようだ。それいえ『ビル・ゲイツ未来を語る』は、油でべったりと固めた髪形みたいに、まじめなばかばかしさでてかてかしているけれども、ぶっちぎりのベストセラーになった。

                                  • -

ビル・ゲイツ 「ウィリアム・ゲイツ」 (Bill Gates)とは
http://biography.sophia-it.com/content/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%84