じじぃの「人の死にざま_36_モーツァルト」

ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88/556/
Wolfgang Amadeus Mozart - Piano Concerto No. 21 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=df-eLzao63I
モーツァルト トルコ行進曲 (Mozart Turkish March ) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=I9AIMD2qFmg
『1冊でわかる クラシック音楽ガイド』 後藤真理子/著 成美堂 2007年出版
モーツァルト (一部抜粋しています)
モーツァルトはさまざまな意味で「過度期の作曲家」であった。あと20年早く、もしくは20年遅く生まれていれば、その生涯はがらりと変わっていたに違いない。
もし、20年早く生まれていたら、1732年生まれのハイドンがそうであったように、いずれかの王侯か大貴族(ハイドンの場合はハンガリーエステルハージ家)、もしくは教会の専属作曲家として安定した生活を得ることができたはずだ。もし20年遅く生まれていたら、1770年生まれのベートーヴェンのようにパトロンからの年金や、音譜出版社からの依頼で生計を立てるフリーランスの音楽家としての立場を確立できたかもしれない。
当時の交通手段を考えるとモーツァルトの一生は、いかにも不便きわまりなかったであろう旅に明け暮れていたように見える。が、幼年期は「神からの賜物」としか言いようのない天才を広く世の中に示すことこそわが務めと父が考え、長じてからは安定したポストを得んとの「職探し」の旅だった。しかし貴族社会はすでに終焉の時を迎えつつあり、1789年にはフランス革命が始まるのである。ひと世代前のハイドングルックのように宮廷作曲家として生きるには肝心の王侯貴族の力が衰えだしたころであり、替わって台頭するブルジョワジーはまだ、音楽文化に貢献できるほど成熟していなかった。かくしてモーツァルトは、西はロンドンから東はプラハまで、ヨーロッパ中をさまよい歩いたのである。
だが旅に明け暮れたおかげで、後世の私たちはモーツァルトの生涯を鮮明に知ることができると言っていい。通信手段がそれしかなかったので、モーツァルトはほとんど毎日のように、家族や恋人、友人に宛てて手紙を書いた。書いた手紙は時には写しを取って手元に保管することもあった。今日モーツァルトの生涯がほとんど1日単位でたどれるのは、こうした記録が残っているからである。

                      • -

『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
モーツァルト (1756-1791) 35歳で死亡。 (一部抜粋しています)
1789年以来モーツァルトはウィーンに住んでいたが、収入の少なさと妻のコンスタンツェともども経済観念の欠如のため−−さらにそのコンスタンツェも骨膜炎でバーデンに静養にいっているため、貧しい一人暮らしをつづけていた。
死の前年、友人のプフベルクに、彼は手紙を書いている。「現在、全く無一文で・・・そのために『四重奏曲』も脱稿出来ないでいます」
彼の晩年の窮乏の原因については、彼が何か賭事に関係していたのではないかという説もある。
ともあれ1791年の春ごろから肉体的精神的な異常を訴えはじめた。腰の痛み、全身の倦怠感があり、彼は、だれかが自分を毒殺しようとしている、といった。
それでも彼は、5月ごろから『魔笛』の作曲にとりかかったが、その間、何度も眩暈、頭痛、胃痙攣、嘔吐、失神をくり返し、体重はへりつづけた。
そして彼は、11月20日からベッドを離れることが不可能となった。手足が腫れ、鳥籠のカナリアの鳴声にさえ生理的な痛みを感じた。
12月4日の夜明け方、高熱と頭痛のため、ついに『魔笛』は未完のまま、弟子の一人に完結のしかただけを指示して意識を失い、12月5日午前0時50分に息をひきとった。
あつまったわずかの数人の知人と弟子は、おりからの雪まじりの悪天候のために墓地に見送ることも出来ず、屍体はただ墓掘人の一人によって、セント・マルクス墓地の中の共同貧民墓地に葬られ、数十日後にはその正確な場所さえ不明になった。
彼の症状は慢性水銀中毒に適合するといわれ、そのため当時彼と音楽上のライバルであった老作曲家アントニオ・サリエリ――シューベルトの師――が嫌疑を受けたが、真相は不明の雲につつまれたままとなった。
同じころ、フランスは大革命のまっただなかにあった。

                      • -

モーツァルトvsアインシュタイン 佐藤秀の徒然幻視録 (一部抜粋しています)
小柴さんはノーベル賞授賞式後の受賞者同士によるパネルディスカッションで「アインシュタイン(以下E)のやった仕事は論理だから、彼自身がしなくてもいずれ別の誰かが同じことを発見する。しかし、モーツァルト(以下M)の残した作品はMが生まれていなかったら永遠に生まれることはなかった。だからMの方が偉い」という趣旨のことを発言されていた。
http://blog.livedoor.jp/y0780121/archives/50049211.html
モーツァルトの言葉
「私は人の賞賛や非難をまったく気に留めない」
「ただ自分の感じるままに行うんだ」

                      • -

モーツァルト Google 検索
http://www.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88&oi=image_result_group&sa=X