じじぃの「尊厳ある高齢者」考

『地球の目線』 竹村真一著 PHP新書 (一部抜粋しています)
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人間をバカにする文明、人間を開いていく文明
もう一つ、これとあいまって、近代文明のありかたを根底で規定する「文明の型」について眼を向ける必要があるだろう。
つまり、西欧近代の文化のパターンとして、"人間不在"の技術文明を育む傾向が内在していたのではないか? あるいは文化の型として、西欧近代の文化は"人間を必要としない"(人間の内的な能力や熟練を必要としない)「人間非依存型」の技術を育むベースがあったのではないか? ということだ。
問題をわかりやすく示すために、極端な比較例でまずインドを取りあげてみよう。IT分野で躍進するインドはBRICsと称される新興4国のなかでもその生産物の「知的集約度」が群を抜いている。石油や大豆など原材料輸出への依存度が高いロシアやブラジル、大量・安価な石炭を使った工業生産の中国と違い、インドのエンジンは何よりその知的創造性であり、その資本は高度な技能を蓄積した「人間資本」といえる。
さすがゼロを発見した民族! などと納得されがちだが、重要なのはそれがほんの一握りの理数系エリートだけでなく、最下層のスラム住民まで含めた国民の広い層にわたって、そうした人間の知的能力を評価し伸ばしていこうという基本的な志向がある点だ。そこには英語やITといった表面的な問題を超えた、もっと根源的な文明の「型」が関係しているように思われる。一言でいえば、インドは数千年の昔から「人間開発型」の文明を築いてきたということだ。
たとえば美しいドレーブが印象的なインドの民族服サリーは、実は一枚の布にすぎない。つまり布をからだに巻きつけただけの、衣服としてはもっとも原始的なもの。だから手を通せば着れる洋服とちがって、サリーは着る人間の側に高度な技能を要求する。しかし着る側にソフトウェアがあれば、サリーは洋服以上に自由で多様な着こなしができる。状況に応じて巻き方やドレーブの作り方を変えたり、布のあまった部分で砂塵や日差しをよけたり、寒がっている子どもを覆って抱いたりもできる。
つまりサリーは"人間の内的な技能の開発・蓄積を促す服"であり、文化の型として「人間開発型」−−つまりソフトウェアが道具や機械の側に「外化」されるのでなく人間の内部に蓄積されるような文化パターンを形成している。そしてモノ(道具)としては原始的で簡素でも、人間と道具の関係の総体としてみてば、極めて洗練された服飾文化を形成している。
この対比は、箸とフォークのちがいでもある。箸はたんなる二本の棒にすぎない。道具にソフトウェアを「外化」して、切る・刺すなど個別機能特化したナイフ・フォークに比べれば、道具としての進歩の跡がみられない原始的なもの。でも、使う人間の側の熟練により、この二本の棒はナイフにもフォークにもなり、単純さのなかに優美な複雑さを醸しだ知的なゲームになる。インドでは箸はより非物質化して人間の指となり、まったく道具を使わずに汁物のカレーすら見事にすくって食べるという、完全に人間の内部のソフトウェアに依存した魔術となっている。
人間が何の内的知性や技能の蓄積をもたずとも(つまりどんなバカでも)、スイッチポンで何でもできてしまうような道具の進歩を「文明の尺度」と考えるなら、インドは文明国ではない。しかし人間自身の開発度を進歩の尺度とするなら、評価はまったくちがってくる。
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もちろん、属人的な技能や尺度をこえた普遍的・客観的な地平で世界を記述し、それを技術として「外化」しえたからこそ、世界中がその科学技術の果実を恩恵として受けることができた。だが、その普遍性と外化志向が極端なまでに推し進められた結果、技術は人間の知的・感覚的な熟練をますます必要としない方向へ進歩し、結果として"人間不在の、人間を必要としない"機械・技術の方向へと進展していった。
これは構造的に"人間を(より)バカにする"機械技術パラダイムであり、ある意味で"人間をバカにした"技術文明を育むこととなった。
人間「開発」より人間「代替」型のテクノロジーは、人類をつらい労働から解放して、より知的でクリエイティブな仕事に集中する自由をもたらすというのが20世紀の神学であったが、結果はほんの一握りの知的集約型産業従事者(シンボル・アナリスト)と、何十億もの知的創造と熟練の日常回路から疎外された大衆を産むことになった。

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どうでもいい、じじぃの日記。
子供の頃、人間の住む環境は無限に便利になっていくものだという神話があった。
大人になる頃は、バラ色の未来社会が待っていて、ロボットが料理を行い、ロボットが掃除をしてくれると思っていた。
『地球の目線』の本の中に「人間が何の内的知性や技能の蓄積をもたずとも(つまりどんなバカでも)、スイッチポンで何でもできてしまうような道具の進歩を「文明の尺度」と考えるなら、インドは文明国ではない。しかし人間自身の開発度を進歩の尺度とするなら、評価はまったくちがってくる」が書かれている。
19日のニュースに「風呂の温度は60度…介護施設で入浴の92歳死亡事故」があった。
再放送であったが、NHKクローズアップ現代必要ですか?その“おむつ” を見た。
誰でも、やがて介護老人になる。歳をとると脳も、脳以外の身体も比例して衰えてくると思われがちだが、吉本隆明『老いの超え方』の中に「意志と実際の行動の分離が拡大することを鈍いと解釈すると、そうなってしまう。そうでなくて、それは「超人間」的に分離したと解釈すると、両方で納得できるわけです」が書かれている。
老人になっても外の世界は案外、よく見えているものらしい。
「尊厳ある高齢者」にすぐおむつをさせるのはどうだろうか。「尊厳ある高齢者」に機械的に老人をお風呂に流しこんで適当に洗ってしまうのはどうだろうか。「尊厳ある高齢者」に食事が遅いからといってスプーンで食べ物を口に流し込んでしまうのはどうだろうか。
「シンプル イズ ビューティフル」という言葉がある。
人間関係も原点にかえって「シンプル イズ ビューティフル」になる時期にきているのかもしれない。