じじぃの「感染症を歴史から見てみる・3つの言葉・共通点は?ワイドスクランブル」

La Peste [trailer] | Una serie original de Movistar+

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JRl6Dy7I8SA

Peste

ペスト (小説)

ウィキペディアWikipedia) より
『ペスト』(仏: La Peste)は、フランスの作家・アルベール・カミュが書いた小説。
出版は1947年。1957年に44歳でノーベル文学賞を受賞したカミュの代表作の一つである。
フランツ・カフカの『変身』とともに代表的な不条理文学として知られる。カフカの『変身』は不条理が個人を襲ったことを描いたが、カミュの『ペスト』は不条理が集団を襲ったことを描いた。この『ペスト』で描かれる不条理は伝染病のペストである。カミュは、中世ヨーロッパで人口の3割以上が死亡したペストを、不条理が人間を襲う代表例と考え、自らが生まれ育った北アフリカのフランス領を舞台にしたこの小説を書いた。

                    • -

大下容子ワイド!スクランブル

2020年3月23日 テレビ朝日
【司会】佐々木亮太、大下容子 【コメンテーター】川村晃司テレビ朝日コメンテーター)、マライ・メントライン(ドイツ放送プロデューサー)、古田大輔(メディアコラボ 代表) 【解説】池上彰(ジャーナリスト)、増田ユリヤ(ジャーナリスト)

池上彰増田ユリヤ・徹底生解説 3つの言葉・共通点は

感染症を歴史から見てみる。
奈良の大仏、デマ、万有引力
感染症の流行をきっかけに生まれたもの。
実は人類というのは感染症との長い闘いの歴史があった。
●歴史書 第1章:Encounter(未知との遭遇
一番古い感染症の流行の記録があるのはギリシャアテネではやった疫病。
疫病によりアテネはスパルタに負け、ペロポネソス戦争のときに指導者としていたペリクレスも疫病で倒れ、扇動政治家が登場。
その人たちのことを「デマゴーグ」といったので、これが「デマ」の語源になった。
15世紀、コロンブスが米国大陸に到達したときに物の行き来がヨーロッパと米国であり、梅毒(性感染症)という病気がヨーロッパにまん延。
互いにほかの国のせいにすることも発生。英国やドイツがフランス、フランスはスペインのせいだなど。
いつの時代も感染源のなすりつけ合いが行われた。
アメリカ大陸に上陸したスペイン人は、天然痘や麻疹、チフスなど多くの病気を現地に持ち込んだ。
インカ帝国天然痘によって滅びた。
その理由を神の怒りと当時は考えていた。
●歴史書 第2章:ルネサンス感染症から生まれた
ペスト菌を媒介するノミがネズミから人間に移り、伝染させる。
14世紀、ヨーロッパでペストが大流行し、ヨーロッパの人口の4分の1、2500万人が死亡した。
ペストの大流行の頃から教会や墓地に「死の舞踏」といわれる壁画が描かれるようになった。
人口減少により労働力が不足。
賃金がアップされ金を手にした農民たちは自由も手にした。
ペストの流行を止められなかったカトリック教会の権威が失墜。
その結果、封建的なキリスト教の価値観から脱して自然な人間らしさを大切に生きていかなければいけないと古代ギリシャやローマの文化が復活。
ルネサンスも同様に疫病から生まれた。
この言葉は再生とか復興という意味。
ペストの流行によって文学作品も生まれている。
イタリアの作家ジョヴァンニ・ボッカッチョは、フィレンツェを襲ったペストの惨状を目の当たりにし、それをもとに『デカメロン』を書いた。
ペストが流行したことによって10人の男女が逃れて別荘で暮らすことになり、退屈まぎれにみんな持っている話をちょっとしてくれというので1人が10ずつ話をする。
10日間で100の話をした設定で『デカメロン』という本ができた。
キリスト教の教会の権威が失墜したことで今度は国家が前面に出てきて絶対王政になっていくという世界の歴史があった。
日本でも疫病が流行して世の中が変わった。
侍の起源。
奈良時代に疫病が大流行し、聖武天皇が経済政策として田んぼの私有を認めた。
田んぼを守るために武士が誕生。
仏教を精神的な支えにしていった。
●歴史書 第3章:疫病に立ち向かうということで医者も防護
ドイツの医師コッホは、感染力のある病原体としての細菌である炭疽菌を光学顕微鏡を用いて初めて発見した。
さらには天然痘と闘っていくために冷戦下あった米国とソ連が協力して天然痘に打ち勝った。
人類は感染症と闘い続け、かなり負けてきたこともあるが、ここに来て科学の力によってこれに打ち勝とうとしている。
疫病の思わぬ副産物。
17世紀にヨーロッパでペストが流行し学校が休校になった。
当時のイングランドケンブリッジも大学が休校になり、アイザック・ニュートンが大学が故郷へ帰って故郷で思索を深めていたときにリンゴの木からリンゴの実が落ち、万有引力の法則を発見したと伝えられている。
ニュートンは現在にわたる微分積分も考え出した。
新型コロナウイルスで休校になって家に閉じ込められている子どもたちも大勢いると思うが、これを機会に新たに勉強し新しいことを考える。小説も生まれるかもしれない。
川村晃司、「フランスの作家アルベール・カミュは『ペスト』を書いた。この本はアルジェリアを舞台に、致死率の高い感染症であるペストの流行による街の混乱と市民の戦いを描いている。今、新型コロナウイルスが世界各地に広がり深刻な影響を及ぼしているが、人間性を蝕む不条理を描いている」
https://www.tv-asahi.co.jp/scramble/

『ビッグヒストリー大図鑑:宇宙と人類 138億年の物語』

デイヴィッド・クリスチャン/監修、ビッグヒストリー・インスティテュート/協力、オフィス宮崎/日本語版編集 河出書房新社 2017年発行

東西の出会い より

1492年まで、「旧世界」(アフロユーラシア)と「新世界」(アメリカ大陸)の人々は、お互い相手の存在を気づいていなかった。この2つの世界を結びつけたのはヨーロッパの探検家で、これをきっかけに世界は「コロンブス交換」、すなわち人間や動物、作物、病気、技術の移動を経験することになる。

ヨーロッパの探検家は自分たちが優位に立てる技術(乗馬、銃や鋼鉄製の武器など)を最大限に利用して新世界の人々を征服した。またヨーロッパから持ち込まれた病気も新大陸征服に味方した。コロンブス交換によって世界各地の生活は一変する。
人々はどこにいても新種の食料が手に入るようになり、その結果、その後2世紀にわたって世界の人口は増加の一途をたどった。作物や家畜の拡散とともに、改良された農業技術や体系的な新しい方法が入ってくる。政府の力が拡大し、人口や収入を増やすために自国の領土を拡張しようとした。その結果、人間はますます土地に改変を加えるようになる。

天然痘

天然痘、発信チフスコレラなど、多くの感染症アメリカ大陸に持ち込まれた。アメリカ大陸の先住民には旧世界の病気に対する抵抗力がないため、人口が激減する。

キリスト教

ヨーロッパからの征服者たちは熱心なキリスト教徒だった。アメリカ大陸では土着の宗教がすたれ、キリスト教への大規模な改宗が行われた。

アメリカ大陸の輸送と農業に画期的な影響を与えたのが馬である。北米の平原に住む先住民は馬を自在に乗りこなすようになり、バッファロー(バイソン)の狩りにも馬を役立てた。

じじぃの「歴史・思想_143_韓国・堕落の歴史・李朝・名君だった世宗王」

朝鮮最高の名君? 世宗さん 朝鮮史Part 7

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4DL5tH_8DZ8

済州島」をハングルで書くと

なぜ日本人は韓国に嫌悪感を覚えるのか (月刊Hanada双書) 2018/3/29 室谷克実 (著)

ケンチャナヨ文化 より

仏僧は漢字の素養があるはずだ。大統領だった廬武鉉(ノムヒョン)氏の没後にその墓を造る際、名だたる高僧が揮毫(きごう)した「廬武鉉」の文字を墓の盤石(フタになる部分)に彫り込んだ。ところがそれは、「慮武録」の「慮」の字が「とらかんむり」(虎)ではなく、「まだれ」(广)になっていた。
同じような笑い話は15年、済州島(チェジュド)でも起きた。韓国の広域自治体は、特別市(日本でいう政令市)と道に大別される。済州島は島全体が済州「道」であり、他の道より自治権限が多い「特別道」になっている。「島」も「道」もハングルで書けば「Lエ」(ト・ド)だから、ハングルで「チェジュド」と書いてあったら「済州島」なのか「済州道」なのか区別がつかない。

                    • -

『韓国 堕落の2000年史』

崔基鎬/著 祥伝社新書 2019年発行

血で血を洗う日々の始まり――骨肉相食む、おぞましき500年史 より

「易姓(えきせい)革命」というクーデターのうまい口実

李成桂(イソンゲ)は、こうして(クーデター)国を盗むことに成功した。1393年2月15日に、明の許しを得て、国号を高麗から「朝鮮」と改称した。だが、そのために、かつての高句麗の領土だった遼東半島を奪回する絶好の機会を失ったうえに、その後、韓族は中国の属国となり下がって、萎縮する運命に陥った。
紅巾の乱で元(げん)の国内がガタガタになっているこの時こそ、高麗が一丸となってこれと戦えば、かつての国土を取り戻すこともできたのに、李成桂の利己心から、その機会は永遠に失われてしまったのである。
李成桂は王位を自分に禅譲した恭譲王も、追放した。王と王族である王氏一族を生きたまま海に葬って、皆殺しにした。王は、今日でも韓国の姓の1つである。
そして高麗朝のもとで国教であった仏教を廃して、「崇儒排仏」政策に逆転させた。中国の明を宗主国と仰ぎ、儒教を国教とした。朝鮮を朱元璋の属国にしたことによって、中国古来の悪弊を真正面から蒙(こうむ)った。
「易姓」という言葉が、中国の古典『史記』のなかに出てくる。これは中国に古くから伝わる政治思想であって、「国家は一姓の栄」と考えたから、新しい王朝が興(おこ)ることを指した。「易姓革命」は「天使は天命を受けて天下を納めるが、もし、その家――姓に不徳の者が出れば、別の有徳者が天命を受けて新しい王朝を開く」という思想である。
もちろん、「易姓革命」は国盗りに成功する者の野望を、もっともらしく正当化する説でしかない。中国人は今日の中華人民共和国でもそうであるが、悪行を美しい言葉によって飾り立てるのに、長(た)けているのだ。

例外的な名君だった第4代世宗(セジョン)

李朝第4代の王は、世宗大王と呼ばれている。太宗の三男である。
世宗は1418年に22歳で即位したが、賢明で学問を好み、内治、外交、文化など各方面に多大の治績をあげて、後世の学者によって王朝の基礎を強固にした名君と評価されている。
世宗は即位と同時に、「正音庁」を設置してハングル文字である「訓民正音(フンミンジョンオム)」を創製した。また、集賢殿を設置して国内の優秀な学者を集め、多くの書物を編纂させた。
世宗王自身も「月印千江之曲」という純ハングル文の詩を著(あらわ)しているが、仏の徳を称え、仏の恩徳が絶大であることを謳ったものである。
世宗王は、父王までの3代の王が仏教を徹底的に排斥して弾圧したのにもかかわらず、仏教に強い関心を寄せた。世宗は仏教の改革に務め、その書籍などを刊行し、科挙に僧科を設置して、仏教の発達にも寄与している。
さらに世宗の命によって、李朝の事蹟を歌に詠んだ「竜飛御天歌」が刊行された。全10巻にわたり、125章に分かれるが、まず中国の歴代の皇帝を賛美し、ついで李朝の事蹟を称えたものである。この「竜飛御天歌」と「月印千江之曲」が、世宗事蹟の双璧を成している。
そして『高麗史』を編纂させたほかに、三網行実図、八道地理誌、治平要覧、医方類聚などを編み、李朝500年間のなかで、もっとも治蹟があった王として評価される。
世宗は学者たちに依頼して暦書を編み、太陽時計、水時計、渾天儀(ホンチョンイ)など各種の科学器具を発明、製作させて、天体を測定した。また、日本に対しては歳遣船を使って、朝鮮と対馬の間の貿易と往来を許した。それに加えて三浦(3つの港)を開港し、倭館を建てることによって、自由貿易を勧奨した。三浦とは、釜山蒲、斎蒲、塩蒲の3港のことである。
世宗25年に当たる1443年には、歳遣船の数が51隻に増えたが、時には歳遣船を2、3隻追加することによって和信政策をとり、外交面でも尽力した。
世宗王は李朝の歴代の王のなかで、例外的な名君であった。逆にこのことは、中国と同じように政権に継続性がなく、お上(かみ)一人の意思によって、国のありかたそのものが変わることを示している。

じじぃの「地下鉄サリン事件から25年・街から消えたゴミ箱!地下鉄の素」

あの日から消えたゴミ箱

駅のゴミ箱が復活しないのは、経費削減のため?

2012.07.24 ビジネスジャーナル
オウムが起こした地下鉄サリン事件は、社会に多大な影響を及ぼしたが、僕に直接影響があったのは、駅のゴミ箱である。
あの事件をきっかけに、テロ防止のためにと駅のゴミ箱がなくなった。最初は捨て口をテープで封鎖するだけだったが、いつしかゴミ箱自体が撤去されてしまった。
https://biz-journal.jp/2012/07/post_435.html

『地下鉄の素』

泉麻人/著 講談社文庫 2000年発行

新聞が漁れない! より

サリン事件以来、新聞を網棚に読み捨てるのも難しくなった。まわりの乗客から疑惑の視線が飛んでくる――といった話を前回書いたが、こないだ読み終え終えた新聞をホームのゴミ箱に捨てようと思ったら、ゴミ箱にフタがされているのである。
ダンボール紙で厳重なフタがされ、「地下鉄サリン事件以来、警戒のために…」なんて断り書きが張られていた。
なんというか、出すものを出せない、トイレをたらい回しにされているようなスッキリしない気分で、僕は投げ捨てようと思っていた新聞を、再びカバンのなかに収めた。
すべての電車ではないが、駅のゴミ箱を使えない、というのは、けっこう不便なものである。ゴミ箱にフタをしたからといって、ああいった犯罪を防げる、というわけではなかろうに。
サリン事件とは全く関係ないが、僕はふと”ゴミ箱の古新聞漁りの人々”のことを思い浮かべた。どこの駅にも、乗客が読み捨てた新聞や雑誌をゴミ箱から漁るオジサン、というのが存在していたいたものだ。彼らは、掛けがえのない楽しみを奪われて、放心しているのではなかろうか…。逃げ口を塞がれた化学実験のハツカネズミのように、ホームのゴミ箱のまわりを右往左往しているのではないだろうか。
ちょっと大袈裟鴨かも知れないが、人間、一旦しみついた習慣というのは、なかなか変えられるものではない。
    ・
あのゴミ箱あさりの行為は、決してカネがなくて、カネをケチって新聞、雑誌を拾っているわえではなく、一種のクセというか、ホビー(趣味)の類いである、と考える。バリッとしたビジネススーツ姿の、一見して紳士風の男が、何かに憑(つ)かれたようにゴミ箱の新聞を漁っている光景を、何度も目にしたことがある。
隣の乗客の新聞を覗き見すると、その記事が妙に面白いものに思えるのと一緒で、おそらく、ゴミ箱のなかから採集した新聞というのは、売店で買ったものより、ずっといいのであろう。どぉいい、のかわからないけれど、なんとなくその「いい」の感じはわかる。前夜の食べ残しのカレーを翌朝食うと、妙に旨かった――という感覚に近い、ような気がする。

                    • -

じじぃの日記。
1995年に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件から、25年が経った。
2018年に松本智津夫元死刑囚(教祖名 麻原彰晃)らの死刑が執行された。
一人の気違いが、多くの人の命を奪い、日本という国をゆがめた。

あの日から消えたゴミ箱。

「隣の乗客の新聞を覗き見すると、その記事が妙に面白いものに思えるのと一緒で、おそらく、ゴミ箱のなかから採集した新聞というのは、売店で買ったものより、ずっといいのであろう。どぉいい、のかわからないけれど、なんとなくその「いい」の感じはわかる。前夜の食べ残しのカレーを翌朝食うと、妙に旨かった――という感覚に近い、ような気がする」
前夜の食べ残しのカレーが、ゴミ箱とは何となく分かる。

じじぃの「歴史・思想_142_韓国・堕落の歴史・壬辰倭乱・李舜臣」

ソウルの中心にある李舜臣

李舜臣 世界史の窓

朝鮮の水軍を率いて豊臣秀吉朝鮮侵略(1592年~)と戦った。
亀甲船を考案し、倭軍の水軍を次々と破り、その補給路を遮断した。一時罪を得て退いたが、再び前線に出て活躍したが、98年11月に戦死した。
https://www.y-history.net/appendix/wh0801-113.html

『韓国 堕落の2000年史』

崔基鎬/著 祥伝社新書 2019年発行

悲劇の誕生李朝成立――何が日韓両国の歴史の明暗を分けたのか? より

朱子学の毒に、骨の髄まで侵された李朝

李朝は、中国の歴代王朝を滅亡させた理由が、党争と宦官制度と儒教による腐敗であったことを顧みることなく、明の悪い制度を、そっくり導入したのだった。そして国民を際限ないまでに苦しめ、残虐をほしいままにした。李朝のもとで、農民を中心とする国民は、人類史上で最悪の搾取を蒙(こうむ)ったといえる。
「党錮(とうこ)の獄」は、後漢桓帝(かんてい)の時代、166年に、宦官が跋扈(ばっこ)して反対党に属していた学者たちを投獄し、終身禁錮にしたことを指す。中国では同じようなことが繰り返し起こった。明朝を行き詰まらせたのは、宦官と腐敗した官僚による陰謀政治であった。その腐敗を批判した東林党と、非東林党の党派争いは有名である。
李朝でも、これとまったく同じことが繰り返されることとなった。
朱子学李氏朝鮮において、呪いとなった。朱子学は、周学、程学、張学、理学、新儒学とか、宋学など、いろいろな名によって呼ばれるが、明朝で全盛期を迎えた。朱子学はまったくの理論学であったために、その解釈をめぐっていくらでも争点を見つけだすことができる。それが党争を激化させる原因となった。
李朝は500年の長い年月にわたって、宮廷を囲む少数の両班と宦官たちが、党派抗争に耽(ふけ)り、国民を極貧のどん底まで追い込んだ。

李舜臣(イスンシン)も、党争の犠牲者

1592年と97年に、豊臣秀吉が明へ侵攻しようとして、朝鮮を通過することを要求して拒まれ、壬辰(イムジン)・丁酉(ジョンユ)倭乱(文禄・慶長の役)が起こると、李舜臣が朝鮮海軍の総司令官に当たる水軍統制使として、大きな功績をたてた。
李舜臣は、後の日本の海軍兵学校で、イギリスのネルソン提督と並んで軍神として崇(あが)められた名将だった。日露戦争において、日本の勝利を決定づけた日本海海戦の英雄である東郷平八郎連合艦隊司令長官も、「李将軍と較べれば、とても私ごときは及ばない」と称(たた)えているほどである。
だが、李舜臣は今日でこそ、ソウルの中心街に銅像が立てられ、尊仰されているが、生前は、党争の典型的な犠牲者となった。
李舜臣は、壬辰倭乱において亀甲船(きつこうせん)を建造し、日本海軍を壊滅させたのだから、その勲功は絶大なものがあったはずだが、その功績が党人の間で激しい嫉妬心を招いた。その結果、元均の一派の中傷と謀略によって、暗愚な仁祖は、取り調べも裁判も行なうことなく、李舜臣を処刑することに決めた。
しかし、丁酉倭乱によって再び日本の侵攻に見舞われたために、李舜臣を白衣従軍(ペイジョングン)させた。白衣従軍とは官職を与えられずに、戦地へ赴くことであって、現在なら二等兵への落等処分に相当する。
当初は、元均が李舜臣に代わって水軍統制使に就任し、士気を執った。しかし彼は、日頃、放蕩の生活に耽(ふけ)っていたために無能であった。そのため豊臣軍に惨敗したなかりか、元均も戦死し、朝鮮海軍は全滅した。
元均の死後、李舜臣が再び水軍統制使に任じられた。彼は再度日本海軍を撃滅したが、戦闘中に流弾に当たって、その生涯を閉じた。

じじぃの「粗相し始めたわたし・君が去った後で!大人の流儀」

Older Dog

「やまゆり園事件」で植松被告に死刑判決、差別的主張による自説は曲げず

2020.3.16 ダイヤモンド・オンライン
神奈川県相模原市知的障害者施設「津久井やまゆり園」で2016年7月、入所者ら45人を殺傷したとして、殺人罪などに問われた元職員植松聖被告(30)の判決公判が16日、横浜地裁で開かれ、青沼潔裁判長は求刑通り死刑を言い渡した。
障害者に対する差別的な偏見が大量殺人の動機とされた過去に例を見ない事件。植松被告は最終意見陳述でも重度障害者への差別的な考えを主張した上で「どんな判決でも控訴しない」と自説を曲げなかった。
https://diamond.jp/articles/-/231826

『いろいろあった人へ 大人の流儀』

伊集院静/著 講談社 2018年発行

君が去った後で より

北国の短い夏の木洩れ陽の中でスヤスヤと昼寝をしていた仔犬が、今はあらゆる季節の移り行く風景を、ただじっと見つめている。
そっとうしろから近寄り、そのちいさな身体を抱き上げ、頬ずりをして言いたい。
――おまえが居てくれたお陰で、わたしたちはどんなに素晴らしい時間を持つことができたか……。
家人は、お兄ちゃんはこの夏はもう乗り切れないかもしれない、と言う。
それを彼女が明るく言うほど、彼女の胸の奥底にある不安と哀しみを感じる。
犬、猫(ワニでもいいが)ペットと暮らすというものはなかなか厳しいものである。
その第1は、彼らが人間と異なり、生きる生涯時間が速いということである。
お兄ちゃんは最初、この家に来るはずもなかった。なぜなら、我が家の縁の下に猫が仔猫を何匹か産み、その声と、たまたま外へ出た姿を家人が目にして、ミルクを与えはじめたことが、お兄ちゃんが来る原因だった。
家人は愛くるしい仔猫の表情を一目見て、ミルクをやるようになった。それが愉しみだった。ところが或る日、母猫と仔猫の皆が縁の下から消えた。
家人とお手伝いは縁の下まで潜った。
動物のすることだから、こちらにわかるはずがない。家人の落胆ぶりは目に余った。
誰が何の智恵をあたえたか、家人はペットショップに猫を身に行った。
そこで1匹のダイヤモンドのような瞳をした仔犬に出逢う。家人いわく。
――あれは運命だったのよ。
    ・
――まあいいか。
我が家は一変した。元々、人間に従順な犬種らしく、家中のあらゆる場所に犬の休憩所ができた。実際、気立ての良い犬だった。
どこへ出かけるにしても、アイス(天使という意味があるらしい)が中心で、それはそれで楽しいこともいくつもあった。
並の犬じゃないわ、と家人がおっしゃる。
そのアイスが老犬になり、時折、呼吸が切ないほど辛そうになる。
もう半年前から、家人は目覚める度にアイスの鼻のそばに手を伸ばし、息をしているかをたしかめると言う。それでも彼女は明るく振る舞い、大声で言う。
「アイス、頑張るのよ」
私と、東北一のバカのノボは、その1人と1匹のやりとりを見ながら顔を見合わせる。
あんなにちゃんとトイレができた子が粗相(そそう)をすると、申し訳なさそうに物陰に隠れる。家人は言う。
「いいの。もういいのよ」
それでもアイスは物陰から出て来ない。
躾とは生涯のものなのだろう。物陰で私に助けを求める目が、表情が切ない。
「おいで、おまえは十分に生きたんだから」

                    • -

どうでもいい、じじぃの日記。
2016年「津久井やまゆり園」で、入所者ら数十人を殺傷したとして元職員 植松聖被告の判決公判が3月16日に行われ死刑が言い渡された。
植松被告の少年時代の評判は、友だちもいて決して悪くはなかった。
「意思疎通の取れない重度障害者は生きる価値がない」
はどんなことを指すのだろうか。
障害者やお年寄りが「粗相」をしたときだろうか。
もしかしたら、入居者の中には、「ありがとう」とか言えない人がいたからなのだろうか。
それでもこんな理由で人を殺傷することは許されるものではない。
朝、トイレを我慢していたら、私も粗相をしてしまった。
トホホのホ。

じじぃの「歴史・思想_141_韓国・堕落の歴史・李氏朝鮮の成立」

李氏朝鮮はこうして出来ちゃった 朝鮮史Part 5

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=15-iiaOiQCA

李氏朝鮮 貴族階級である両班

李氏朝鮮

ウィキペディアWikipedia) より
李氏朝鮮(りしちょうせん)は、1392年から1897年(大韓帝国として1910年まで存続)にかけて朝鮮半島に存在した国家。王朝名としては李朝(りちょう)。
李氏朝鮮」は「李家支配下の朝鮮」の意味であり、過去に「朝鮮」の国号を使用した箕子朝鮮や衛氏朝鮮などとの区別のため呼称される。大韓民国では「朝鮮王朝」とも呼ばれ、近年の日本でも同様に呼称する場合がある。なお、北朝鮮では朝鮮封建王朝と呼ばれる。李朝は歴史の順番によって高麗の次の王朝にあたり、朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもあった。

                        • -

『韓国 堕落の2000年史』

崔基鎬/著 祥伝社新書 2019年発行

悲劇の誕生李朝成立――何が日韓両国の歴史の明暗を分けたのか? より

民族の心を復興した高麗(こうらい)王朝の繁栄

自ら唐の臣下になり下がることによって、背後から百済高句麗を攻め滅ぼした新羅は、9世紀に入ると、中央の権力が弱体化して国内が乱れ、地方で豪族が割拠(かつきょ)するようになった。そして936年に高麗朝と交代した。
高麗朝はナショナリズムを甦(よみがえ)らせ、高句麗百済の精神的な再興を企て、再び韓民族の誇りを取り戻させた。仏教文化が興隆し、1章で紹介した海印寺の「八方大蔵経」の版木も、この時代の文化の所産だった。
だが、13世紀に入って、モンゴルがアジア大陸において勢力を大きく伸ばすようになると、高麗は、この世界帝国への対応に追われることになった。1206年にチンギス・ハン(成吉思汗)がモンゴル諸族を統合し、モンゴル遊牧帝国の創健者となると、1231年には、高麗へ第一次侵攻を行なった。
その後、チンギス・ハーンの末子の子であり、第5代皇帝のフビライ・ハンが中国の統一を成し遂げ、1271年に中国の伝統を受け継ぐ正統王朝として、元朝を樹立した。そして、その後、1世紀にわたるモンゴル人による漢人支配が始まった。
高麗は23代の高宗(コジョン)のもとで、モンゴル軍の第一次侵攻を蒙(こうむ)ると、いったんは講和を結んだが、抗戦を決意して、都を開京(ケギョン)から、その西方にある江華島へ移した。開京は現在の北朝鮮の南西部にある開城(ケソン)である。
モンゴル軍は江華島を攻めあぐねた。しかし、24代の元宗(ウオンジョン)が講和の道を選んで、モンゴルから侵略しないという約束を取りつけ、1270年にモンゴルの要求にしたがって、開京に遷都した。同時に精鋭軍の解散を命じたことから、事態が急変した。

領土回復の機会を永久に絶った、李成桂(イソンゲ)の裏切り

元朝は、14世紀なかばに内部分裂し、混乱した。そして1368年に、漢民族による明朝が元朝を倒して、中国を統一することに成功した。高麗は明が混乱すると、かつて新羅の裏切りによって失った満州から沿海州にかけての旧高句麗領の回復を企てた。
そのようななかで、韓族にとって2度目の歴史的痛恨事がもたらされた。
1388年に高麗の右軍の司令官であった李成桂(1335-1408年)は、明から遼東半島を回復するために、3万8000人(10万説も)の軍勢を率いて進軍中に、こともあろうに敵である明と戦うことなく、鴨緑(ヤールー)江河口の威化島(イファト)から回軍して平壌に引き返し、クーデターを行なったのである。高麗は、外敵と通じた裏切り者によって滅びることになった。
李成桂は、1392年に李朝を創設するとともに、明に臣下の礼をとり、韓国は再び中国の属国になり下がってしまった。
これは民族に対する悪辣(あくらつ)きわまる反逆行為だった。李朝は明を天子の国と仰いで、中国文化を直輸入した。「朝鮮」という国名も、明に選んでもらったものだった。そこまでして李成桂は、クーデターによって成立したばかりの不安定な政権のバックボーンになってもらうよう、明に諂(へつら)ったのである。
その結果、中国社会の悪いところが、すべて移入された。李氏朝鮮はその後、500年にわたって党派争いに明け暮れ、骨肉の争いや中傷謀略や、不正腐敗がはびこることとなった。

朱子学の毒に、骨の髄まで侵された李朝

李朝は、中国の歴代王朝を滅亡させた理由が、党争と宦官制度と儒教による腐敗であったことを顧みることなく、明の悪い制度を、そっくり導入したのだった。そして国民を際限ないまでに苦しめ、残虐をほしいままにした。李朝のもとで、農民を中心とする国民は、人類史上で最悪の搾取を蒙(こうむ)ったといえる。
「党錮(とうこ)の獄」は、後漢桓帝(かんてい)の時代、166年に、宦官が跋扈(ばっこ)して反対党に属していた学者たちを投獄し、終身禁錮にしたことを指す。中国では同じようなことが繰り返し起こった。明朝を行き詰まらせたのは、宦官と腐敗した官僚による陰謀政治であった。その腐敗を批判した東林党と、非東林党の党派争いは有名である。
李朝でも、これとまったく同じことが繰り返されることとなった。
朱子学李氏朝鮮において、呪いとなった。朱子学は、周学、程学、張学、理学、新儒学とか、宋学など、いろいろな名によって呼ばれるが、明朝で全盛期を迎えた。朱子学はまったくの理論学であったために、その解釈をめぐっていくらでも争点を見つけだすことができる。それが党争を激化させる原因となった。
李朝は500年の長い年月にわたって、宮廷を囲む少数の両班と宦官たちが、党派抗争に耽(ふけ)り、国民を極貧のどん底まで追い込んだ。
李朝初期においては、党争の主体が「四色党派(サセクタンパ)」として知られた。これは「老少東西」の4つのグループだった。はじめは東人と西人に分かれて対立したが、西人派の威勢が高まるなかで、老壮派と少壮派に分裂した。そして東人派も、北人と南人に分かれ、時とともに無数の党派に増殖した。東西南北、老少といっても、地域や年齢を指したものではない。
これらの党派が政権を奪おうとして、士禍(サファ)と党争が激化した。士禍の「士」は、士大夫を指している。

じじぃの「いかに生きるか・ウイルスに勝って120歳まで生きる?ヒトはなぜ病むのか」

寿命を決める複合要因

読書シリーズ「ヒトはなぜ病み、老いるのか」

◆風邪の原因と対策
とりあえず風邪の原因となる代表的なウイルスを上げておくと、鼻やのどに感染するコロナウイルス、ライノウイルス、アデノウイルスがいる。さらに腸に感染するエンテロウイルス、集団食中毒で問題になるノロウイルスロタウイルスなどがいて、さまざまな症状をもたらす。
風邪の症状は、咳、鼻水、くしゃみ、発熱だ。なぜ、咳や鼻水が出るのか。それらのすべての症状は、ウイルスを身体から外へ出そうとする防御反応だ。くしゃみや咳は、その時勢いよく出される息、つまり呼吸中にある大量のウイルスを外に排出するのが一番の役割だ。その中には有害なウイルスが含まれているので、マスクをして感染を避けるというのが常識になっている。
http://kyorinpg.xsrv.jp/category9/entry239.html

『ヒトはなぜ病み、老いるのか―寿命の生物学』

若原正己/著 新日本出版社 2017年発行

いかに生きるか より

いくら長生きしても寝たきりでは困ることも多い。そこで健康寿命という考えが出てきた。人生の質(QOL)ということも強調されるようになってきた。
これまで述べてきたように、生物学的に見ればヒトが老化をし、寿命があるのは当然なので、それにあえて逆らわずに生きることが大事だろう。
第7章で説明したように哺乳動物の寿命は体の大きさによって決まっている。つまり体の大きい動物ほど寿命が長く、小さい動物ほど寿命が短いという経験則がある。その理由は、小さい動物ほど時間が速く流れる。その基礎にあるのは生理的な代謝時間という考え方だ。しかし、ヒトの場合はその線から大きく外れているので、一筋縄にはいかない。
以前は染色体に末端にあるテロメアが細胞老化・細胞寿命の基礎になるという考えが主流だったが、それだけで寿命がきまっているわけではないことがわかってきた。最近は長寿遺伝子と呼ばれるサーチェインが1世を風靡したが、どうやらサーチェインだけでは十分だとは言えない。結局、1つや2つの要因でヒトの寿命が決まっているわけでなく統合的に考えなければならないというのが本当の所だろう。まるでふりだしにもどったという感じで、結局寿命を決める要因は1つには絞れないということだ。
ヒトの寿命は図12(画像参照)で示したように、テロメアミトコンドリア(酸化ストレス)、免疫能力、サーチェイン遺伝子、分子修復能、再生能力、そのほかに心理的な要因も重要だろうと考えられる。
こうした要因の1つひとつが総合的に寿命に関連していて、そのすべてが満足されれば120歳という寿命を迎えることができるが、そのうちのいずれかが欠けていくと命が尽きるという考えだ。
    ・
ヒトは必ず死ぬので、年をとれば残りの人生は間違いなく少なくなる。これまで述べてきたように不老不死もなければ「夢の若返り」などもない。だから、残された時間を有効に過ごす以外にない。その中でやりたいことをやることが極めて大事だ。
長寿の秘訣は、ふつう①1つか2つの趣味をもつこと、②知的好奇心を持ち続けること、③適度に体を動かすこととまとめられる。さらに言えば、④よく笑うこと、⑤集団の中で孤立せず生きること、などが指摘されている。私はそれらに加えて、⑥だれかの役にたつこと、を加えたいと思う。

                    • -

どうでもいい、じじぃの日記。
大阪府新型コロナウイルスに感染し治療を受けていた東大阪市内の70代の男性が、3月18日死亡したと発表した。
男性は基礎疾患があり、今月中旬に症状が悪化して感染症の指定医療機関で治療を受けていたとのこと。
基礎疾患とは、心筋梗塞脳梗塞に対する動脈硬化症や糖尿病などをいう。
私も70歳代で糖尿病持ちだ。
「ヒトの寿命は図12(画像参照)で示したように、テロメアミトコンドリア(酸化ストレス)、免疫能力、サーチェイン遺伝子、分子修復能、再生能力、そのほかに心理的な要因も重要だろうと考えられる」
免疫力は、20歳前後にピークを迎え、40歳代では50%、70歳代では10%まで低下してしまうらしい。
まあ、免疫力を維持しながらストレスなしの生活を続ければ、100歳まで生きられそうだ。
後はあなたが、新型コロナウイルスなどに打ち勝つスーパーヒーロー遺伝子(genetic superheroes)を持っているかどうかだ。