じじぃの「人の死にざま_17_ガレリオ」

あの人に会いたい ガリレオ・ガリレイ SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%A4/775/
土星 動画(20センチ望遠鏡) 動画 YouTube
土星の環は1610年にガリレオ・ガリレイによって初めて観測された。しかし、望遠鏡の性能が良くなかったために、ガリレオは輪になっていることを把握できなかった。
http://www.youtube.com/watch?v=ipVnD4e6p6I
ガリレオの望遠鏡PV 大人の科学マガジンVol.19 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=QO91eSY8WM4
ガリレオ・ガリレイ

ガリレオの生涯 - 10.確信/動かぬ地動説の証拠 世界天文年2009
http://www.astronomy2009.jp/ja/webproject/life-g/10.html
ガリレオ・ガリレイ ウィキペディアWikipedia)より
【第2回の裁判】
1630年、ガリレオは、地動説の解説書、『天文対話』を執筆した。この書は、天動説と地動説の両方を、あくまで仮説上の話として、それぞれを信じる2名の者による対話によって紹介する形をとり、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないよう、注意深く書かれていた。ガリレオは、ベラルミーノの判決文の内容から、地動説を紹介しても、その説に全面的に賛同すると書かなければ問題はないと考えて出版許可をとり、ローマ教皇庁も若干の修正を加えることを条件に出版許可を与えた。『天文対話』は、1632年2月22日、フィレンツェで印刷、発行された。
翌1633年、ガリレオは再度ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられた。容疑は、1616年の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもかかわらず、それを破って『天文対話』を発刊したというものだった。ガリレオが、あえてこの書をローマではなく、フィレンツェで許可をとったこと、ローマ側の担当者に、序文と書の末尾だけしか送らずに許可をとったこと、ガリレオが、事情に詳しくないフィレンツェの修道士を審査員に指名したことなどが特に問題とされた。ただし、全文が数百ページあるという理由で序文と末尾の送付で済ませることには事前にローマ側担当者も同意しており、ガリレオが指名したフィレンツェの審査官は、正規のフィレンツェの異端審問官であった。さらに、書の表紙に3頭のイルカが印刷されていることさえ、それが教皇に手下がいるという意味だというねじ曲げた解釈をする者がローマにおり、問題とされた。ただしこの3頭のイルカは、フィレンツェの出版業者のマークで、他の書籍にも印刷されていたため実際には問題にはならなかった。
裁判で、ガリレオはベラルミーノ枢機卿の無罪の判決文を提出して反論した。しかし、検邪聖省は、ガリレオを有罪とするという裁判記録を持ち出して再反論した。この裁判記録には裁判官の署名がなく、これは検邪聖省自らが定めた規則に沿わないものであった。しかし、裁判では有罪の裁判記録を有効とし、ガリレオの所持していた判決文は無効とされた。第1回の裁判の担当判事ベラルミーノは1621年に死去しており、無効の根拠を覆すことはできなかった。この結果、ガリレオは有罪となった。検邪聖省側の記録には、地動説を「教えてはいけない」と書いてあったが、ガリレオの持つ無罪の判決文には教えることの是非についての記載はなかった。裁判ではこの命令が実際にあったという前提で進められた。ガリレオ自身はそう言われたかどうか記憶にないがなかったとは言い切れないと答えている。1616年ガリレオとベラルミーノ以外の人物もいたことになっており、これについてはガリレオも認めているが、その人物が誰で何人いたのかについては不明のままであった。
1616年当時の裁判にも参加し、ガリレオの親友でもあったバルベリーニ枢機卿(Maffeo Vincenzo Barberini )がローマ教皇ウルバヌス8世となっていたが、教皇の保護はなかった。一説によれば、『天文対話』に登場するシンプリチオ(「頭の単純な人」という意味)は教会の意見を持っており、シンプリチオは教皇自身だと教皇本人に吹き込んだ者がおり、激怒した教皇が裁判を命じたというものがある。この説には物証がないが、当時から広く信じられている。さらにガリレオ自身、敬虔なカトリック教徒であったにもかかわらず、科学については教会の権威に盲目的に従う事を拒絶し、哲学や宗教から科学を分離する事を提唱した事も、当初ガリレオを支持していたウルバヌス8世が掌を返したようにガリレオを非難するようになった要因とされる。そして結果的にはガリレオ裁判に於いて、ガリレオを異端の徒として裁かせる結果につながっている。
【裁判以後】
ガリレオへの刑は無期刑であったが、直後に軟禁に減刑になった。しかし、フィレンツェの自宅への帰宅は認められず、その後一生、監視付きの邸宅に住まわされ、散歩のほかは外に出ることを禁じられた。すべての役職は判決と同時に剥奪された。『天文対話』は禁書目録に載せられ、ヘルマンによれば1822年まで撤回されなかった。
死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬ることも許されなかった。ガリレオの庇護者のトスカーナ大公は、ガリレオを異端者として葬るのは忍びないと考え、ローマ教皇の許可が下りるまでガリレオの葬儀を延期した。しかし許可はこの時代には出ず、正式な許可に基づく埋葬は1737年3月12日にフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂で行われた。

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ガリレオ 庇護者たちの網のなかで』 田中一郎著 中公新書 (一部抜粋しています)
第5章 二つの対話と宗教裁判
『天文対話』の「第4日」に登場する潮汐理論も、それがバドヴァ時代に思いつかれたものだとほのめかしている。ガリレオの代弁者であるサルヴィアチは「われわれはここヴェネツィアにいます」と述べて、地中海周辺で見られる干満を一貫して問題にしていたのである。
ガリレオの考えでは、地球が公転し、同時に自転しているならば、地球はそれらの方向が一致している側では速く、その反対側では遅く働いていることになる。この速さの違いによって海水は振動させられ、干満が生じるのである。正しい理論を知っている今日のわれわれには納得できるものではないが、ガリレオにはこれこそが干満の原因であり、したがってコペルニクスの地動説の決定的な証拠と思われた。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ガレリオ (1564-1642) 78歳で死亡
みずから造った望遠鏡で天体を観測し、コペルニクスの地動説を証明したガリレオ・ガリレイは、1633年、69歳のとき、その説が聖書を冒とくするという罪に問われ、著述の出版も禁じられ、終身監禁状態になった。
「それでも地球は動く」といったというのは伝説で、彼はこの裁判に服したのだが、しかしこの伝説は彼の心中を表現したものであった。
そのころ彼は、最愛の娘マリア・チェレステを失い、さらに緑内障で失明した。しかし盲目の彼は弟子に口述して「落下の法則」「振子の定律」などを納めた著書を、ひそかにライデンで出版した。
1641年11月、彼は熱病にかかり、翌年1月8日に死んだが、なお教会の迫害はつづき、約100年間その遺体は棺に納められたまま教会の地下室に置かれ、墓をたてることは許されなかった。ヴァチカンが教会側の非を認め、ガレリオに謝罪したのは、ヴァチカンの宗教裁判から350年後の1983年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世によってであった。むろん、ガリレオの知ったことではない。

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●ガレリオの言葉
「宇宙は数学の言葉で書かれている」

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余話。
ネットで「それでも地球は動く」をキーに検索してみた。
「それでも地球は動く」とつぶやいたという逸話の真偽はさまざまです。
ガリレオは『天文対話』で潮の干満は地球が公転し、同時に自転しているためと説明しているようです。それは、「それでも地球は動く」とつぶやいたということになるのでしょう。
実際の潮の干満は17世紀の後半のニュートン万有引力の法則(月と地球の引力)で解明されています。
ガリレオが人類史上初めて望遠鏡で天体を観測してから今年(2009年)で、ちょうど400年です。