じじぃの「歴史・思想_378_物語ベルギーの歴史・はしがき」

Why does Belgium Exist? (Short Animated Documentary)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6eGEX_LTqhQ

Kingdom of Belgium

Kingdom of Belgium

House of Wettin
Historically, Belgium, the Netherlands and Luxembourg were known as the Low Countries, which used to cover a somewhat larger area than the current Benelux group of states.
The region was called Belgica in Latin because of the Roman province Gallia Belgica which covered more or less the same area. From the end of the Middle Ages until the 17th century, it was a prosperous centre of commerce and culture. From the 16th century until the Belgian Revolution in 1830, when Belgium seceded from the Netherlands, many battles between European powers were fought in the area of Belgium, causing it to be dubbed the battleground of Europe, a reputation strengthened by both World Wars.
http://www.almanachdegotha.org/id6.html

『物語ベルギーの歴史 - ヨーロッパの十字路』

松尾秀哉/著 中公新書 2014年発行

はしがき より

ベルギー王国について、日本人はどのようなイメージをもっているだろうか。チョコレートの国としての印象があるかもしれないし、無数の地ビールがある国だと知っている人も多いはずだ。また国際政治に詳しい人は、EUヨーロッパ連合)やNATO北大西洋条約機構)の本部を抱える「ヨーロッパの首都」ブリュッセルを首都とする国として思い浮かべることだろう。
こうしたイメージは、それぞれベルギーを言い表している。ベルギーは、面積が約3万平方キロメートル。日本の関東地方とほぼ同じで、人口は1100万強。つまり東京都の人口と同じくらいの小国である。都市部の人口密度は東京並みに高いが、農村部はそれほどでもない。電車や車から眺めていると、都市境を出てからはのどかな田園風景が続く。
概して夏は涼しく過ごしやすい。夜も9時ごろまで明るい。逆に冬は寒くて雪も多く、日照時間も短くなる。日本で言えば北海道の気候に1番近く、西岸海洋性気候に区分される。冬の天気のいい日には、老若男女を問わず日光浴するのが、ベルギーの人々の習慣になっている。
そのため、ベルギーの人々の生活の様子は、日本人から見るとのんびりしているように映る。夏休みを長くとり、日光浴を楽しむ。夜もゆっくりと遅くまで食事とビールを味わう。時間に追われて生活している人の姿をあまり見かけない。
この一見のんびりしたようにも見えるベルギーが、独立以来もっとも悩まされてきたのは「言語問題」である。この国の北方は、オランダ語を話す人々が暮らすフランデレン(フランス語では「フランドル」。英語では「フランダース」)地方、または南方はフランス語を話す人々が暮らすワロン地方と呼ばれている。さらに人口の0.5%はドイツ語を話す、多言語国家である。多言語国家はヨーロッパでもスイスやスペイン、アメリカ大陸でもカナダなど数多く、それぞれに問題を抱えているが、それはベルギーでも同様である。
    ・
歴史に目を転じると、この地は、西欧は、西欧の中心に位置しているため、独立以前は大国が奪い合いを続けていた。独立は1830年で、まだ西欧では若い国である。かつてローマ帝国支配下にあったとき、この地は「ベルガエ人」が暮らしていたこらから、「ベルギカ州」と呼ばれていた。この「ベルガエ」がベルギーの語源とされる。しかし、その後「ベルギー」の名は西欧史において、独立するまでほとんど目にすることはない。ネーデルランドやフランデレン地方と呼ばれていたのだ。
1830年にベルギーがオランダから独立したとき、かつてその地を統治していた隣国フランスの新聞は、このニュースを「国内事情」の欄で紹介した。また第3代国王アルベール1世の王妃がドイツから嫁いでくると、ドイツの新聞は、「これでドイツはこの地を勢力圏に収めることができた」と報道した。
現在でもフランス人のなかには、自国で意にそぐわない政権が成立すると、「もうベルギーに移住しよう」というジョークが飛んだりする。よく言えばベルギーは「第2の故郷」なのだろう。また、かつての支配国オランダでは、ベルギーのオランダ語を「訛り」と馬鹿にするジョークがある。オランダからすれば「田舎者」というわけだ。
この各国に振り回されてきた小国の国章の中央には、ライオンの絵が描かれている。そう、百獣の王である。在日ベルギー大使館の正面入口にもこの絵が目立つように飾られている。これは、1302年にフランスの侵略を退けた闘いに由来し、その後も侵略者ナポレオンを退けた、1815年のワーテルローの戦いを記念する獅子像に引き継がれてきた。
ナポレオンに限らず、かつてローマ帝国カエサルに一時は侵略を断念させた「勇敢なベルガエの人々」、第二次世界大戦のときアドルフ・ヒトラーの侵攻に徹底抗戦した「ベルギーの戦い」などを誇って、ベルギーの人々は自らの国の歴史を振り返るとき、しばしば「勇敢な」という表現を用いる。西欧の中心であるからこそ、そして大国に振り回されてきたからこそ、都市や地方の自治を誇り、自由を愛して、勇敢な獅子のように戦った歴史があるのだ。

じじぃの「グロウワーム(ツチボタルの幼虫)・青白く光る玉スダレ!へんないきもの」

Glowworms in Motion - A Time-lapse of NZ's Glowworm Caves in 4K

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JC41M7RPSec

New Zealand’s Glowworm


The Gooey Details Behind a Glow Worm’s Starry Night Illusions

Dec. 16, 2016 The New York Times
In the Waitomo caves in New Zealand, thousands of blue lights dangle from the ceilings, twinkling like stars in a night sky.
Tourists flock to the caves, awe-struck by the starry night illusions all around them.
https://www.nytimes.com/2016/12/16/science/glow-worms-new-zealand.html

『僕がロボットをつくる理由-未来の生き方を日常からデザインする』

石黒浩/著 世界思想社 2018年発行

現実を解き放つ力 より

――ロボットは将来、想像力を持つようになりますか?
先ほど話したとおり、想像することは、すごく人間らしい部分で、今のところロボットとの大きな違いなのかもしれないと考えています。
たとえば、星空とか夕日とか、初めて見たときからきれいで、誰もが無条件に感動するものってありますよね。それを連想させるものも、やっぱりきれいだと思うですよね。ゴールドコーストの洞窟にグロウワーム(Glowworm)っていう発光する虫が棲んでいて、むちゃくちゃきれいなんです。洞窟にびっしりいて、ネオンライトみたいに光って、満点の星以上の……なんていうのかな、急に目の前に天の川が落ちてきたようなかんじになるんですよね。あれは見たほうがいいです。感動しますよ。あの美しさは世界一じゃないかな。

                • -

『またまた へんないきもの

早川いくを/著、寺西晃/イラスト バジリコ 2005年発行

さては因果の玉スダレ ツチボタル より

広大無辺、悠久の銀河の輝きが頭上を圧するその壮麗さに人々は息を呑む。ここは、天然のイルミネーションで有名な観光地、ワイトモ洞窟。そして、かのバーナード・ショーに「世界で8番目の不思議」と言わしめたその美観を演出するのは、星屑たちではなく、ツチボタルと呼ばれる昆虫だ。しかし彼等は美の奉職者でもなく、観光収入目当てに光る訳でもない。ここは幼虫たちの狩り場なのだ。
ツチボタルの幼虫は、粘液の玉が並ぶ「玉スダレ」を天井から吊り下げると、蛍のように発行する。飢えるほどに輝きを増すその光こそが、この星々の正体であり、邪知に長けた罠なのだ。
その輝きに見せられた羽虫は、憑かれたように星の世界に飛んでゆく。だが、その魅惑の青い光は真っ赤な偽物、気が付くと羽虫は粘液糸で全身をからめ取られている。糸はもがくほどにその身を縛り、その振動を感知した幼虫は獲物をたぐり寄せ、身動きならぬ犠牲者に食らいつき、肉をかじり、体液をすするのだ。
だが、こうして獲物を食い、旺盛に生き続けた幼虫は、蛹(さなぎ)を経ると、消化器官はおろか口さえ持たない、交尾して卵さえ産めば用済みの、わずか3日で命を閉じる、はかない成虫へとなり果てる。
そして幼虫の罠にかかる獲物にはこのあわれな親虫も含まれる。
未来の希望に胸膨らます新婚の2人が、潤んだ瞳で見上げるその洞窟の美しい輝きは、獲物を喰らい、果ては己が子に喰われて命を落としゆく、業深き生物の因果の光なのだ。

じじぃの「歴史・思想_377_物語オランダの歴史・インドネシアの独立」

Jejak Proklamasi Kemerdekaan Indonesia

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bu-di49udCI

Dutch-Indonesian Round Table Conference

池上彰のニュース検定

2020年11月18日 テレビ朝日 【グッド!モーニング】
きょうのキーワード 「建国の父」。

問題 「インドネシアを植民地支配していたのは?」

・イギリス
・スペイン
・オランダ
正解 オランダ

池上彰さん解説】

 「デヴィ夫人の夫、インドネシア建国の父・スカルノは就任以来22年間に渡り初代大統領を務めました。インドネシア第二次世界大戦までの長い間オランダの植民地支配を受けていました。スカルノは反植民地運動を展開。その後太平洋戦争が始まると日本軍がインドネシアを占領しました。スカルノは日本との協力を模索します。1945年8月15日に日本が敗戦。8月17日にスカルノは大統領になります。インドネシアは独立宣言します。オランダは独立を認めず、再び植民地支配を開始します。オランダを国際世論が非難。国際連合が調停に入り、1949年にインドネシアは独立します。スカルノは植民地支配から独立したアジアやアフリカの国々をまとめることにも力を尽くした。1955年、アジア・アフリカ会議を開催し、平和十原則を発表。全人種・国家間の平等を訴えました」

『物語 オランダの歴史』

桜田美津夫/著 中公新書 2017年発行

オランダ再生へ――1945年~21世紀 より

1945年の東インド

独立運動の発端から振り返ってみよう。1942年3月9日、オランダ植民地軍は日本に降伏した。その後、約10万人のオランダ人が鉄条網で囲まれた強制収容所に入れられ、さらに1万7000人が捕虜としてビルマや日本などへ移送された。
日本軍は、オランダ人市民の強制収容を暫定的な措置ととらえていたが、実際には3年半以上にも及び、その結果、食糧の欠乏、病気の蔓延、医薬品の不足などのため、1万6000
人もの人々がこの過酷な環境を生き延びることができなかった。
他方、インドネシア民族主義運動の指導者スカルノは、この日本軍政時代に、日本との協調を図りながら独立に向けた準備を進めていた。彼は1930年代の大半をオランダの植民地刑務所か、遠く離れた島での亡命生活で過ごしたが、日本人はスカルノをオランダ人よりも敬意をもって遇した。したがって彼の選択には無理からぬものがあった。そして日本の指導のもとで初めて現地住民の武装化が進められ、軍事訓練が行われる。
1945年8月15日、日本が降伏すると、その直後の17日、スカルノはバタファア(ジャカルタ)の自邸の前庭で、タイプ打ちした短い宣言をわずかな人々に向かって読み上げた。
  私たちインドネシア民族は、ここにインドネシアの独立を宣言する。権力移譲その他に関する事項は、十分な配慮をもって迅速におこなう。ジャカルタにおいて。
                (後藤乾一、山崎功『スカルノ』)
これは、スカルトとその同志ハッタが、急進派の青年指導者たちの突き上げを受けた結果である。青年グループは、日本から与えられた独立ではなく、日本とは無関係に自ら独立を勝ち取った形にするためにも、一刻も早い独立宣言が必要と考えていた。こうしてスカルノは新インドネシア共和国の大統領に、またハッタは副大統領の地位に就く。

「インディエがなくなると災難が生まれる」

オランダ軍がようやく東インドに到着したのは翌1946年3月であった。オランダ政府は東インド植民地を手放すつもりなど毛頭なかった。1930年代の国庫収入の13%強が植民地によるものだったからである。そこから「インディエ(蘭領東インド)がなくなると災難が生まれる」(Indie verloren, rampspoed geboren)とのスローガンがいつしか広く使われるようになっていた。ウイルヘルミナ女王も東インド植民地の回復を強く望んでいた。
オランダは、日本降伏直後のインドネシア共和国独立宣言に対して、スカルノは日本の傀儡(かいらい)、「半日本人」であり、交渉相手とはみなされないという立場をとった。つまり、独立宣言は、オランダ領東インドファシスト体制を存続させようとする日本の企みにすぎないという見立てである。オランダは、スカルノの影響下にあったジャワ、スマトラインドネシア共和国領域を包囲する形で、親オランダ勢力をまとめ上げ、東スマトラ国やパスンダン国といった傀儡的な国家、地域を作り上げていく。

インドネシアの独立――アメリカの圧力と外相スティッケル

オランダ政府のドレース内閣で外相をつとめたディルク・スティッケル(1897~1979)は、グローニンゲン大学で法学を学び、ビジネス界に身を置いた後、戦時中の労使の連携組織から生まれた「労働協会」の議長を1945年から48年までつとめた。戦後復興の困難な時期に、ストや労働争議がオランダであまり起こらなかったのは彼の指導力のおかげと言われる。
1946年に第1院議員になると、48年にはピーテル・ヤコーブス・アウトとともに「自由民主国民党」(VVD)を結成して、自由主義に新たな生気を吹き込んだ。のちには、アメリカのケネディ政権と重なる時期に「北大西洋条約機構」(NATO)の事務総長をつとめることにもなる。ドレースによれば、「めったにない才能と際立って純粋な性格の持ち主」であった。
スティッケルは、東インドの問題を、連立を組むカトリック国民党の大臣たちの反対を押し切って、国内の植民地問題から国同士の外交問題へと変えることに成功した。たとえ植民地帝国の終焉に繋がろうとも、オランダにとっていちばん重要なのはアメリカとの緊密な関係を維持することだというのが彼の信念であった。
こうして、1949年8~11月にハーグで円卓会議が開かれ、12月27日、ユリアナ新女王も隣席して、オランダは東インド植民地の主権を放棄し、インドネシア共和国の独立を正式に承認した。400年以上に及ぶオランダの「植民地帝国」としての歴史に、ついに事実上幕が下ろされたのである。

じじぃの「バイデン次期政権の東アジア外交・中国が韓国に接近!報道1930」

韓国に米国から警告!?「中国を選んだら凄惨な未来…」在韓米軍撤退など、韓国の孤立を示唆!韓国人「バイデンもトランプも中国は敵なんだ」【世界情勢】

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-9t0JwhMaqU

中韓 バイデン政権でどうなる?

報道1930

2020年11月20日 BS-TBS
【キャスター】出水麻衣、松原耕二 【コメンテーター】堤伸輔、パトリック・ハーラン 【ゲスト】森本敏(元防衛相)、宮本雄二(元駐中国大使)、松本哲哉(日本環境感染学会副理事長)

対中強硬路線は…バイデン次期政権の東アジア外交

中国の「環球時報」は社説でバイデン氏が大統領になった場合、香港やウイグル族を巡る人権問題でアメリカの対応が今よりも厳しくなる可能性を指摘しました。両国関係の急激な改善を期待すべきではないとしています。さらに「アメリカに対処するには中国が強くなり、圧力に屈しない強大な存在となることが重要だ」と強調した。
宮本雄二、「バイデンは同盟国重視と言っているので、トランプのような行動はとらない。人権を重く見ているので、中国にとってバイデンはトランプよりもやりにくい相手と見ているのではないか」
●米国爆撃機が中国防空識別圏に侵入
11月17日、米国軍の超音速爆撃機が中国の防空識別圏ADIZ)に侵入した。
台湾の国防部によると、中国の軍用機2機が台湾南西部の防空識別圏に侵入したとしている。
台湾は複数の戦闘機を緊急発進(スクランブル)させ警告を行うと引き返したという。
森本敏、「地域を不安定にする行為は米国の行為として正しいのか疑問」
●米国の混迷…中国が韓国に接近
11月11日、中国・北京で海外企業などの民間交流を統括する機関・中国人民対外友好協会が韓国企業(大韓航空現代自動車ポスコなど)と懇談会を開いた。
協会が韓国の財閥グループと懇談会を開くのは初めて。
18日、駐韓中国大使が「習近平国家主席が外国のうち真っ先に訪韓する立場に変わりはない」と語った。
習近平国家主席が年内に来るかはまだ分からない。
こちらで取材していると、可能性は低い見方が広がっている。
まず中国・王毅外相が11月25日~27日まで韓国を訪問するときょう発表されたが、習近平国家主席が韓国を訪問するための地ならしだろうという色合いが強い。

習近平国家主席訪韓に韓国側が腰が引けている印象。

理由はバイデンの具体的な政策が見えない中で中国を招き入れると余計な誤解を招くのではないかという懸念。文在寅政権としては北朝鮮の非核化を成し遂げたいが、北朝鮮来年の党大会を前にまだどう出てくるか分からないので、中国と会ったとしても具体的な話をすることができない。
韓国市民の声を紹介。
韓国の方と話をしていると、米国だけを見ている時代じゃない、中国のことも強く意識しなければいけないとみんなが言う。
韓国には“安米経中”という言葉がある。
“安米経中”とは、安全保障に関しては米国と歩調を合わせ、経済については地理的にも近い、輸出入で1位の相手国である中国との結びつきを大切にするという戦略。
これが米中の対立が激化することによって、これまでと同じようにはいかなくなってきている。
前首相の李洛淵(イ・ナギョン)国会議員は、「中国と米国は巨大なクジラ。韓国はイルカだ。イルカは体の大きさではクジラにかなわないが、俊敏に動くことで存在感を見せつけることができる」と語った。
●トランプ・台湾への武器売却の意図
米政府は10月21日、台湾に空対地ミサイル135発など総額18億ドル(約1900億円)の武器売却を承認し、議会に通知した。米台が軍事面で急接近をみせ、中国はいら立ちを募らせている。
10月26日に対艦ミサイルシステム最大100基(約2500億円)。
11月3日に軍用ドローン4機(約630億円)。
2週間で5000億円の武器売却。
宮本雄二、「トランプ政権はあまりにいろんなルールを打ち壊すので言いたいことは山ほどある。我々が思い込んでいたことをトランプが一回壊してしまった。そうすると本当に中国との関係で何がレッドラインなのか。我々が思っていたレッドラインよりもう少し向こうに行けた可能性があった。そういうのをトランプは白日のものにさらしつつある」
●11月21日、G20サミットで何を…
日本時間きょう午後9時から、APECアジア太平洋経済協力会議)首脳会議。
きのう中国・習近平国家主席は、「中国はデカップリングを図らず、排他的な小グループを作らない」と語った。
中国の習近平国家主席は19日、クアラルンプールで開かれたAPECの会合で、中国はデカップリング(切り離し)や排他的な小さい集団を形成して歴史的なトレンドに逆行することはない」と語った。
習氏は対外開放にコミットしており、これは変わらないと指摘。中国は世界経済と国際的なシステムに深く組み込まれていると論じた。
11月21~22日、G20サミット。
サウジアラビアが議長国で、トランプ大統領がもし出たら発言が注目されている。
イラン問題など中東への発言はあるのか。
https://www.bs-tbs.co.jp/houdou1930/

じじぃの「歴史・思想_376_物語オランダの歴史・日蘭関係」

[Japan] Dr. Philipp Franz Balthasar von Siebold Tribute

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0YM6hNhePFs

杉田玄白訳 『解体新書 (Kaitai-shinsho)』 安永3年 (1774)

解体新書

本書の訳者は、 玄白の他に前野良沢中川淳庵・石川玄常・桂川甫周らであるが、 刊本に良沢の名は見られない。 本書刊行のいきさつについては、 玄白が晩年に記した 『蘭学事始』 に詳しく述べられている。
それによると、 明和8年 (1771) 3月、 江戸千住骨が原で行われた刑死人の解剖を見た玄白・良沢らが、 ドイツ人クルムス原著のオランダ語医書ターヘル・アナトミア』 と比較してその正確さに驚き、 同書の翻訳を志して3年半の言語に絶する辛苦ののち完成したのが本書で、 『解体新書』 と名づけて出版したものである。 その内容は、 第1冊が序図篇で内臓諸器官が図示され、 第2~4冊が解説篇で全文漢文で記述されている。
  本書は、 日本の医学に対して多大な貢献をしただけではなく、 広く蘭学の勃興を促すこととなった。 その意味で記念とすべき古典的翻訳書である。
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/50/kaitai.htm

『物語 オランダの歴史』

桜田美津夫/著 中公新書 2017年発行

オランダ人の海外進出と日本 より

最初の来航者――ディルク・ヘンッツソーン・ポンプ

日本人とオランダ人の最初の出会いといえば、1600年に豊後国(現大分県)に漂着したオランダ船リーフデ号を思い受かべる人が多いだろう。しかし、実はそれ以前の1570年代と80年代に、ポルトガル船に乗って2度日本を訪れたオランダ人がいる。ディルク・ヘンッツソーン・ポンプ(1544~1604)という名の船員・旅行家である。
彼はホラント州北西部のエンクハイゼン市の生まれだが、親戚のいるリスボンで少年期を過ごし、アジア方面の交易に欠かせないポルトガル語をマスターする。1568年、つまりは母国で80年戦争(オランダ独立戦争)が始まったとされる年に、彼はまずインドのゴアに渡る。その後、さらに足を延ばして、最初の中国・日本旅行を行った。
    ・
ファン・リンスホーテン(『東方案内記』の著者)の記述によれば、ディルク・ヘンッツソーンは、2度目の訪日の際、1585年夏から約8ヵ月間、長崎に滞在したという。

『解体新書』――前野良沢杉田玄白

しかし、18世紀の終わり頃になると、蘭学の広がりが顕著となる。江戸参府時のオランダ人またはオランダ通詞に教えを請(こ)うだけでなく、自ら蘭書や参考書をひもといて学ぶ人々が全国に現れたからである。
当初よりオランダ人は聖書などの宗教書を日本へ持参することは禁じられていた。だが、持ち込んでよい種類の書籍もあった。オランダ商館員やオランダ船の船長らに許された個人商売の輸入品には、辞書、地理学書、医学・薬学書、天文・航海書などの蘭書が含まれていて、それが徐々に幕府高官、オランダ通詞、藩医、その他の愛好家などの手に渡っていったのである。そのなかに『解体新書』の原著となったオランダ語版解剖学書も含まれていた。
1774年刊の『解体新書』を実質的に翻訳したのが、訳者として記載されていない前野良沢であることは、吉村昭歴史小説『冬の鷹』に描かれている通りである。杉田玄白は、仲間たちと訳出した下書きをその日の終わりに浄書(じょうしょ)するのが主たる責務だったらしい。
しかし、明治時代に福沢諭吉によって再評価され出版された『蘭学事始』という随想を、杉田玄白が1815年に書きあげて、困難な訳業の一端を後世に伝えたことは高く評価されねばならない。

商館長ドゥーフと医師シーボルト

ここで蘭学の隆盛に貢献した、商館長のヘンドリック・ドゥーフ(1777~1835)と、商館付き医師のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866)にも触れておこう。
ドゥーフは、オランダ本国がフランスに併合され(1810~13)、ジャワ島がイギリスに占領されていた(1811~16)困難な時期に、1803年から17年まで商館長をつとめた。彼は、オランダ船の来航が途絶え、貿易業務が閑散となって余暇に恵まれたのを利用して、後から来るオランダ人のために日本語辞書の作成に着手する。
その初稿では、蘭文に対応する日本文に長崎方言の影響が強く出ており、Zy is zoo schoon als een engel(彼女は天使のように美しい)が、Ano onago wa soesamasikoe oetsikoesika つまり「あのおなごはすさまじく美しか」となっていた。しかも、ドゥーフが任期を終え長崎を去るまでに原稿は完成しなかった。その後、編集作業は通詞らによって続けられた。
1833年、ついに収録語数5万語、和紙で約3000枚の『ドゥーフ・ハルマ字書』が完成した。これが幕府の許可を得て1855年以降『和蘭辞彙』として出版される。
それに先立つ1823年、オランダ商館付き医者として来日したのがシーボルトである。現在のドイツのヴュルツブルグで生まれ、地元の大学で医学博士号を取得してからほどなく、生来の博学的好奇心を抑えることができず、オランダ政府に職を得て、バタファア経由で日本に到来した。最初そのオランダ語が疑われ、高地ドイツ人だからと弁明したところを通詞が「山オランダ人」と訳したことでうまく切り抜けることができた。
彼には特別な任務があったとされる。それは、日蘭貿易を再構築するために日本の総合的学術調査を行うことだったとも、バタファアの国立植物園やオランダの博物館から依頼されて日本の動植物の種子・生体・標本・剥製などを収集するとこだったとも言われる。
当初からシーボルトはオランダ商館の全面的支援を得て、長崎住民の診療や医術の伝授などと生き換えに破格の行動の自由を与えられた。長崎郊外の鳴る鳴滝熟(なるたきじゅく)――現在その跡地脇にはシーボルト記念館が建っている――で全国から集まった俊英に医術を教え、江戸幕府の機会をとらえて日本観察に務め、植物、鉱物、工芸品、地図などを貪欲に収集した。
1828年、一時的な離日に際して、彼による国禁の日本地図などの海外持ち出しが発覚し、多数の関係者が逮捕される。いわゆる「シーボルト事件」である。乗船予定のコルネーリス・デ・ハウトマン号の、荒天による偶然の座礁で積み荷の内容が発覚したというのがかつての通説だったが、いまでは、内部通報によって幕府が早くから目をひからせていたためと言われる。いずれにせよ、シーボルトと彼を取り巻く人々が、己の知識欲に任せて繰り広げた活発な知的交流が、幕府の許容限界を超えてしまった結果であった。
シーボルトは「永久」国外追放となっが、彼が滞在中に57名の門人を教育したこと、大学卒業したての20代後半の青年ながら、西欧の先進医療を、とくに実際に患者を診察しながら治療法を講義するという日本初の臨床講義によって伝授したことは、日本の蘭学、とくに蘭方医学の上に大きな影響を及ぼした。それは門人を介して全国に広まる。
一方でこのような知識の受け渡しが可能になったのは、すでにその頃、蘭学が国・地方を問わず相当程度に裾野(すその)を広げていた結果とも言えよう。全国から集まった門人たちは、オランダ語でレポートが書けるほどの語学力を身につけていた。シーボルトはちょうどよい時期に日本に来たのである。

じじぃの「ファイザーとモデルナ・mRNAワクチンのご紹介!新型コロナウイルスのワクチン開発」

Coronavirus Update 117: Moderna vs. Pfizer COVID 19 Vaccine (mRNA vaccines)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eZvsqBCvB00

図1. mRNAワクチンの作用機序 (cas.org HPによる)


ノーベル生理学医学賞にカリコ氏ら2氏、mRNAワクチン開発に寄与 (追加)

2023年10月2日 ロイター
スウェーデンカロリンスカ研究所は2日、2023年のノーベル生理学・医学賞を、メッセンジャーRNAの技術による新型コロナウイルスワクチン開発を可能にした発見により、米ペンシルベニア大のカタリン・カリコ特任教授とドリュー・ワイスマン教授の2人に授与すると発表した。

mRNAを治療に利用するうえで免疫システムが炎症反応を起こすことが大きな障害だったが、カリコ氏はこれを防ぐ方法を発見。ワイスマン氏との協働によりワクチン開発の道を開いた。
https://jp.reuters.com/world/us/C4UUHLQCLJPFNGPVP34CG52HNY-2023-10-02/

COVID-19の打倒を目指す新たなmRNAワクチンのご紹介

September 2, 2020 CAS
mRNA(メッセンジャーRNA)は、異なるタンパク質を生成するために使用する情報細胞を運ぶ設計図のようなものです。
宿主細胞で免疫反応を引き起こす抗原タンパク質を直接導入する従来型のワクチンと異なり、mRNAワクチンでは疾患固有の抗原を符号化するmRNAを導入し、宿主細胞のタンパク質合成機構を利用して免疫反応を誘発する抗原を生産します。
体内にこのような外部の抗原が生産されると、免疫系がウイルスの抗原を認識して記憶する準備を行い、同じ抗原を使用して将来的なウイルス感染に対して戦う準備を整えることができます。

mRNAワクチンが感染に対する身体の正常な防御プロセスを活性化させる

ウイルスに感染すると、T細胞とB細胞という免疫細胞が連携し、それぞれ細胞媒介免疫および抗体媒介免疫を誘発させます。細胞媒介免疫では細胞傷害性T細胞がウイルスに感染した細胞を殺しますが、抗体媒介免疫では抗体がウイルス自体を中和します。mRNAワクチンは、ウイルスの能力を無害な形で真似て、感染に対する身体の免疫反応を引き起こし、両方の種類の免疫を誘発します。

図1は、mRNAワクチンが免疫を導入する追加メカニズムを示しています。

https://www.cas.org/ja/blog/covid-mrna-vaccine

新型コロナワクチン開発で相次ぐ朗報-供給・保管面などに課題

2020年11月17日 Bloomberg
新型コロナウイルスのワクチン開発は、ファイザーとモデルナがそれぞれ進める治験の最終段階で朗報が続いた。両治験で高い予防効果が示されたのを受け、アストラゼネカなど他のワクチン開発企業には高いハードルが設定された格好だ。
●暫定結果
 モデルナは16日、大規模な第3相臨床試験で94.5%の確率で効果を示したとの暫定分析結果を発表。ファイザーが独ビオンテックと開発しているワクチン候補は先週、90%を超える確率で感染を防いだとの暫定結果を示した。モデルナのデータによると、副作用は全般的に短期間で、安全性に関する重大な懸念はなく、ワクチンを接種した被験者に重症患者は出なかった。
●共通点
 どちらのワクチンもメッセンジャーRNA(mRNA)という技術に基づいている。これまで世界で承認されたmRNAワクチンはない。
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-11-17/QJWBG9DWRGGB01

『図解 先端技術のしくみ』

有限会社 高輪編集室/編 アントレックス 2020年発行

抗ウイルスワクチンはどのように作られるか? より

●ワクチンは病原体を使って作られる
ポリオ、コレラ天然痘・・・昔流行った怖い感染症も、ワクチンの開発で今は絶滅に近くなっている。
ワクチンは病原体を用いて作られる。毒性を弱めた病原体を身体に入れることで、あらかじめ抗体を作らせることが目的だ。実際ウイルスに感染しても、症状が出る前に抗体で速やかに排除される。
ワクチンには、毒性を弱めたウイルスそのものを使う場合(生ワクチン)と、殺したウイルスまたはウイルスの一部を使う場合(不活性ワクチン)などがある。
●ワクチンの種類と疾病の例
弱毒性ワクチン・・・麻疹、流行性耳下腺炎(おたふくかぜ)、風疹、水痘(水ぼうそう)、帯状疱疹
不活性ワクチン・・・A型肝炎、インフルエンザ、肺炎球菌多糖体
遺伝子組換えサブユニットワクチン・・・B型肝炎
トキソイド・・・破傷風ジフテリア
多糖体・タンパク結合型ワクチン・・・肺炎、髄膜炎インフルエンザ菌b型
●ワクチンのもとはインドから始まった
はじまりは7世紀のインド、僧侶が蛇の毒への免疫をつけるために蛇毒を飲んだといわれる。11世紀には天然痘の感染を防ぐために、天然痘発病者から採取した膿を乾燥させ、健常者に接種する種痘という手法が中央アジアで開発され、中国、トルコ、アフリカ、さらにヨーロッパへと広まっていった。
そして1798年にイギリスでエドワード・ジェンナーが、人間の天然痘を予防するために、牛痘ウイルスを摂取する実験結果を発表し、「ワクチン接種」という手法が広く普及していった。

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どうでもいい、じじぃの日記。
新型コロナウイルス(COVID-19)の打倒を目指す新たなmRNAワクチンのご紹介。
先日テレビで、新型コロナウイルスによる重症化は「サイトカインストーム」によるものだとか専門家が言っていた。
関節リウマチなどの慢性炎症性疾患もサイトカインストームによるものだとされている。
サイトカイン・・・主に免疫系細胞から分泌されるタンパク質で、標的細胞表面に存在する特異的受容体を介して極めて微量で生理作用を示し、細胞間の情報伝達を担う
「1986年のIL-6(インターロイキン-6)発見により、IL-6は免疫反応のみならず、血液系、神経系、内分泌系や初期発生など生体の恒常性維持や慢性炎症性疾患やがんに重要な役割を果たしているサイトカインであることが明らかになった」
岸本忠三(免疫学者、前大阪大学総長)博士は、IL-6の働きを阻害することによって、自己免疫疾患である関節リウマチやキャスルマン病などを治療する、新薬「トシリズマブ」を製薬企業と共同開発した。
新型コロナウイルスのワクチン開発の「mRNA」ワクチンと「IL-6」はどこかでつながっているのです。

じじぃの「歴史・思想_375_物語オランダの歴史・黄金時代の多彩な文化」

Art from the Dutch Golden Age

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dwJmO3I9lWw

レンブラント 「夜警」

レンブラントの「夜警」は実は夜でも見張り中でもない、ではなぜ「傑作」と呼ばれるようになったのか?

2018年09月27日 GIGAZINE
17世紀オランダの画家レンブラントによる「夜警(De Nachtwacht)」は傑作と呼ばれる絵画の1つで、学校の授業で扱われることも多い作品です。
しかし、実は「夜警」というタイトルと裏腹に、この絵画は昼の情景であり、見張り中の人々を描いたものでもないとのこと。ではなぜ、レンブラントの夜警が傑作として扱われるのか、YouTubeチャンネルのNerdwriter1が解説しています。
https://gigazine.net/news/20180927-rembrandt-masterpiece/

『物語 オランダの歴史』

桜田美津夫/著 中公新書 2017年発行

はじめに より

2004年10月から11月にかけて、オランダで放送された「最も偉大なオランダ人」(De Grootste Netherlander)と題するテレビ・シリーズの最終回で、数十万人の視聴者の投票をもとに最終的に選び出されたオランダ史上の偉人ベストテンは以下のようなものであった。
①ピム・フォルタイン
②オランイェ公ウィレム
③ウィレム・ドレース
④アントニ・ファン・レーウェンフック
⑤デシデリウス・エラスムス
ヨハン・クライフ
⑦ミヒール・デ・ライテル
アンネ・フランク

レンブラント・ファン・レイン

フィンセント・ファン・ゴッホ
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前者に含まれるのが、オランダ人気質を語る際必ず引き合いに出される人文主義エラスムス独立戦争の指導者オランイェ公、17世紀の海軍提督デ・ライテル、微生物研究者のファン・レーウェンフック、そして多芸多才の画家レンブラントである。

黄金時代の多彩な文化――美術・科学・出版業 より

第1期――黄金時代絵画の幕引き

オランダの17世紀が黄金時代と呼ばれるのは、その経済的繁栄もさることながら、その土壌の上に花開いた多彩な文化活動によるところが大きい。とりわけオランダ絵画の17世紀は、西洋美術史のなかで、イタリア・ルネサンスおよびフランス印象派の時代と並ぶ創造的絵画芸術の時代であった。
オランダ絵画の飛躍が始まったのは1590年代である。ここから1621年頃までが黄金時代オランダ絵画の第1期といえる。主に、マニエリスムの影響を受けた豪華で色彩豊かな、エロティズムあふれる神話画が、ハールレムやユトレヒトで制作された。
しかしそのなかで異彩を放っているのが、アントウェルペンからハールレムに移住してきたフランス・ハルス(1581/85~1666)である。彼はモデルの一瞬の生き生きとした表情をカンバスに定着させて永遠化し、従来の記念写真的な集団肖像画を自然な構図に一変させた。《笑う少年》(1625年頃)という小品にはハルスの魅力と力量が凝縮されており、笑顔を描いてハルスにかなう者はいない。
のちにハルスを偶像化したのは、作品を一目観ようと1870年代にハーレム詣(もう)でをした、印象派の先駆者マネをはじめとするフランスの画家たちであり、「ハルスのパレットには27通りもの黒がある」と述べてその絵画を礼讃したファン・ゴッホであった。
他方、ユトレヒトで新たに注目を集めたのはカラヴァッジョ風の明暗法を採用した画家たちである。なかでもヘリット・ファン・ホントホルスト(1590~1656)の《売春宿の女主人》(1625年)は、性的刺激を狙ったものではなく、女主人を家を通して、金で買える快楽に潜む危険性を劇的に表現したものであった。

第2期――スペインとの戦争の時代

スペインとの戦争が再開された1621年から45年頃までが、17世紀オランダ絵画の第2期である。
イベリア諸国、レヴァント地方などとの通商が難しくなり不景気が広がると、絵画も小ぶりで値段の安い地味な画題のものが主流になった。外国産の色鮮やかな染料が入手難となったため、すべてのジャンルにわたってほとんど単色の灰褐色・黄褐色の絵が描かれるようになる。たとえば静物画ではウィレム・クラーソーン・ヘダ(1594~1680)、風景画ではヤン・ファン・ホイエン(1596~1656)がその例と言えよう。
他方、それでも高価な絵の具が利用できた画家のなかから、レイデンおヘリット・ダウ(1613~75)のような「細密画」の巨匠が現れる。ダウはレンブラント(1606~69)の最初の弟子であるが、師匠がアムステルダムに移住し様式を変えた後も、教わった細密画法を守り続けた。《若いバイオリニストのいる室内》(1637年)はその代表作である。また上野の国立西洋美術館にある《シャボン玉を吹く少年と静物》(1636年頃)は、少年の背中にぼんやりと描かれた天使の羽から、夭逝(ようせい)した愛児を悼む両親による注文品と解される。
師匠のレンブラントのほうはこの時代に、オランダ集団肖像画の最高傑作《夜警》(1642年)を完成させる。過剰な演出の結果、共同出資者のなかで後景にぼんやりと描かれた人、顔の一部が隠れた人などから不満が噴き出し、この作品を境にレンブラントの没後が始まったという有名な説明は、必ずしも正しいては言えない。この先品には実際の出資者だけでなく多数の架空の人物も描き込まれているからだ。
なおレンブラントは、あらゆるジャンルの絵が描けるオールラウンダーでもあった。弟子の一人カーレル・ファブリティウス(1622~54)も同じく多芸多才であったが、1654年のデルフトの火薬庫爆発事件のため、若くして落命してしまったのは惜しまれる。
当時の大多数の画家は、自身の専門ジャンルの絵に専念するのがふつうだった。たとえば、教会内部を描いたエマニュエル・デ・ウィッテ(1617頃~92)、建物の外観も忠実に描いたピーテル・サーレダム(1597~1665)、家督の描写に優れていたパウルス・ポッテル(1625~54)、家庭内の日常風景を描いたピーテル・デ・ホーホ(1629~84)、馬、騎兵・小戦闘などがテーマのフィリップス・ワウェルマン(1619~68)、月夜の風景を描き続けたアールト・ファン・デル・ネール(1603/04~77)などである。

第3期――百花斉放

17世紀オランダ絵画の第3期は1645年頃から72年までである。
まず注目すべきは、繁栄の極盛期を迎え市域の拡張と新しい建物の建設が進むなかで、新たな建築画が続々と生まれたことだ。ヘリット・ハウキヘースト(1600頃~61)やヘリット・ベルクヘイデ(1636~98)などがその筆頭に挙げられよう。

フェルメール

この第3期の画家に属するヨハネス・フェルメール(1632~75)は、生涯の大半をデルフト市ですごした。とはいえ、彼は市内外の画家仲間にも目配りし、そこから得た着想を消化して自身の作品のなかに活かしている。文藝評論家T・トドロフが「絵画は世界を摸倣するだけでなく、他のさまざまな絵も摸倣する」と述べている通りである。
たとえば、アメリカのメトロポリタン美術館学芸員W・リートゲ(2015年地下鉄事故で急逝)によると、G・ハウクヘーストの《説教壇のあるデルフト・アウデケルク内部》(1654年頃)はフェルメールの《窓辺で手紙を読む女》(1658/59年)の構図に影響を与えた可能性が高いという。一目見て両者の共通性は明らかだし、前者の中央の白い円柱が後者の手紙を読む女性に置き換えられたとの見立ても意表をつくものではない。