じじぃの「人の死にざま_40_ノーベル」

アルフレッド・ノーベル - あのひと検索 SPYSEE
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Nobel Prize: Super Conductor P4 動画 YouTube
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アルフレッド・ノーベル フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ルフレッド・ベルンハルド・ノーベルは、ダイナマイトの発明で知られる化学者、実業家。ノーベル賞の提唱者。スウェーデンストックホルム生まれ。ダイナマイトの開発で巨万の富を築いたことから、「ダイナマイト王」とも呼ばれた。
知人の化学者アスカニオ・ソブレロ が発明した爆薬、ニトログリセリンを、初めて実用化することに成功。さらにこれを改良し、安全に使えるようにしたダイナマイトを発明した。ダイナマイトは工事現場での岩盤の破壊など、作業の効率化を進めるものとして広く普及したが、同時に戦争にも爆薬として使用された。

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『伝 ゾフィーへの218通の手紙から』 著者:ケンネ・ファント 服部まこと 訳 新評論 1996年発行 (一部抜粋しています)
第67章 永遠の眠り
1896年の秋、パリ滞在中に、アルフレッドは医者から病状が思わしくないと告げられた。しかし、死期が目の当たりに近づいているという予感はなかった。彼はサンレモにも馬が欲しくなり1頭ほど手に入れるつもりだったし、さらに隣家を買い求め、そこに新たに高価な家具を注文する予定だった。
1896年11月21日、アルフレッドはサンレモに戻った。息を引き取る数週間前のことだった。ところが、この頃の手紙に目を通してみても、アルフレッドが不安を感じている様子はどこにも見られない。これがある種の諦観からから来るものなのか、それとも拒絶の表れなのかは知るよしもなかった。
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手紙を書き終えて1時間も経たないうちに、アルフレッドは発作に見舞われた。召使が倒れたアルフレッドを2階の寝室に運び込み、医者を呼んだ。イタリア人の医者は脳溢血と診断した。
その3日後、すなわち1896年12月10日の朝、アルフレッド・ノーベルは永遠の眠りについた。ソールマンもヤルマーもエマニュエルも、誰1人として死際には間に合わず、枕もとには付き添う者もいなかった。それはアルフレッドが最も恐れていた孤独の死そのものだった。枕元にいたのは雇われた召し使いだけだった。
ルフレッドの遺体は埋葬のためにストックホルムに移され、ノーラ・シュルコゴーデン(北墓地)にあるノーベル一族の墓に納められることになった。サンレモのヴィラ・ノーベルでは密葬のみが行われ、スウェーデンの大臣で若きナータン・セーデルブロムがパリから呼び出されて、葬儀委員長を務めることになった。密葬が行われたのは12月17日のことだった。
第70章 幸福の夢
1人の人間が一生のうちに何かを成し遂げようと決意しても、目的を達成できる例は決して多くはない。歴史の1ページに名を刻むほどの偉業を達成するのは、かなり稀なことだと言わねばならない。その名が、死後ますます高まるという場合はなおさらである。しかし、アルフレッド・ノーベルは、その極めて稀な例となった。
幼い頃から、アルフレッドは仲間と常に一線を画していた。少なくともそう見えた。けれどもそれは、過敏な人間の自然な自己防衛だった。背信行為に脅えるあまり、寡黙で陰鬱になりがちだった。そのことを物語る2行の文章がある。憂鬱病に悩まされ続けた1人の男が残した文章である。アルフレッドが紙切れに走り書きしたこの2行の文章は、彼の死後60年、すなわち1956年11月になって、未整理の新聞の切り抜きの間から発見されたものである。
 「こうして、人生の現実がむき出しになり、
   幸福であるはずの夢の中に、悲しい追憶の亡霊が残るのみとなった」
ルフレッドの"幸福の夢"は"追憶の亡霊"のみを残したわけではなかった。彼の夢は、掛け替えのないものを人類の遺産として残すことになった。
毎年12月10日にはストックホルムオスロノーベル賞の授与式が挙行される。この日こそ、まさにアルフレッド・ノーベルの"幸福の夢"が世界中から注目を浴びる日である。人種、国籍、性別、主義などの違いを乗り越えて、アルフレッドの遺志を継いだノーベル賞が与えられる日である。
長くて暗い苦難の時代が、輝かしい発明家を生み出し、理念の王国を築き、偏見のないヒューマニストを世に送り出したのである。
遺言状
私ことアルフレッド・バルンハート・ノーベルは、私が死を迎えた時点で、私の財産に関する最後の遺言であることを、熟考の末、ここに明記するものである・・・・。
私の遺産は、すべて次の通りに処理される。
資産は、遺言執行人によって安全確実な有価証券に替え、それを元に基金を設立し、その年利を賞として、当該前年に人類に対して最も偉大なる貢献をなしたる人物に授与するものとする。利子は5等分する。その一部は、物理学の分野において最も重要な発見または発明をした人物に贈られ、一部は最も重要な化学上の発見または進歩を果たした人物に贈られ、一部は生理学または医学の分野において最も重要な発見をした人物に贈られ、一部は最も理想的な傾向の文学上の傑作を創出した人物に贈られ、一部は国家間の友好および武器兵器の破棄削減あるいは平和会議の開催および推進について最高または最善の行動をした人物に贈られるものとする。
物理学賞及び化学賞は、スウェーデン科学アカデミーにより授与され、生理学、医学の分野で業績を上げた者にはストックホルムカロリンスカ研究所により授与され、文学賞ストックホルムのアカデミーより授与され、そして、平和を推進した者には、ノルウェー議会によって選出された5名の委員からなる委員会により授与されるものとする。いずれの賞も、国籍は問わず、スカンジナビア出身者たるか否かにかかわらず、最も価値ある者に与えられることを切望する。
本遺言書は、以前に作成された遺言書が私の死後発見されるようなことがあっても、その内容をすべて無効にするものである。
私の遺言執行人として、ヴァームランド県ボーフォシュ在住のラグナール・ソールマン、ならびにストックホルム市マルムシルナズガータン通り31番地およびウッデバラ近郊ベングストフォシュ在住のルドルフ・リリェクイストを指名する。
                     パリにて、1895年11月27日
                     アルフレッド・ベルンハルト・ノーベル

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ノーベル (1833-1896) 63歳で死亡 (一部抜粋しています)
ニトログリセリン爆薬を皮きりに、ついにダイナマイトを発明し、工業化し、大富豪になったスウェーデンのノーベルは、その莫大な富による幸福を−−慈善事業をもふくめて−−いかんなく満喫する晩年を過ごしたが、一方でリューマチの持病をどうすることもできなかった。
そして60歳のころからリューマチはいよいよ高じて、心臓に障害を起こしはじめた。
1896年10月、彼はパリを訪れたが、そこで友人に手紙を書いた。
「私の心臓に対する適当な治療法が見つかるまで、私はパリに滞在していなければなりません。皮肉なことに、医師は私の内服薬としてニトログリセリンを処方に使っています。けれども彼らは、世間を驚かせないためにそれをトリクチンと呼んでいます」
ダイナマイトの原料であるニトログリセリンは、血管をひろげる作用もあって、現代でも狭心症心筋梗塞の妙薬である。
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死の数年前、彼の兄が死んだとき新聞に「死の商人、火薬王ノーベル死す」と誤報された。ノーベルはこれにショックを受け、自分の財産の利子を「人類最大の幸福に貢献した人に贈る」ノーベル賞制定を発起したといわれる。
彼の死後5年目の1901年に第1回の受賞者が発表されたが、その物理学賞はレントゲンに与えられた。

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ノーベル賞受賞者
http://www.ylw.mmtr.or.jp/~gifu-cea/data/nobel/nobel.htm