じじぃの「歴史・思想_642_逆説の日本史・明治時代の終焉・明治天皇」

明治天皇

江戸人物事典 より
日本最初の立憲君主
1852~1912 (嘉永5年~大正元年)。在位1867~1912。
日本最初の立憲君主
名は睦仁(むつひと)。幼称は祐宮(さちのみや)。孝明天皇より第二皇子。67年(慶応3)孝明天皇皇位を継承して、王政復古により新政府を樹立。68年明治と改元した。翌10月、京都から東京の江戸城に入り、日本最初の近代立憲君主となった。
全国を精力的に行脚、94-95年の日清戦争では広島の大本営に起居し統帥にあたった。1912年7月崩御

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『逆説の日本史 27 明治終焉編 韓国併合大逆事件の謎』

井沢元彦/著 小学館 2022年発行

第3章 「明治」という時代の終焉 より

「日本史の最大の特徴は天皇の存在である」という重要な事実

武士たちは実質的には天皇の権力を奪いとったのだが、形の上では「天皇家から任命された武士の代表の征夷大将軍(あるいはその番頭の執権)が天皇の代理として日本を統治する」という建前を貫かざるを得なかった。自分たいは決して天皇にならないからである。だからこそ、約700年にわたった武家政治の終わり、つまり幕末にはその建前を逆手にとって「幕府がお預かりしていた日本の統治権天皇家にお返しする」つまり大政奉還という形で決着をつけることが可能だったのである。
またこの流れを知っていれば、その「回り道」を拒否してまったく新しい権力を築こうとした織田信長のユニークさも明確になる。神の子孫である天皇を超えるには、自分が神になるしかない。だから信長は自己神格化をめざした。日本の「ルール」の中では、それをやらないと天皇家に取って代われないのである。頭がおかしくなったのでも、思い上がったのでも無い。そうえざるを得なかったのだ。それゆえ兄貴分の信長の失敗を見ていた徳川家康は宗教面のブレーンとして専門家の天海僧正(てんかいそうじょう)を採用し、最終的に自分を東照大権現(とうしょうだいごんげん)という神に祀り上げることに成功したのである。
おわかりだろう。「日本史の最大の特徴は天皇の存在である」ことがわかっていなければ、日本史などわかりようがないのである。

晩年は糖尿病と慢性腎臓炎に悩まされていた明治帝

大日本帝国の成立もそうである。近代的な西欧型の国家を作るためにもっとも重要なことは、「万人平等の市民社会」をどうやって建設するかだ。これは、朱子学を基本思想としている朝鮮国(大韓帝国)や清帝国では絶対に実現不可能な課題である。しかし大日本帝国は、というより江戸時代以来いわゆる「勤王(きんのう)の志士」たちは、その朱子学を逆手にとって神道と一体化させることによって「四民平等(しみんびょうどう)」という困難な課題を達成した。言うまでも無く、大日本帝国憲法では「大日本帝国天皇が統治する国家である」と規定している。したがってこの時代の日本史つまり大日本帝国史においては、天皇がどのような人物でどのように活動したかということも重要な分析事項になる。
現在も日本国憲法において天皇は「国民統合の象徴」であるが、こうした天皇重視の伝統が日本国憲法が将来改正される時(必ず改正されるだろう)に変わるかどうかはわからない。しかし、それ以前の歴史については、明治時代の終わりつまり歴史の分岐点を、明治天皇崩御でとらえなければならないだろう。そこで少し時間を戻して、明治天皇とはどういう人物であったか少し述べよう。
こうした時、まず百科事典の客観的で通説的な評価を紹介するのが『逆説の日本史』の基本的なやり方だが、明治天皇に関する記述はあまりにも多く、全部を引用しているとそれだけでこの節が終わってしまうので、私がもっとも「簡にして要を得」ていると考える明治天皇の履歴を紹介しよう。
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さて、明治天皇には『明治天皇紀』という宮内省(当時)が細かく記録した行動記録がある。また、身長等のデータもある。伝記『明治天皇』(新潮社刊)の著者であるドナルド・キーンは、そのダイジェスト版とも言うべき『明治天皇を語る』(新潮新書)の中で、天皇の身長について「崩御の当日に皇太后の許しを得て計られた結果によると、身長は5尺5寸4分、約167センチメートルでした。当時としては大柄です。残念ながら体重は測られませんでした」と述べている。ちなみに、私の身長も167センチである。残念ながら現代の基準では決して「大柄」では無いが。
では、明治天皇の体重はどうだったのか? これについては面白いエピソードがある。ドナルド・キーンによれば、明治天皇は新聞を読むことが好きでは無かったが、そうなった理由はある新聞に「帝の体重は75キログラム」というデタラメを書かれたことだと言うのだ。「朕(ちん)はそんなに太っておらんぞ」ということだったらしい。実際、天皇は若いころは乗馬が好きでよく体を鍛えていた。子供のころは京都で女官たちに育てられていたのだが、東京へ移ってからは帝として必要な胆力を鍛えていただくという方針で、江戸無血開城の時に活躍した元幕臣山岡高歩(号は鉄舟、通称は鉄太郎)らが侍従を務めた。その影響で、華美を嫌い質素倹約を旨とする性格に育った。前にも述べたが、自分の贅沢のために国防費を削って税金で閤か宮殿を造らせた清の西太后(せいたいこう)などとはまるで正反対の生活態度であった。あまり指摘されないことだが、当時日本にやってきた清国や朝鮮国の留学生たちも、自分たちの国の「皇室」と日本を比較して、やはり日本を見習うべきだと考えたことは想像に難くない。

体重の話を続けると、天皇は晩年は肥満体だった。甘いものが好きだったからである。またいわゆる大酒飲みで、若いころは日本酒、晩年はワインを好んでいた。皇太后が身長の計測は許しても体重を測らせなかったのは、そのためかもしれない。記録に「重い体重」が残ってしまうからである。崩御は満年齢で60歳を迎える年の7月30日(誕生日は11月3日。戦前はこの日は明治節という祝日だった)だが、便年尾数年間は糖尿病と慢性腎臓炎に悩まされていたという。時々昏睡状態に陥ることもあったらしい。糖尿病の影響で歯も相当弱っていたようだが、歯医者に罹(かか)ろうとはしなかった。いや、歯医者どころか明治天皇は「自分の健康にまったく無関心でしたし、生涯大の医者嫌いでした」(引用前掲書)だったのである。その理由についてドナルド・キーンは、「自分は大丈夫だろう、自分のような丈夫な人間は医者とは関係ないだろうと思っていました」(引用同)と述べているが、この点について私には異論がある。単なる健康過信で「医者嫌い」になったのでは無く、西洋医学が嫌いだったのではないだろうか。私がそう考える理由は、拙著『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編』を読まれた方にはおわかりになるはずである。

軍服が破れても靴に穴があいても修理して使い続けた「倹約家」

ドナルド・キーンの『明治天皇を語る』によれば、たとえ御所(ごしょ)の照明も電灯も好まず、可能な限り蝋燭(ろうそく)を用いた。蝋燭には大きな欠点があって、立ち上がる煤(すす)で天井や壁が汚れてしまう。臣下は困ってたびたび諫言したが、受け入れられなかったという。また、日清戦争の時広島に臨時大本営が置かれ天皇も現地にあった木造2階建ての家に数ヵ月滞在したのだが、今で言う2DK程度の部屋で昼は寝室のベッドを片付け執務室にして、食事もそこで取ったという。部屋があまりにも殺風景なので臣下が絵など壁に掛けてよろしいでしょうかと進言したところ、天皇は「戦っている兵士たちにはそういうことができない」と断わり、安楽イスや冬の暖炉の使用を勧めても拒否したという。また軍服が破れても継ぎを当て新品には取り替えず、靴の裏に穴があいた場合はそれを修理に出させたという。臣下は修理するというより新しい靴を買ったほうが安いと言いそれは事実だったのだが、天皇は修理して使うということにこだわり続けた。
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明治天皇がいわゆる名君であったということは間違い無いところで、それは明治政府に批判的だった人間も評価する部分であった。明治を代表するジャーナリストであり歴史家でもある徳富蘇峰(とくとみそほう)は、織田信長から始まる日本通史『近世日本国民史』の著者としても知られているが、この膨大な著作を書こうとしたそもそもの動機が、この明治天皇の時代をほぼ同時代人(蘇峰は1863年文久3>生まれ)として生きた蘇峰が、この明治天皇の時代をぜひ書き残しておきたいというものだった。

じじぃの「生活習慣病・痔は国民病・なんと成人の7割が患っている?不老不死の研究」

痔は切らずに自分で治せる!?全人類に知ってほしい「痔の治し方」(前編)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=rIq4miI0gis

平田肛門科医院


当院について

痔の治療なら 東京青山 平田肛門科医院
●当院について
当医院は、1935年に肛門科専門医院として開設され、80年以上の歴史と18万人以上の患者さんの治療経験を通じて、「患者さん本位の親切医療」を行ってきました。
https://www.dr-hips.com/ayumi/

『不老不死の研究』

堀江貴文・予防医療普及協会/著 幻冬舎 2022年発行

第3章 生活習慣病「糖尿病」「腎臓病」なき世界 より

実は水虫より多い! 「痔」の恐ろしさに抗え

痔は国民病! なんと成人の7割が罹患

1988年に製薬メーカーが実施した調査によると、36%の日本人が「自分は痔だという自覚がある」と答えたそうだ。自覚症状がない人も含めると、なんと日本人の成人の7割が痔を患っている。痔は、実は虫歯の次に罹患者が多い。水虫やカゼよりも罹患者が多い「国民病」なのだ。読者の皆さんは、自分のお尻が痔にかかっている可能性を強く疑ってほしい。
1935年に開設された平田肛門科医院は、85年以上にわたってのべ約60万人の患者を診てきた。「痔は切らずに(手術せずに)治す」をモットーとし、いぼ痔(内痔核や外痔核)の手術率は12%にとどまる。「ドクター・ヒップス」という愛称で知られる平田雅彦院長に話をうかがった。

  「痔とは肛門の病気の総称です。痔には切れ痔(裂け痔)、いぼ痔、あな痔(痔瘻、じろう)といった種類があります。肛門の浅い部分が切れている状態が切れ痔、肛門や直腸の下部の静脈が球状になった静脈瘤がいぼ痔です。切れ痔やいぼ痔にかかると、排便時に痛みや出血を伴います。あな痔と呼ばれる痔瘻ができると、膿(うみ)が出ます。肛門が炎症を起こしたり、粘膜が弱くなったりすることによって痔が発生するのです」 (平田院長)

便秘ではない人は、朝起きると必ずウンコが出る。私はおなかが緩いほうなので、1日に2度3度とウンコが出ることがある。毎日ウンコが出るからには、直腸や肛門の組織はほかの部位よりも丈夫にできていそうなものだ。

  「私はかって、人間の体の粘膜の厚さを全部測ったことがあります。目や喉の粘膜よりも、肛門の粘膜は断然厚いと思っていました。ところが人間の体にある粘膜は全部、ほとんど同じ厚さだったのです。その瞬間『これは痔になっても不思議はないな』と思いました。菌だらけの便が粘膜に毎日ついているのですから、炎症を起こして当たり前です。もちろん炎症が起きた部位は、リンパ球が掃除してくれます。炎症を頻繁に起こす口の中とお尻には、局所免疫といってリンパ球がいっぱいあるのです。しかし、生活習慣病やストレス、疲れによって免疫が下がると、リンパ球の働きが弱って時にかかってしまいます」 (平田院長)

便秘、下痢、過度の飲酒、女性の生理といった要素に加え、肉体疲労やストレス、冷え、長期間座りっぱなしでいることが痔を悪化させる。多くの者に思い当たるフシがあるのではなかろうか。

1時間に一度立ち上がって10メートル歩こう

意外なことに、運動不足も痔に直結するそうだ。

  「新型コロナのパンデミックによって、職場に出勤せずオンラインで仕事をする人が増えました。すると必然的に運動不足に陥ります。パソコンの前で1日中座り仕事をしている人は、1時間に一度席を立って、部屋の中を10メートルグルグル歩き回るようにしてください。ずっと座っていると肛門あたりの血管が圧迫されて、お尻にうまく血が回らなくなるのです。すると炎症を引き起こしやすくなります」 (平田院長)

人間の骨格は、四足歩行の時代の名残りがあるそうだ。四足歩行から二足歩行へ進化した段階で骨格がガラリと変わっていれば、腰痛も痔も起こらなかったのかもしれない。
IKEAの通信販売で、レバーをくるくる回すと高さを調節できる昇降式の机を売っている。あの机を使って、立ったままパソコン仕事をするのも腰痛と痔の対策になるかもしれない。

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どうでもいい、じじぃの日記。

意外なことに、運動不足も痔に直結するそうだ

私は75歳を超えたアスペルガー老人だ。
1日に、5~6時間はパソコンの前に座っている。
約10年も前に買った、座布団を今も使っている。
座布団の中はプラスチックの大きな穴の開いた3センチ位のプラスチック(リガトーニの形)がたくさん入っている。
座るたびに、座布団をずらして座るのだ。
お尻に当たるところの弾力が微妙に異なって、座り心地が変わる。
こんなことだけで、痔が治るわけがないな。
トホホのホ。

じじぃの「歴史・思想_641_逆説の日本史・中華民国の誕生・宋慶齢」

薇羽看世間【日本語版】夫の孫文の生前理想に反した宋慶齢の不義な人生

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9VZd4bZSJDw

中国を支配した華麗なる宋家三姉妹


内山完造も眠る 宋慶齢陵園

2016/09/10 秘境・上海情報
●中国を支配した華麗なる宋家三姉妹
長女宋靄齢は大財閥の孔祥熙と次女の宋慶齢は中国革命の父孫文、三女の宋美齢蒋介石と結婚
https://ekobiiki888.hatenablog.com/entry/20160910/1473507103

『逆説の日本史 27 明治終焉編 韓国併合大逆事件の謎』

井沢元彦/著 小学館 2022年発行

第2章 「好敵手」中華民国の誕生 より

「宋教仁の祟り」がケチのつき始めとなりついに瓦解した北京政府

袁世凱辛亥革命では皇帝を退位させ、孫文に代わって臨時大総統となった)は着々と皇帝即位のプロセスを進めていた。そのために設けられた御用会議「参政院」への根回しを終えると最終段階に入った。カネで官僚や民衆を買収し袁世凱が皇帝になることを望むという触れ込みの「帝制請願団」を作らせ、世論を盛り上げた。
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欧米列強も日本も、袁世凱の皇帝即位がこれほど支持されないとは見ていなかったようだが、中国全土でそれに対する反発が起こると、あわてて方針を転換した。「洪憲皇帝」不支持の方針に転換したのである。そこで袁もあわてた。結局は1916年(大正5)3月22日、袁世凱は「退位」を表明した。この日付、お気づきだろうが、ちょうど3年前に己の野望を遂げるため宋教仁(民主主義の実現を目指す最も急進的な革命家だった)を死に追いやった日と同じである。日本人なら「宋教仁の祟(たた)り」などと考えるかもしれないが。「怪力乱神」つまり超自然現象や神を信じない人間にとってはただの偶然である。
袁世凱はどちらの態度を取っていたが、寡聞にして私は知らない。ただ、これが「ケチのつき始め」どころか大瓦解の始まりだったのは事実である。中央政府に反抗して広東、浙江、陝西、四川、湖南など各省が独立を宣言した。これで強いショックを受けた袁世凱はその年の6月6日、持病の悪化でこの世を去った。56歳だった。その後、袁世凱の腹心たちが相次いで「北京政府」を維持しようとしたが、北京周辺はともかく各地ではまさに雌伏時代の袁世凱が率いていたような「軍閥」があちこちに生まれ、統一政権としての力は大きく低下した。つまりこれ以降中国は戦国時代ならぬ「軍閥割拠時代」となり、孫文の後継者蒋介石(しょうかいせき)が国民党を立て直すまで大きな混乱が続くことになる。

では、孫文はその間どうしていたのか?
第二革命の失敗で日本に亡命していた孫文は東京で革命派の組織を再編した中華革命党を結成した。誤算もあった。長年の同志でありもっとも優秀な軍人でもある黄興がこの組織には参加しなかったのだ。その理由は過去の革命派の統制不足を反省した孫文らが新たな組織を立ち上げるにあたって、メンバーが総理となった孫文に絶対服従を誓うように求めたのに対し、黄興がそれを拒否したからと伝えられている。黄興はこの後第三革命では再び孫文と連携する。だが、その寿命は長く無く、第三革命の期間中に42歳で亡くなった。

第二革命第から第三革命にかけて日本亡命中の孫文について特筆すべき出来事と言えば、公人としてはこの中華革命党の結成だが、私人としては二番目の結婚がある。その相手は「宋家(そうけ)の3姉妹」の次女宋慶齢(そうけいれい、孫文逝去の後は1926年に中国国民党中央執行委員に就任した。1981年、「中華人民共和国名誉主席」の称号を授与された)であった。この2人の仲をとりもったのが孫文の盟友梅屋庄吉(長崎出身の豪傑商人)であり、すでに述べたように孫文宋慶齢が結婚披露宴を開いたのは日本の梅屋邸に於いてであった。

宋慶齢(1893~1981)は、中国上海を本拠とする浙江財閥の大富豪宋嘉樹(かじゅ)を父として生まれた。嘉樹は早くから孫文を財政的に支援しており、慶齢の姉の靄齢(あいれい)はキリスト教徒の父に従って早くから渡米し、その後はアメリカにおける孫文の革命活動を秘書として支えた。第二革命が失敗し孫文が日本に亡命すると靄齢も父と共に来日し秘書を続けたが、同じく来日していた実業家の孔祥熙(こうしょうき)と親しくなり横浜で結婚、代わりに妹の慶齢が孫文の秘書を務めるようになった。ちなみに孔祥熙儒教の開祖である孔子の直系の子孫と言われている。姉と同じく英語に堪能な慶齢は有能な秘書だったが、東京で革命運動を続けるうちに孫文が彼女に惚れ込んだ。問題は2人の年齢差が26歳もあったことと、孫文には親の命令で結婚した妻との間に子供もいることだった。当然彼女の両親は大反対である。ところが、梅屋庄吉の妻トクは苦労人で頭の良い女性でもあった。慶齢も孫文との結婚を望んでいることを確認すると、庄吉に2人の結婚に力を貸すように説得し、長年別居していた中国在住の妻子には手切れ金を手配して離婚を成立させた。これで2人が結婚するのになんの障害も無くなった。ただし、孫文の同志たちはこの「年の差婚」を認めなかった。当時の26歳差は、今なら40歳以上の差に匹敵するだろう。まさに「父親と娘の結婚」ぶなってしまう。しかし、日本の同志たちはそんなことは気にしなかった。1914年、2人は東京で結婚した。

  披露宴は11月10日、梅屋邸2階の大広間で行なわれた。仲人は庄吉夫妻である。孫文と慶齢がトクの酌で三三九度の杯を交わすと、犬養毅が祝福の謡をとなえた。このあと、頭山満の仲立ちで孫文と庄吉が義兄弟、慶齢とトクが義姉妹の杯を交わした。
       (『梅屋庄吉の生涯』小坂文乃著 ナガサキ文献社刊)

先に紹介したところだが、庄吉が孫文のために挙行した「たった1人の上映会」とこの「義兄弟の契(ちぎ)り」が、孫文ともっとも親しかった日本人は梅屋庄吉であると私が考える、「2つの理由」である。ただし、その後の日本はこの孫文との良好な関係を生かせず、首相となった犬養毅も軍人の凶弾に倒れた。頭山満の理想とした東アジアの共存共栄も実現しなかった。そして皮肉なことに大日本帝国は、慶齢の妹美齢(びれい)の夫となった孫文の後継者蒋介石が再建した中華民国を敵として、泥沼の戦争に突入していくことになる。

じじぃの「半導体をめぐる米中の対立・対中国への半導体輸出規制強化へ!プラス9」

アメリカVS中国 対中「半導体規制」で日本の未来は…【1月27日(金)#報道1930】

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=GmS4WiyEYIA

半導体対中規制 日米欧 包囲網の姿とは?【日経プラス9】(2023年1月26日)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=v_xhIv44njc

654回 ジリ貧の中国半導体産業 WTO提訴も無駄 世界トップは日米蘭

高橋洋一チャンネル講演会
動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8oEoiHDF11E


今夜のプラス9 トヨタが社長交代、なぜこのタイミング?

2023年1月26日 日本経済新聞
【ゲスト】大野敬太郎副幹事長(自民党)、細川昌彦(明星大学
トヨタ自動車豊田章男社長が代表権のある会長になり、佐藤恒治執行役員が社長兼最高経営責任者(CEO)に昇格する人事を発表した。
日本最大の企業、トヨタの社長交代の狙いを日経の黒沢裕企業報道部長が解説する。

半導体をめぐる米中の対立 対中国への半導体輸出規制強化へ

バイデン米政権が中国への半導体輸出規制を巡り、半導体製造装置に強い日本やオランダをはじめとした同盟国に追随するよう要求している。
半導体を巡る米中の覇権争いと日本の対応について、自民党大野敬太郎副幹事長、明星大学の細川昌彦教授と議論する。

半導体産業の再興に挑む日本。だが、現時点では、米国、韓国、台湾のように最先端の微細化プロセスで技術を競える状況にはない。
日本発のファウンドリ企業ラピダスがIBMから2nmプロセスのGAAトランジスタ技術の開発推進で提携した。

細川昌彦 「チョークポイント。チョークポイントとはこれがないと首が閉ってしまう。半導体でいうと台湾はチョークポイントを抑えている。半導体で大切なサプライチェーンはどこなのか。例えば半導体製造装置には露光装置がある。この装置はオランダが抑えている。日本には半導体の素材、製造装置に強みを持っている。これら技術が海外に流出しないように守っていく」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD25DOP0V20C23A1000000/

アメリカと中国「半導体めぐる強烈な対立」の重み ツキディデスの罠を避けるため、原則すら歪める

2023年1月9日 東洋経済オンライン
【執筆者】鈴木一人(東京大学公共政策大学院教授、地経学研究所長)

【特集・アメリカの経済安全保障(第1回)】

アメリカ商務省が対中半導体輸出規制強化を発表した2022年10月7日は、おそらく同時多発テロが起きた2001年9月11日のように、「10.7」として記憶されるだろう。それほど、この輸出規制強化は重要な変化であり、米中関係を見る上で潮目となる変化と見られている。本特集「アメリカの経済安全保障」では、こうした潮目に差し掛かったアメリカの経済安全保障を多角的に分析するが、本稿では、アメリカの経済安全保障が米中対立の枠組みの中でどのように位置づけられているのかを中心に検討してみたい。

半導体の特殊性
そのツキディデスの罠が明確に現れているのが半導体を巡る米中対立である。冒頭に述べた10月7日の対中半導体輸出規制強化は、米中対立の争点となっている蓄電池や医薬品、レアアースなどと半導体は大きく異なる点に注意が必要である。蓄電池は中国製品がグローバル市場の3分の1を占め、その材料となるリチウムなども中国が市場の70%を支配する。医薬品の有効成分(API)もアメリカは多くを中国に依存している。

レアアースは中国がグローバル市場の80%を握っていると言われている。しかし、アメリカは半導体に関しては中国に依存しているわけではない。先端半導体の製造は台湾や韓国、その設計はアメリカ、半導体製造装置は日米オランダに強みがあり、中国はいずれの分野においても劣位にある。つまり、中国は自国で使う先端半導体は台湾から輸入し、自国の半導体産業で使う設計データや装置は西側諸国に依存している。

こうした中で、アメリカが対中半導体輸出規制を強化するのは、とりもなおさず中国の半導体産業の成長を押さえつけ、その間に西側諸国が協力して、さらなる先端半導体の開発を進め、中国との能力のギャップを拡大することを目的としているからである。

つまり、アメリカと西側諸国が持っている優位性を強化し、中国が追いつけない状況を作ることで、先端半導体を必要とするスマートフォンやデータセンターのサーバー、さらには人工知能(AI)やスーパーコンピュータ、量子技術などの発展を阻害することを目的としている。ただし、注意しなければならないのは、対中半導体輸出規制の強化はあくまでも先端半導体に限定されているものであり、全ての半導体を対象としているわけではない点である。

こうした技術的な優位性を維持し、中国の台頭を阻止するのは、AIや量子技術が次の世代の軍事技術として重要なものであり、この分野での技術的優位性を維持することは、アメリカの軍事的優位性を維持することに直結すると考えられているからである。そのため、半導体は、中国に依存していないにもかかわらず、蓄電池などとともにサプライチェーンの強靭化の対象となり、中国との「部分的デカップリング」を進める対象として強調されているのである。

●日蘭両国に試している同盟国の覚悟
10月7日の対中半導体輸出規制強化を通じて、アメリカは半導体技術を西側諸国に囲い込み、中国との技術格差を維持することで、アメリカの軍事的優位性を維持しようとしている。特に半導体製造装置において国際競争力を持つ日本とオランダがアメリカと同等の規制を導入しなければ、中国の技術開発を止めることは困難になる。

ゆえにアメリカは日蘭両国に圧力をかけているが、それは両国の経済的利益アメリカの戦略的目的を天秤にかけることを求めていることを意味する。言い換えれば、覇権国に挑戦しようとする新興国の勢いを止め、ツキディデスの罠にはまることを避け、中国がアメリカに対して挑戦できないようにするために日蘭両国の同盟国としての覚悟を試しているのである。
https://news.infoseek.co.jp/article/toyokeizai_20230109_643949/

じじぃの「歴史・思想_640_逆説の日本史・中華民国の誕生・渋澤栄一」

【10分でわかる】渋沢栄一ってどんな人? ~実業界の父と呼ばれた男の人生~

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=l0WF3dqlTSA

新紙幣は1万円札は渋沢栄一 (2024年から)


筑摩書房 渋沢栄一 現代語訳 論語と算盤(そろばん) 守屋淳

●「論語と算盤」とは
論語」とは道徳、「算盤」とは利益を追求する経済活動のこと。
論語と算盤』は、渋沢栄一の「利潤と道徳を調和させる」という経営哲学のエッセンスが詰まった一冊です。明治期に資本主義の本質を見抜き、約480社もの会社設立に関わった彼の言葉は、ビジネスに限らず、未来を生きる知恵に満ちています。
https://www.chikumashobo.co.jp/special/rongotosoroban/

『逆説の日本史 27 明治終焉編 韓国併合大逆事件の謎』

井沢元彦/著 小学館 2022年発行

第2章 「好敵手」中華民国の誕生 より

なぜ中国では辛亥「革命」となり、日本では明治「維新」だったのか

言葉だけで言えば、中国は皇帝制の廃止というまさに社会の根本的変革があったこら「革命」であり、それに対して日本は天皇制の復活&リニューアルという形を取ったから「維新」なのだが、なぜ同じ朱子学社会がそのような違う方向を産んだかと言えば、日本は天皇を核にして全体を改革するという形を取ったからだ。日本には中国には無い天皇という「アドバンテージ」があった、と言っていいだろう。もう何度も指摘したことだが、昭和ヒトケタあたりの天皇絶対主義教育の被害者たちは、無理も無いのだが心理的天皇の「効用」を一切排除しようとするからこの原理がわからないのである。
徳川家康は、本能寺の変のような「恩知らずの反乱」が二度と起こらないように、それまで一般的では無かった朱子学を武士の基本教養にした。ただし、科挙の採用は見送った。将軍をピラミッドの頂点とした身分社会の秩序が崩れるからである。しかし、それがゆえに清国や朝鮮国は日本が二流の国家だと考えた。朱子学を身につけていればどんな階級の出身でも「士」になれる社会では無いからだ。しかし、科挙を採用しなかったおかげで日本では勝海舟坂本龍馬が幕末維新の動乱で日本を動かすことができた。そして、日本の伝統的宗教であった神道朱子学の融合が行なわれ、天皇は唯一絶対の存在であり、それがゆえにその下においてはすべての国民が平等であるという民主主義の基本条件が整備された。これは浅見絅斎(あさみけいさい)、竹内式部(たけのうちちきぶ)といった儒学者神道家が道を開き、最終的に吉田松陰によって完成された。

光緒帝や康有為は「粗法を変えるなどと言い出す極悪人」

もっとも、弊害もあった。朱子学ではとくに「なにも生産しない」商業を賎業と考えるため、貿易立国つまり外貨を稼ぐことも「悪」だと日本人の多くが考えるようになった。これでは健全な資本主義など構築できない。その部分を改善して「日本資本主義の父」となったのが渋澤栄一である。

渋澤は「商売は悪だと言ったのは朱子であって、儒教の開祖である孔子はそんなことは言っていない」と主張し、『論語と算盤(そろばん)』という著書で日本人を啓蒙した。このおかげで日本はすんなりと近代資本主義の道に入ることができた。すでに述べたように、中国には吉田松陰渋澤栄一もいなかった。ということは、皇帝制を打倒しても民族主義はただちに成立するわけでは無い。そもそも儒教にもそれをヒステリックにした朱子学にも、万民平等という考え方は無いからだ。もちろん健全な資本主義も発展しようがない。これも前に述べたように、「商人=悪」と考える社会では商人(=資本家)は「どうせオレたちは悪人だ」などと開き直り、倫理を度外視して稼ぎまくる金の亡者になる。当然、渋澤栄一のようにチャリティーに金を使ったり、現在も多くの企業によって行なわれているメセナ活動や奨学金の提供なども一切行わない。つまり「資本家=悪」という社会が見事に成立してしまい、共産主義革命が成功する土壌が整備されてしまったわけである。

そこで多くの人が疑問を抱くかもしれない。確かに、神道という「天皇教」が存在しなかった中国においては朱子学を時代に合うように改変するのは困難だったかもしれないが、試みた人間はいないのか、という疑問である。じつは存在した。その人物は、日本史における吉田松陰渋澤栄一の役割を1人で果たそうとした。その人物の名前、たぶんあなたはご存知である。
康有為だ。あの光緒帝の支持のもとに行われ失敗に終わった「百日維新」は「変法自強運動」とも呼ばれた国家改革だったが、そのリーダーに彼が抜擢されたのも、そもそも日本のやり方を見習って朱子学社会を変えようとその方向性を示していたからなのである。康有為は、朱子学陽明学と同じ儒教の一派である公羊(くよう)学の熱心な信奉者であった。ここで当然、公羊学とはどんな学問なのかを説明しなければいけないのだが、それはまさに中国儒教史に深入りしすぎることになる。私が中国史を取り上げているのは、それを知ることによって日本史の理解が深まるからである。だが、この「深入り」はあまり日本史の理解とは関係無いので、ごく簡単に公羊学の特徴を述べよう。これも朱子学と比較するとわかりやすいのだが、朱子学は「孝」とそれに基づく先祖崇拝を非常に厳格に規定したため、先祖の決めたルールは「祖法」と呼ばれ変革できなくなった。つまり、「火縄銃を西洋式ライフルに代える」ことすら朱子学社会ではきわめて困難になってしまった。なぜそう考えるかと言えば、「先祖の定めたルールを変更することはそれが先祖の過ちだと指摘することになり、『子の分際で親を批判することになる』から孝を尽くすべき子孫の道に反する」という考え方からくる。ちなみに、「商売は悪」と同じように朱子学は常にヒストリックで独断的にそういう考え方をするのだが、孔子はそこまで極端なことは言っていない。だからこそ渋澤栄一は、「論語を読んでごらん。孔子は商売が悪だなんて一言も言ってないよ」という説得の仕方で日本人の商売に対する偏見を取り除くことができた。
じつは康有為のやり方もこれと同じで、「朱子学では粗法は絶対守れとうるさいけど、孔子はそんなことを言ってないよ」という形で、正確に言えばそれが孔子の真意だという解釈で、粗法を変えることもそれが国家を強くすることになるなら問題は無い、という論陣を張ったのである。孔子の主張についてヒステリックでは無くフレキシブルな解釈をする、それが公羊学の最大の特徴だ。だからこそ「変法自強」運動なのである。

こうした知識があれば、「祖法を変えることなど一切許さん。それは最大の悪徳だ」と考える西太后のような保守派が、康有為や光緒帝をどのように見たかおわかりだろう。それは松平定信田沼意次をどう見た蚊と同じことなのだが、要するに「極悪人」ということだ。それゆえ、なんとか日本亡命に成功した康有為以外の変法派は死刑に処され、光緒帝は幽閉されてしまった。ここで注意しなければいけないのは、清国人が最終的に忠義を尽くすべき主君は光緒帝であって西太后では無い。それなのになぜ西太后専制という「不忠状態」が続いたかということだ。一般的には西太后の政治力がそれだけ凄かったのだと考えられているが、それは光緒帝を幽閉から解放し、「悪人西太后を討つ」という「忠臣」がまったく出なかったことの説明にはならない。
おわかりだろう。清の宮廷に仕えている者は高級官僚であればあるほど科挙の合格者であり、言葉を換えて言えば朱子学の権化である。だからこそ、「粗法を変えるなどと言い出した極悪人」の皇帝を救い出そうなどという気にはなれなかったのである。

じじぃの「生活習慣病・腎臓・人間はリンなしには生きられない?不老不死の研究」

現代の食生活は「リンの摂り過ぎ」で腎臓に悪い?なぜリン排泄が老化に関わるのか(前編)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4SLCco_kK8A

尿を作り出すしくみ


間質性腎炎とは

済生会
腎臓は血液をろ過し尿を作り出す臓器です。
腎臓に集められた全身の血液は、糸球体(毛細血管の塊)で老廃物がろ過されます。この過程でできた原尿(尿のもと)のうち身体に必要な物質(水分や栄養素など)は尿細管で体内に吸収され、残りの不要分は尿として尿管を通って体外へ排出されます。
腎臓内の糸球体や尿細管をとりまく組織を間質と呼び、この部分に炎症が起こることで腎機能低下をきたす病気を間質性腎炎といいます。間質だけでなく尿細管にも炎症が起こっていることが多く、尿細管間質性腎炎とも呼ばれています。
https://www.saiseikai.or.jp/medical/disease/interstitial_nephritis/

『不老不死の研究』

堀江貴文・予防医療普及協会/著 幻冬舎 2022年発行

第3章 生活習慣病「糖尿病」「腎臓病」なき世界 より

1300万人を苦しめる「腎臓病」

慢性腎臓病は8人に1人の国民病

人口1億2600万人の日本で、腎臓病患者が現在何人いるかご存知だろうか。なんと慢性腎臓病の推定患者数は2005年の集計で1330万人にのぼり、成人人口の約8人に1人に達する。また、高齢化に伴い、2015年には1480万人となり、今後も増加が予想される。もはや「腎臓病は国民病」と断言してさしつかえないだろう。
肝臓は「沈黙の臓器」と呼ばれるとおり、内部で障害が起きていても自覚症状が現れにくい。と同時に、肝臓はタンパク質の合成工場のように機能し、壊れた部分の再生機能をもつ素晴らしい臓器でもある。

腎臓と「リン」の蜜月

ラボで偶然誕生した「生まれつきおじいちゃんのマウス」

自治医科大学の分子病態治療研究センター抗加齢医学研究部・黒尾誠教授は、かつてマウスの遺伝子操作の実験中、老化が加速する突然変異マウスをまったく偶然に誕生させてしまった。実験中に、どうも誤って遺伝子の一部を壊してしまったらしい。

  「このマウスには、ほかのマウスにはないたくさんの症状が出ました。ケガ薄い。背中が曲がっている。サルコペニア(加齢性筋萎縮症)の症状があり、若いのに老人のように筋力が弱い。オスもメスも、ともに不妊症状があります。動脈硬化、心肥大、骨粗鬆症の症状もありました。耳が遠いようで、認知症の症状も見られます。生まれつきとても弱弱しく、早く死んでしまうマウスがラボで偶然生まれました」 (黒尾教授)

黒尾教授は「この突然変異マウスは、何らかの理由で老化が加速しているのかもしれない。老化抑制遺伝子をたまたま壊してしまったため、このマウスの老化が加速したのではないか」という仮説を立てた。

  「6年がかりで、私が壊してしまった遺伝子をようやく同定することができました。この臣遺伝子にはクロトー(Klotho)という名前をつけています。クロトーとは、ギリシャ神話で生命の糸を操る3人の女神のうち、生命の糸を紡ぐ女神の名前です」 (黒尾教授)

リンなしには生きられない人間

さて、クロトー遺伝子(老化抑制遺伝子)は具体的にどんな作用をする遺伝子なのだろうか。10年近くかけて、クロトー遺伝子がリンのハンドリングに重要な役割を果たしていることがわかってきた。
リン(P)とは、生命に必須の6大元素(水素・炭素・窒素・酸素・硫黄・リン)の1つだ。

  「リンは骨の成分であり、細胞膜の成分でもあり、DNAにもたくさんリンが入っています。細胞のエネルギー通貨であるATP(Adenosine tri-phosphate=アデノシン三リン酸)にも、リンが含まれています。リンなしには生物は生存できません」 (黒尾教授)

筋肉の収縮や脳内の神経伝達など、生命活動に必要なエネルギーとしてATPは消費される。そのため「エネルギー通貨」(energy coin)と呼ばれる。リンとは、人間社会で言うところの通貨に譬(たと)えられるほど重要な物質なのだ。
    ・
  「リンをたくさん摂取しすぎると、腎臓は傷ついてダメージを受けます。尿中のリン濃度が上がると、尿中にリン酸カルシウムの結晶を出現して、尿細管を傷つけるのです。尿細管が傷つくとネフロン(尿を作るために機能する糸球体と尿細管の組み合わせ)が機能しなくなります。機能しないネフロンが増えると、残ったネフロンはさらに高濃度のリンにさらされて機能しなくなる、という悪循環が起こり始めて腎臓の老化が進みます」 (黒尾教授)

この章ですでに触れたとおり、1つの腎臓がもつネフロンは100万個しかないうえに、加齢にしたがってネフロンの数はどんどん減っていく。自然老化現象の一環として起きるネフロン数の減少と、糖尿病や高血圧といった生活習慣病がコンボすると最悪だ。下手をするとCKD(Chronic Kidney Disease=慢性腎臓病)、さらに腎不全に陥る。
CKD状態の日本人が、成人8人につき1人に達するというから足がガクガク震える。

  「慢性腎臓病あるいは腎不全に対して使われている医療費は、全医療費の2割を占めます。医療経済的にも非常に大きな問題です」 (黒尾教授)

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どうでもいい、じじぃの日記。
リンは、生命に必須の6大元素のなかの1つなのだそうだ。
リンは、人体に必要なミネラルの一種で骨や歯を形成し、体内のさまざまな細胞に存在する。

リンに気をつけろ

リンを取りすぎると、尿を作るための糸球体と尿細管の組み合わせに不具合が生じ、最終的に腎不全になる。

コンビニでサンドイッチや弁当、惣菜の食品表示ラベルを眺めてみると、添加物の中に「リン酸塩」という物質が入っていることがある。これが人工的に作られたリンだ。

「リンに気をつけろ」といわれてもなあ。
トホホのホ。

じじぃの「歴史・思想_639_逆説の日本史・中華民国の誕生・民主革命」

孫文の演説(1924)「中国人は皆眠ってしまった!目を覚ましましょう!」 / Sun Yat-sen's Speech in 1924

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=SUo-yrZlk5E

人民大会堂で開かれた辛亥革命110周年記念大会 孫文


辛亥革命110年で大会、中国、習主席が演説

2021/10/9 産経ニュース
中国で清朝が倒された辛亥(しんがい)革命の発端となった武装蜂起から10日で110年となるのを前に、北京の人民大会堂で9日、辛亥革命110周年記念大会が開かれる。習近平国家主席が演説。民族の団結を訴えて愛国心を刺激し、台湾統一への決意を誇示する構えだ。

台湾問題をめぐっては米中両国の軍事的緊張が高まっている。習氏は演説で、外部勢力の干渉や台湾独立勢力を牽制(けんせい)するメッセージを打ち出す可能性がある。
https://www.sankei.com/article/20211009-NMSVJ56EM5MFVE4K5CRVBR7CBU/

『逆説の日本史 27 明治終焉編 韓国併合大逆事件の謎』

井沢元彦/著 小学館 2022年発行

第2章 「好敵手」中華民国の誕生 より

多くの犠牲者を出した「文化大革命」を「若干の歴史問題」とする傲慢な態度

すでに述べたように、現在の習近平体制では台湾への武力侵攻すら考慮するという事態になっている。とくに、中国が「一つの中国」を声高に叫ぶ時は危険だ。それは独立国家としての台湾を許さない、ということだからだ。習近平主席は「中国共産党創立百周年」を祝う演説の中で、「一つの中国」を強調している。人類の常識でもあるが、そんな晴れがましい場で公言したことを実行しなかったら、口先だけの人間ということになってしまう。つまり本人はやる気だということだ。
そのためにぜひ必要なことは、自己の能力の強化である。習近平は最近その中の大きな試みとして「歴史決議」の実現に取り組んでいる。これも「NHK NEWS WEB」(2021年11月8日12時03分)の報道で紹介しよう。

  中国共産党 きょうから「6中全会」「歴史決議」を審議へ

  中国共産党は、重要方針を決める会議「6中全会」を8日から開き、これまでの党の歴史を総括する「歴史決議」を審議します。
  「歴史決議」は毛沢東と鄧小平の時代に採択されて以来で、長期政権をにらむ習近平国家主席の権威がさらに高まるものとみられます。

「6中全会」とは正式には「中国共産党中央委員会第6全体会議」のことだが、「歴史決議」とはいかなるものか。この記事の解説部分を紹介しよう。
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文化大革命(2019年8月24日 朝刊)

1966年、党指導部内の権力闘争を背景に、毛沢東主席の主導で発動された大規模な政治運動。紅衛兵による暴力的なつるしあげ行為が各地でエスカレート、社会が混乱、被害を受けた人は1億人に上ると言われる。76年に毛の死亡で終結共産党は81年の「歴史決議」で「大きな災難をもたらした内乱」と位置づけた。文革時に10代だった習近平国家主席も父親が地方に飛ばされ、自らも陝西省の農村に下放(かほう)されている。

ところが、じつはこの朝日新聞の解説にはきわめて重大な事実が欠落している。それは、たとえば毎日新聞の電子版の『漫画で解説 文化大革命とはの巻』にも掲載されているが、引用すれば次のようなものである。

  犠牲者は公式には死者40万人、被害者1億人ですが、一説には死者2000万人とも言われています。

おわかりだろう。公式発表はいわゆる中国共産党の見解である。こんな数字は信用できない。だがそれでも「被害者1億人」であり、死者数に至っては2000万人説もある。歴史上「中国人をもっともたくさん殺した男」は毛沢東であるという事実が、この朝日新聞の記述からはスッポン抜けているのだ。毎日の解説は朝日に比べて(ネット上の記事だから)字数制限が無く、それにくらべて朝日の記事は紙面に載ったものだから当然何から何まで書くわけにいかない。しかし、それでも絶対に書かなければいけないポイントというものがあり、それがこの場合は「2000万人が殺された可能性もある」ということだ。実際には2000万人どころでは無く、もっと殺されたと主張する論者もいるぐらいの話なのである。そこでもう一度、朝日新聞デジタルのキーワードで「文化革命」を検索すると、このキーワードを載せた最近の解説が3つ出てくる。その中の1つだけに「多くの犠牲者を生んだ」という記述はあったが、死者の数は載せられていない。朝日新聞社内では、「中国の非」に関する事実を書くのはタブーになっているのではないかと思わせるぐらいの状態である。
これは歴史的事実としてははっきり述べておくが、この「文化大虐殺」に対して、日本のマスコミの多くはこれを歴史的快挙とみなし熱狂的報道を続けたが、その中でもっとも中国に対して賞賛の声を送ったのは、ほかならぬ朝日新聞であった。そうした過去の誤りについて少しでも反省の気持ちがあるならば、こういうところでしっかりと文革の実態を記述するべきではないだろうか。NHKの解説記事にもあるように、中国共産党すら鄧小平の時代に文革は誤りだったと認めているのである。もっとも、公式見解でも40万人の自国民を殺した事実について「若干の歴史問題」とするのがまさに中国共産党であり、おわかりだろうが「自分たちは絶対に過ちを犯さない」という傲慢な思想を持っているからこそ、こういう態度に出るのである。

若い読者とは逆に、古くからの読者はひょっとしたら「おいおい、孫文の話はどこいったんだ?」と不満を抱いているかもしれないが、じつはその話もしているのである。日本は明治維新という近代化を成し遂げた。西洋も、アメリカ独立やフランス革命を起点としてさまざまな革命改革がなされ、ヨーロッパのほとんどの国は民主革命体制を確立した。ロシアだけが一時違う方向にいき、史上初の共産主義国ソビエト連邦となったが100年ももたずに崩壊し、今はさまざまな問題を抱えているもののロシア連邦という民主主義体制になった。孫文もこうした時代の流れの中で、当時の清国を民主主義国家にできると考えたのである。彼は生涯を通じて楽天家で、それが故に多くの友人に恵まれた。日本人も孫文の夢「民主革命」が成功すると考えたからこそ応援したのである。だが、その夢の結晶である中華民国は崩壊し、中華人民共和国に取って代わられた。そしてその体制は昨年100周年を迎えた。おわかりだろう、そもそも孫文の夢は実現する可能性は無かったということだ。