じじぃの「人の死にざま_14_良寛」

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良寛さんが20年子どもたちと遊んだ五合庵 動画 YouTube
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良寛入門―もっと愚かに、もっと伸びやかに生きる道  栗田勇著 ノン・ブック
6章 里にくだる良寛 (一部抜粋しています)
しかし良寛は、少数の理解ある人々を除いて、大多数の地元農民からみれば、やはり乞食同様のドロップアウト、世をすねたはぐれ者にすぎなかった。僧侶でもなく俗でもないということは、けっして世間が受け入れる姿ではない。彼自身が、われはいかなる者かと問いかけるまでもなく、彼の周辺の人も、なすところなく、地主や豪族の喜捨(きしゃ)を受けながら、詩や歌や書に遊んでいる良寛をどう見ていたであろうか。
当時、何もしないということは、ほとんど罪悪のように見られていた。事実、私が五合庵の近くで出会った、ある地元の老人から聞いた話では、その人のおばあさんなどは、けっして良寛さんのことをよく言ってなかったとのことであった。一言でいえば、あほでぐうたらの乞食坊主・良寛さあ(さん)だったのである。
そのため、しばしば村民たちのからかいや軽蔑の的になった。しかし良寛は、けっして人の悪口を言うこともなく、泥棒に間違えられれば、間違えられて打擲(ちょうちゃく)を受け、また、怒りやからかいは、静かに受け流していた。そういう逸話がいくつもある。
とはいえ、もちろん楽しい日々もあった。良寛は碁を打つことが好きであった。彼のスポンサーたちはお金を賭けて碁をするので、彼らは良寛に勝ちを譲って、敗けを口実にお金を与えたりした。良寛は、お金が多くたってやり場がないと嘆いたほどだという。
ところが、ときには良寛さんが負けたら字を書いてくださいと賭け碁を迫り、嫌がる良寛に、無理やり書を書かせる手管に長けた人間もあった。
あるとき、出雲崎の万助という男が裏の畑でカキをもいでいると、良寛が下でぼんやり見上げていた。万助が「一局やりましょう」と言う。
万助はたちまち勝って、「さあ、書いてください」と言った。良寛が書くには、
  柿もぎの きん玉寒し 秋の風
「これじゃあ床の間に掛けられませんよ」と万助が言って、また一局。また万助が勝つ。良寛はまた同じ句を書く。三度負けて三度同じ句を書いた。万助が「三枚ともきん玉の句でもあるまいに」となじると、「だっておまえだって同じ囲碁というもので三度勝ったんじゃないか」と笑ったという。無理やりに書を迫られた良寛の苦さが現われている。
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エピローグ章 死ぬ時節には死ぬがよく候 (一部抜粋しています)
さて、貞心尼が良寛を訪れた翌年、文政11年(1828年)旧暦11月12日、三条を中心として、大地震が起こった。マグニチュード7にも及んだという地震のため、死者1600人、負傷者1400を数えた。
旧暦の11月であるから、越後はもうすでに雪深い冬であった。人々は大騒ぎし、天を恨み、人をそしり、あるいは使者を嘆き、この世の終わりかと思われるほどの騒ぎであった。
良寛自身は直接の被害はなかったが、12月8日に友人の山田杜皐へ、次のような見舞い状を出している。実に興味深い。
地震は信に大変に候。野僧草庵は何事もなく親類中死人もなくめでたく存じ候。
 うちつけに 死なば死なずて 永らへて かかる憂きめを 見るがわびしさ 」
いかにも良寛らしい。身のまわりをありのままに受けとめた素直な手紙である。ただこうして生き永らえてきたために、こういうひどい目を見るのが実に辛いという。
ところが、すぐ言葉を続けて、
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。 死ぬ時節には死ぬがよく候。 是はこれ災難をのがるる妙法にて候。かしこ」
というのである。まことにここには、人を喰ったというか、大愚というか、良寛の面目躍如たる神髄がある。
天真に任せ、現実を優しく率直に受け入れるという姿が、このような大災害に遭ったとき、はしなくも、見舞いの手紙に見事に暴露されているのである。
言い換えれば、死や災難を免れるという我を立てて、さまざまな配慮や抵抗をするのではなく、自然に従い、自然を受け入れることによって、かえって心の平穏が得られるという教えを、実感として語ったものである。生半可な人間にはけっして言えない、まさに良寛ならではの名文である。
死ぬ時節には新ぬがよく候、という一句は、肺腑を貫く。
道元の「生死」の巻を髣髴とさせる。すなわち「生来たらば、ただこれ生。滅来たらば、これ滅に向かいて仕うべし。厭うことなかれ、願うことなかれ」−−すでに死を前にして、良寛道元の教えを生きてきた。理屈ではなく、地震見舞いのありふれた消息文に、それがおのずから滲み出ていた。
文政13年(1830年)の夏ごろから良寛の健康は刻々弱っていった。
そして、天保改元されたその年の暮近くには、ついに危篤状態に陥る。折しも世は伊勢のおかげ祭りや一揆が相次ぎ、騒然とした幕末を迎えようとしていた。この雪深い越後の片すみで、いま良寛は静かに最後のときを迎えようとしていた。良寛は、ひしひしと迫ってくる死を見つめていた。そこには、わが身の老いゆくのを受け入れ、見つめている。自然に任せきった良寛のまなざしが見える。
老いを悼む歌というのが、『蓮の露』に残されている。
 惜しめども 盛りは過ぎぬ 待たなくに 止めくるものは 老いにぞあるける
良寛は老いを見つめて、ただよしとしていたのではない。そこには深い感慨もあった。
 ゆくりなく 一日二日を おくりつつ 六十路あまりに なりにけらしも
茫然として過ぎ来しかたの日々を数えている良寛の姿がある。
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辞世の歌のほかに、良寛は死の間際にこんな句を残したと言われている。これは地蔵堂町の小川家に残されたという文書である。
良寛禅師重病の際、何の御心残りはこれなきかなと人問いしに、死にとうなしと答う。また辞世はと人問いしに、
  散る桜 残る桜も 散る桜
もうすでに高僧として名高かった良寛さんに、ある人が何かお心残りはありませんかと尋ねた時、「死にとうなし」と答えたという。
これは私にはたいへん尊い真実の言葉のように思える。死にたくないと良寛が言った時、彼はすでに死にたくないという執着を、その言葉で乗り越えたといってもいい。
死にたいというのもうそであろうし、死にたくないというのも、いかにも執着して、死を恐れているように聞こえる。しかしあえて死に臨んで、死にとうなしと言い切ったとき、彼は無垢のおのれの真実と直面していた。この真実こそ、彼が天真に身を任せ、騰々(とうとう)として舞い上がる、まさに「天上大風」を天駆ける凧のような自由な境地であった。

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