じじぃの「武士道」考

土光敏夫 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (一部抜粋しています)
土光敏夫(どこう としお、1896年(明治29年)9月15日 - 1988年(昭和63年)8月4日)は、昭和時代の男性エンジニア、実業家、財界人。第4代経済団体連合会(経団連)会長。位階勲等は従二位勲一等(勲一等旭日桐花大綬章・勲一等旭日大綬章・勲一等瑞宝章)。称号は岡山県名誉県民。
経歴
明治29年(1896年)9月15日、岡山県御津郡大野村(現在の岡山市)に肥料仲買商の土光菊次郎・登美夫妻の次男として誕生。母の登美は、日蓮宗に深く帰依した女性で、女子教育の必要性を感じ、昭和16年(1941年)にほとんど独力で横浜市鶴見区に橘学苑(現在 幼稚園、中学校及び高等学校がある)を開校した程の女傑であった。校訓を「正しきものは強くあれ」とし、土光は母の気性を強く受け継いだ。
土光は、関西中学(現 関西高校)を卒業後、代用教員をしながら一浪して、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)に入学。同期生には、茅誠司、武井武などがいた。大正9年(1920年)東京高等工業学校機械科を卒業後、東京石川島造船所(後に、石川島重工業)に入社した。大正11年(1922年)タービン製造技術を学ぶため、スイスに留学する。昭和11年(1936年)芝浦製作所と共同出資による石川島芝浦タービンが設立されると技術部長として出向し、昭和21年(1946年)に社長に就任した。この頃その猛烈な働きぶりから「土光タービン」とあだ名される。
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「質素な生活」を宣伝
行政改革を推進する宣伝として、昭和57年(1982年)にNHKで「NHK特集 85歳の執念 行革の顔 土光敏夫」というテレビ番組が放送された。その内容は、土光の行政改革に執念を燃やす姿と、生活の一部を見せたものであった。土光の普段の生活として、次のようなものが映し出された。
戦後一回も床屋へ行ったことがなく、自宅で息子にやってもらう。
穴とつぎはぎだらけの帽子。
戦前から50年以上使用しているブラシ。
妻に「汚いから捨てたらどう?」と言われた使い古しの歯磨き用コップ。
農作業用のズボンのベルト代わりに使えなくなったネクタイ。
とりわけインパクトが大きかったのは、妻と二人きりでとる夕食の風景であった。メニューはメザシに菜っ葉・味噌汁と軟らかく炊いた玄米。これが「メザシの土光さん」のイメージを定着させた。2003年3月に「アーカイブス特選」としてこの番組が再放送された際ゲスト出演した瀬島龍三によれば、ある行革に関する集会の終了後、会場の出口で浅草六区の婦人会連が袋いっぱいのメザシを持って待ち構え、出てきた土光と瀬島に手渡したという。あまりの量で大変な重さだったと瀬島は述懐した。
また、普段の生活ぶりは感服させられるほど非常に質素であり、決して蓄財家でもなく、微々たる生活費(月10万円を超えることがなかったという)以外の残りの多額の収入は、すべて横浜市鶴見区にある私立校の橘学苑に寄付されていた。

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東京新聞夕刊 『この道』 連載43回 小柴昌俊 2009/2/25(水) (一部抜粋しています)
2003年10月、私は思い切って平成基礎科学財団を設立した。思い立ったのは前年の9月のことだ。そのころ、国立大学の独立行政法人化の是非をめぐって新聞やテレビで議論が行われていた。
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財政や金融が専門の友人たちは「長年の超低金利政策で、何十億円という基本財産を持っている財団でも、利殖で事業費を出せないのでヒーヒー言っている。基礎科学になんか、どこの会社も金を出すはずがないからやめろ」と口をそろえて忠告した。そもそも財団設立には基本財団として1億円が必要だが、私の持ち金は月々の年金のほかにはウォルス賞の賞金500万円だけ。「これじゃ、どうしようもない」と思っていたところに、ノーベル賞の連絡が入ったのだ。
賞金を合わせれば4000万円。「これならもう一息だ」というので浜松ホトニクスの晝馬輝夫社長を訪ねてお願いしたら、翌日、6000万円を送ってくれた。これで1億円になり、申請にこぎつけた。

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どうでもいい、じじぃの日記。
2/22(日)、テレビ朝日 サンデープロジェクト 1000回目記念番組 「日本の拠るべきモノ」を見た。
ゲストは中谷巌(三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長)、櫻井よしこ(ジャーナリスト)、姜尚中(東京大学大学院教授)、西部邁(評論家)で、司会は田原総一朗だった。
4人のゲストに「日本の拠るべきモノ」のキーワードを色紙に書いてもらい、そのキーワードについて説明するという番組だった。
中谷巌氏は「精神性」、櫻井よしこ氏は「武士道」、姜尚中氏は「地域の復活」、西部邁氏は「日本人の集団の知恵」がキーワードだった。
印象に残ったのは櫻井よしこ氏の「武士道」であった。「日本の拠るべきモノ」は「日本精神」であり、それが「武士道」なのだそうだ。
櫻井よしこ氏が番組で言っていた【武士道】の本の中で、引用した言葉に「滅私奉公」があった。
「滅私奉公」という言葉で思い浮かんだのは土光敏夫さんだった。
昔、テレビで土光さんと奥さんが夕飯に「メザシ」を食べていた光景を思い出した。それは、ほとんどの財産を母が作った橘学苑(学校)の運営の資金にするための摂生生活であった。
東京新聞の夕刊に連載されていた小柴昌俊さんの『この道』が今月の28日で終わりとなる。
今日の連載はノーベル賞を受賞したときのことが書かれている。
小柴さんも、もらったノーベル賞賞金を将来の子どもたちのために、すべて使ってしまった。
「武士道」と土光さん、小柴さんはどこかで繋がっているのかもしれない。