じじぃの「歴史・思想_88_世界史を変えた指導者・カール・マルクス」

Das Banner von Marx und Lenin - The Banner of Marx and Lenin

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=hMtSKZ7Yw0M

Lenin, Engels, Marx

『図説 世界史を変えた50の指導者』

チャールズ・フィリップス/著、月谷真紀/訳 原書房 2016年発行

カール・マルクス より平等な世界をめざして不断の努力を重ねた社会改革者 より

歴史家で経済学者だったカール・マルクスは、共産主義の網領的文書と考えられている『共産党宣言』の共著者であり、また、現代経済学と資本主義制度について論述し多大な影響力をもった『資本論』の著者である。この2冊の著作で彼が打ち出した革新的な思想が20世紀の世界を方向づけた。

マルクスはよりよき社会をめざす戦いのリーダーだった。1871年5月30日、ドイツ生まれのジャーナリストで革命家でもあった彼は、制圧されたばかりのパリ・コミューンに捧げる感動的な哀悼文を発表した。「歴史のなかにあの偉業にならぶ例はほかにない。(中略)パリ・コミューンの殉教者たちは、労働階級のおおいなる心のなかに永遠に祀られるのだ」。パリ・コミューン普仏戦争中の1870年、ナポレオン3世の敗北を受け、フランス政府に対して起きた反乱だった。パリ・コミューンの革命家たち――コミュナール――は自治体を形成したが、5月下旬の「血の一週間」の先頭で政府軍によって制圧された。マルクスの友人であ共著者のフリードリヒ・エンゲルスは、コミューンは「プロレタリアート独裁」の史上初の例であると宣言した。
急進的な理論家だったマルクスエンゲルスは、1843年にパリで出会った。5年後、ふたりは後世に大きな影響をおよぼすことになる『共産党宣言』を共同執筆する。この宣言で彼らは、歴史は階級闘争の連続であり、現在の資本主義体制派プロレタリアート――賃金とひきかえに労働力を売る、産業社会の労働者たち――が支配する社会にとって代わられる運命にあると主張した。宣言は心を奮いたたせる言葉で蜂起をよびかけた。「プロレタリアは自分達をしばる鎖以外に失うものは何もない。彼らには勝ち取るべき世界がある。全世界の労働者よ、団結せよ」

人生を捧げつくす

第一インターナショナルが挫折に終わったのちもマルクスはロンドンにとどまり、『資本論』の執筆に邁進した。政治活動からは身を引いたが、社会主義者や労働運動のパイオニアたちが指導を仰ぐ中心人物でありつづけた。1879年には創立されたばかりのフランス社会主義労働者党のリーダー、ジュール・ゲードがロンドンを訪れてマルクスと会談し、党の網領について需要な助言を受けている。
晩年は健康状態が悪化し、それにともなって創作意欲もおとろえた。ロンドン時代には、第一インターナショナルで指導的役割を果たした前も後も、彼と家族は財政難にあえいだ。マルクスは着手していた著作に専念したが、それはお金にはならなかった。唯一の収入源は「ニューヨーク・トリビューン」のロンドン突破員としての稼ぎと、経済的に余裕のあったエンゲルスからの援助がほとんどだった。家族の食事はパンとジャガイモ程度しかないことが多く狭い住居に身をよせあって暮らし、つねに借金とりに追われた。マルクスの妻イェニーは一度ならず倒れ、こうした生活難もあって7人の子どもたちのうち成人できたのは3人だけだった。
1883年1月11日、成人した子どものひとり、イェニー・ロンゲに先立たれるとマルクスは悲しみにうちひしがれた。1881年12月2日の妻の死に追い打ちをかけた不孝だった。マルクスも1883年3月14日に世を去った。

情熱をそそぐエネルギー より

マルクスは変革――資本主義社会の打倒とプロレタリアートの解放――をもたらすための仕事に精力的に取り組んだ。ジャーナリストとして、戦いをよびかけるパンフレットの著者として、第一インターナショナルのような組織の委員会で、そして『資本論』で資本主義の仕組みを解明し解説しようとする情熱において、マルクスは経済的苦境のなかにあってとてつもないエネルギーと献身ぶりを見せた。このエネルギーこそ、絶望してもおかしくない時間をリーダーにのりこえさせるものであり、リーダーシップの大事な条件である。マルクスのように、思想家、コミュニケーターとしての才能を最大の強みとしながらも、無関心や反対にあって戦わねばならないリーダーにとっては、とくに必要な資質である。

じじぃの「長寿のホルモン・高齢者の認知機能を予防するテストステロン!夕刊フジ」

Erection

夕刊フジ』 2019年12月4日発行

長寿のホルモン 脳梗塞心筋梗塞、がん、認知症リスク減

男を上げる! テストステロン活用術 メンズヘルスの第一人者 堀江重郎医師が教える より

中高年以降の男性が活力あふれる生活を送る上で、男性ホルモンの代表格「テストステロン」の値を高く維持することは重要だ。
今回はこのテストステロンが、具体的にどのような形で”男の人生”に深く関与しているのかを検証したい。
前回までのこの欄で、テストステロンが「男らしさ」をつかさどっているだけでなく、「やさしさ」や「公平性」「協調性」など、社会人として必要な要素と密接に関係していることを紹介してきた。
しかしこのホルモンの働きはそれだけにとどまらない。じつは「寿命の長さ」とも関係があることが世界的な研究データから明らかになってきているのだ。
世界の様々な地域で長期的な健康調査が盛んに行われているが、テストステロン値の最も高いグループの人は、最も低いグループの人と比較して、脳梗塞心筋梗塞など血管系の重大疾患にかかる割合が5割低く、またがんにかかる割合も3割低いことが分かったのだ。
こうした重大疾患にかかる確率が下がれば、当然寿命も延びる。その意味で、テストステロンは「長寿のホルモン」と言えるのだ。
それだけではない。2011年にアメリカ内分泌学会で発表された学術論文は画期的だ。テストステロンが脳の老化のブレーキ役になっている可能性を示唆しているのだ。
閉経後の女性にテストステロンを投与すると、記憶力が有意差をもって向上したという。しかも、正常な脳の人だけでなく、認知機能が低下している人においても、「悪化の度合いが低下した」という。早い話が「認知機能」への効果が期待できることになる。
     ・
ここまで読んだ人は自分のテストステロン値が高いのか低いのかが気になってきたことだろう。正確な数値は、血液検査や、この連載の最終回で触れる「唾液検査」で調べることができるが、そこまでしなくても、おおまかな判断方法があるので紹介しておきたい。それは「手の指の長さ」だ。

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どうでもいい、じじぃの日記。
テストステロン・・・「陰毛が生える」、「声変わりが起こる」、「睾丸や陰茎が発育する」など、男性の思春期で多く分泌される男性ホルモンのこと。
「それだけではない。2011年にアメリカ内分泌学会で発表された学術論文は画期的だ。テストステロンが脳の老化のブレーキ役になっている可能性を示唆しているのだ」
テストステロン値が高いのか低いのかは、「手の指の長さ」で分かるそうだ。
指の骨にはテストステロン受容体があり、薬指にはその受容体が多く、人差し指と薬指の長さの比較でこの差が大きいほどテストステロン値が高い、のだそうだ。
いまさらねえ。

じじぃの「歴史・思想_87_世界史を変えた指導者・エイブラハム・リンカーン」

Lincoln's Gettysburg Address

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BvA0J_2ZpIQ

Lincoln's Gettysburg Address

Gettysburg Address - Wikipedia

  Four score and seven years ago our fathers brought forth on this continent, a new nation, conceived in Liberty, and dedicated to the proposition that all men are created equal.
  Now we are engaged in a great civil war, testing whether that nation, or any nation so conceived and so dedicated, can long endure. We are met on a great battle-field of that war. We have come to dedicate a portion of that field, as a final resting place for those who here gave their lives that that nation might live. It is altogether fitting and proper that we should do this.
  But, in a larger sense, we can not dedicate-we can not consecrate-we can not hallow-this ground. The brave men, living and dead, who struggled here, have consecrated it, far above our poor power to add or detract. The world will little note, nor long remember what we say here, but it can never forget what they did here. It is for us the living, rather, to be dedicated here to the unfinished work which they who fought here have thus far so nobly advanced. It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us-that from these honored dead we take increased devotion to that cause for which they gave the last full measure of devotion-that we here highly resolve that these dead shall not have died in vain-that this nation, under God, shall have a new birth of freedom-and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.

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『図説 世界史を変えた50の指導者』

チャールズ・フィリップス/著、月谷真紀/訳 原書房 2016年発行

エイブラハム・リンカーン 戦時の偉大なリーダーにして奴隷制度廃止論者、市民の自由につくした より

エイブラハム・リンカーン大統領はアメリカの奴隷制を廃止し、南北戦争という国家的危機の時代にアメリカのリーダーをつとめた。その影響力は不朽である。

1863年1月1日、リンカーン大統領は奴隷解放宣言を布告した。これにより、連邦から脱退していた南部連合の諸州の奴隷が解放された。この法律は、のちにくわえられたアメリカ合衆国憲法修正第13条とともに、アメリカの奴隷制の終焉をもたらした。信念をもちながらも現実的なリーダーだったリンカーンは、「偉大なる解放者」とよばれている。
奴隷解放宣言は当初、戦時措置だった。南部連合の南部州と合衆国側の北部州のあいだで起こった南北戦争は、1861年4月に勃発した。開戦のきっかけは、奴隷制反対派として1860年に出馬したリンカーンが大統領に就任したことにより、奴隷制の上に成り立っていた自分たちの生活がおびやかされるのではないかと懸念した南部州が合衆国を脱退したことだった。
当初、北部州の最大の戦争目的は南部州の脱退をとり消させ、合衆国を維持することだった。奴隷解放宣言はおおむね象徴的な布告だったといってよく、南部連合支配地域の奴隷のみを解放するものだった。しかしこれによって合衆国の士気はおおいの上がり、ヨーロッパでも合衆国の大義への支持を広く集めた。この布告により、合衆国側の戦争目的が、合衆国の維持にくわえて奴隷解放であることが明確になったのである。
その後リンカーンは「この巨大な悪」である奴隷制を「廃止し永久に禁ずる」アメリカ合衆国憲法修正第13条を掲げ、1864年の大統領線に再出馬した。選挙戦で勝利したことを修正案の実現を託されたのだととらえ、定評ある政治手腕と交渉力を駆使して、議会で法案成立に必要な3分の2支持をとりつけた。

ほんとうの心情を言葉で伝える

リンカーンの有名なゲティスバーグの演説は、南北戦争が合衆国を維持し、万人の平等を推進する新たな自由を生み出すための戦いであると位置づけた。この演説が行われたのは1863年7月1日から3日にかけてのゲティスバーグの戦い(南北戦争で最多の犠牲者を出した)で戦死した合衆国軍の兵士たちの追悼式でのことだった。リンカーンは力強い言葉でアメリカの成り立ちをふりかえり、より明るい未来を展望した。
  87年前、われわれの父たちはこの大陸に、、自由と理念のもと、万人は平等に創られているという命題に捧げられた新たな国家を建設しました。いま、われわれは大規模な内戦を戦っています。この国が、いや、自由と平等の理念にもとづいて建国された国が、持続するのかどうかが試されています。(中略)ここに眠る死者たちの死をけっしてむだにはしない。神の名のもとに作られたこの国が新たな自由の誕生を実現することを、そして人民の、人民による、人民のための政府を地上から消滅させないことを、ここにいるわれわれは固く決意しましょう。
リンカーンはコミュニケーション能力がすばぬけてすぐれていた。ゲティスバーグ演説は多くの歴史家から、かの雄弁家の代表、アテネの政治家ペリクレスの戦死者追悼演説になぞらえてきた。リンカーンのもっとも重要な特質のひとつは、聞く者を納得させる力だった。「オネスト(実直者)・エイブ」として知られ、聞く者にほんとうの心情を言葉で伝える能力があった。

ユーモアのセンス より

エイブラハム・リンカーンは当時の公人としては非常にめずらしく、ジョークを飛ばしたり笑い話を披露したりするのが好きだった。それが息抜きになっていた。閣僚が感心しない顔をすると、彼はこう言ったという。「なぜ諸君は笑わないのかね? 日夜おそろしい重圧がかかっているのだ。笑わなければわたしは死んでいるよ。わたしと同じくらい君たちにもこの薬は必要だ」。リンカーンは自分を笑いとばすこともできる人だった。
1858年にイリノイ州議会の民主党候補ステーヴン・ダグラスと論争中、相手からふたつの顔を使い分けていると非難されると、リンカーンはこう答えたという。「もしわたしに顔がふたつあったら、こっちの顔を人前にさらしますかね?」

じじぃの「夜中に窓を開けそっと楽しむ・クリスマスツリーイルミネーション!理系の疑問」

TOKYO【Christmas Lights】Yebisu Garden Place 2019. 恵比寿ガーデンプレイス #4k

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JgQM_1x8GmU

Christmas Lights

メリークリスマス@バイメタルイルミネーション

2017-12-24  LogBook
イルミネーションが点滅する仕組みは、この頭が赤い「バイメタル」式フィラメント電球にあります。
システムとしては、14個の電球と、1個のバイメタル内蔵電球とが直列に接続され、AC100Vに直結されています。バイメタル、すなわち2枚の金属の熱膨張率の違いを利用し、電球が点灯し、バイメタルが暖まると接点が反ってOFFになり、冷えると元に戻って再度電流が流れるという、とっても物理的というか、原始的なもの。
https://blog.goo.ne.jp/jh0hyx/e/2710b8e74a36e94051363b4105cdf1bf

『理系の素朴な大疑問』

博学こだわり倶楽部/編 KAWADE夢文庫 2019年発行

クリスマスツリーの電球が点滅するしくみとは? より

クリスマスツリーの電球は、べつに自分でスイッチをつけたり消したりしなくても、自動的についたり消えたりする。ふつうの電球ではあり得ない。よくよく考えれば不思議な光景である。
クリスマスツリーの電球は、たくさんの電球が数珠つなぎに1列に並んでいる(直列回路)。そのため、どれかひとつの電球をゆるめれば、そこで電流が途切れてしまうため、すべての電球が消えてしまう。
つまり、自動的についたり消えたりする電球がひとつあれば、全部の電球がいっせいについたり消えたりするわけだ。
クリスマスツリーの電球をよく見てみると、ひとつだけほかの電球とは違う電球があるはずだ。
それが、すべての電球をつけたり消したりするスイッチの役割をする電球で、回路にバイメタルという金属板が使われている。
バイメタルは、熱で温められると反り返る性質がある。電球がつくとフィラメントが温まり、その熱でバイメタルが反ることで回路が切れ、電球が消える。
しばらくすると、フィラメントがまた冷えるため、バイメタルは元に戻り回路がつながり、電球がつく。この繰り返しが、クリスマスツリーの電球では起こっているのだ。

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どうでもいい、じじぃの日記。
今日は12月4日。
先週から又、お隣さんの庭でクリスマスツリーの電球が点滅し始めました。
夜中、トイレに行ったついでにそっと窓を開け眺めて楽しんでいます。
ただ、それだけのことです。

じじぃの「歴史・思想_86_中東の世界史・イスラム原理主義」

Iran-Israel conflict escalates - BBC Newsnight

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZEGiaYYo7Nc

『「中東」の世界史 西洋の衝撃から紛争・テロの時代まで』

臼杵陽/著 作品社 2018年発行

原理主義」と宗教復興 より

中東そのものが根本から変化しているのではないかという指摘は、世界史の教科書にも記されている。「イスラーム的な理想の社会をつくろうするイスラーム原理主義が、イラン革命を契機にさかんになり、民衆の幅広い支持を得て、社会改革の夢を与えることになった。彼らはイスラーム政権の樹立をうったえたが、一部の過激な組織はテロ行為をくりかえし、強く批判されている」。
この教科書(東京書籍)では「イスラーム復興運動」に関して次のような注を付している。「1970年代には合衆国で、学校教育では、進化論ではなく神が天地万物を創造し、人類の祖であるアダムをつくったことを教えるべきだとする「キリスト教原理主義(ファンダメンタルズム)」の運動がさかんになった。イスラーム復興運動を、これにちなんで「イスラーム原理主義運動」と呼ぶこともある。
英語で「ファンダメンタルズム」と言う時は、一般的にはクリスチャン・ファンダメンタルズムを指す。『ファンダメンタルズム』という冊子がその語源になっている。原理主義は元々、キリスト教徒の世界での語であり、「クリスチャン」という形容詞無しでアメリカでは通用していたのである。
キリスト教にはたくさんの宗派があるが、特にプロテスタントでは19世紀以降、聖書の起源が文献学的に厳密に分析された。旧約聖書を含め、どこから来たものかということが文献学的に明らかになっている。その結果、聖書は神の言葉ではなく人間が作ったものだとなるわけだが、神の否定に近いような議論さえ出て来ているという学問的な状況がある。当然ながら、それに対する強い反発が出て来ることになる。そのような歴史的背景の下に登場してきたのがファンダメンタルズムなのである。
しかし、1979年のイラン革命の際、アメリカ合衆国の大使館がテヘラン大学の学生に占拠され、アメリカは大使館を救出するために海兵隊を送ったが、ヘリコプターが墜落し作戦は失敗する。その後、アメリカ世論において、イスラームを信仰する者たちは狂信的な連中だというイメージが強まり、それを早速、アメリカ国内のキリスト教徒のファンダメンタリストにイメージに重ねたのである。人工妊娠中絶は罪だとしして中絶手術を行った医師を銃で撃ち殺したり、あるいは進化論は間違っているので学校で教えるべきではないと主張する「狂信的」なキリスト教ファンダメンタリストのイメージを、その形容詞を変えてイスラームに結び付けた「イスラミック・ファンダメンタルズム」という言葉が作られた。それが日本に輸入され「イスラム原理主義」という言葉がマスコミで使われ始めた。日本におけるこの言葉の起源は、アメリカにおけるキリスト教原理主義から来たものだと言っていいのである。
一部の日本の研究者は、「イスラム原理主義」という表現は、あまりにもキリスト教的影響を受け過ぎているとして、「イスラーム復興運動」という表現を使う。よ言うのも、ファンダメンタルズムは、聖書に書かれていること、つまり、神の言葉はすべて真実であり、だから一字一句替えてはならないという立場を原則的にとるが、それはイスラームにとっては当たり前のことであるからだ。コーランハディース預言者ムハンマドの言行録)はすべて神の言葉であり、変えてはならない、とされている。この「原理主義」に関する議論をイスラームに適用していくと、イスラーム教徒はすべてファンダメンタリストになってしまう。換言すれば、いわゆる同義反復(トートロジー)になってしまうので、「イスラミック・ファンダメンタルズム」などという言葉は意味がないことが分かるだろう。

アメリカ中東戦略のダブル・スタンダード より

繰り返しになるが、1979年に起きたのはイラン・イスラーム革命だけではない。ホメイニーが政権を獲得したのが2月で、アフガンにソヴィエトが軍事新興したのが年末である。さらに、アラブ・イスラエル紛争の最中、エジプトとイスラエルが手を組み、1979年3月に平和条約を結んだことで、アラブ・イスラエル紛争の構図が大きく変わってくる。この1979年に起こった諸事件が徐々に影響を与えながら、ISの登場のような政治状況を作り上げていったのである。
さらに言えば、アメリカは1979年以降、非常に苦しい両義性を帯びた背反政策を取らざるを得なくなる。つまり、一方のアフガニスタンではイスラームと手を組み、他方のイラン・イラク戦争ではイスラームを排斥するという二正面作戦を取らざるを得なくなったからだ。
     ・
これまで中東の近現代史を概観してきたが、中東はトランプ大統領の登場によってこれまでとは違った方向へと進み始めた。特に、2017年12月に同大統領が駐イスラエルアメリカ大使館をテル・アヴィヴからエルサレムに移転する決定を行ってからパレスチナ人の反発が続いている。東西統一エルサレムを首都とするイスラエルの主張を国際社会のほとんどが認めていない現状がある。EUを中心に多くの国がこの移転に強く反対している。にもかかわらず、アメリカは2018年5月14日のイスラエル建国記念日に移転を強行した。イスラエルにとって建国70周年という節目の日でもあった。この移転はトランプ大統領の「アメリカ・ファースト」政策を推進するため、アメリカ国内のユダヤ人の票やキリスト教福音派の票を見込んだ高度な政治判断であったと評価されるのである
アメリカはさらに、オバマ大統領時代の2015年に結ばれたイランとの核合意からの離脱をも表明した。アメリカの新たな中東政策によって、中東は新たな段階に入ったとも言える。
歴史的に振り返ると、中東という地域は19世紀の東方問題をはじめとして、ヨーロッパ諸列強に翻弄された。20世紀に入って第一次世界大戦を迎えると、中東のほとんどが列強の支配下に入った。第二次世界大戦後、イスラエル建国を機にパレスチナ問題を中核とするアラブ・イスラエル紛争が勃発した。そして1979年のイラン革命を端緒にイラン・イラク戦争、さらに米ソ冷戦終焉直後にイラククウェートに侵攻したため湾岸戦争が起こった。アラブ諸国の独裁体制が倒れるという「アラブの春」を経て、「イスラーム国(IS)」が登場した結果、シリア内戦が泥沼化していった、2世紀以上にわたってこの中東地域が抱え込んできた諸問題がいよいよ断末魔的な様相を呈し始めているのである。

じじぃの「石鹸ライフ・化学製品恐怖症とは?化学物質の恵みと誤解」

Kids Take Action Against Ocean Plastic | Short Film Showcase

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=hKFV9IquMXA

化学物質

化学物質とは何ですか

学研キッズネット
化学反応によって人工的に作られた物質を「化学物質」という。今、世界には約7万種類の化学物質があるといわれている。
わたしたちの生活はたくさんの化学物質にかこまれている。たとえば家の中では殺虫剤やタンスの防虫剤、トイレなどの芳香剤に大量にふくまれている。またプラスチック製品や家電製品にも揮発性有機化合物(VOC)が含まれている。洗剤や化粧品にもたくさん入っている。外に出れば農薬や除草剤、また大気の中にもさまざまな化学物質がひそんでいる。
https://kids.gakken.co.jp/kagaku/eco110/ecology0167/

『「化学物質」恵みと誤解』

ジョン エムズリー/著、渡辺正/訳 丸善株式会社 2005年発行

化学不信と化学恐怖症――その病院と治療法 より

化学産業の悪いイメージは、環境を汚し、対話能力がとぼしいせいで生まれた。いくぶんかは自業自得だといってよい。いま環境汚染は過去のものだが(農業・工業・金属工業のほうが昔からずっとひどかった!)、対話能力の乏しさは変わらない。「化学物質」はいつも非難の的だった。非難の声は大手を振って世に流れ、弁護の声はまことに弱い。だが、金の卵を産み続けるガチョウを殺してはいけない。以下、「反・化学」の戦法を分析し、防衛手段を考えよう。
飲み水や食品、空気に入っている超微量の物質を騒ぐなど、私には不思議でならない。少なくとも先進国は、国民の健康状態も寿命も、かってないレベルにある。少なくとも過去100年以上、国民の健康はどんどんよくなってきた。100年前に比べたら、水も食品も空気もはるかにきれいで安全だし、いまもきれいになり続けている。
それなのに1980~90年代のメディアは、「化学物質」の脅威を叫び続けた。いま「化学物質」とカッコ書きにしたのは、世間で使われるときの意味合いが、私の趣味に合わないからだ。たいていの人は「化学物質」を、毒性があって環境を汚すもの、あぶないものだと思っている。化学屋の私にとって「化学物質」はただ「物質」でしかないのだが、世間に広まった負のイメージが嫌いなので、ふだんはほとんど使わない。
あれほどメディアがやるからには、「化学物質」はあぶないはずだ……何か科学証拠があったにちがいない……と思う読者も多いだろう。だがたちていはノーである。よく耳にする「科学的発見」には、サイエンスの裏打ちがないものも多い。「化学物質」あれこれの危険性は、データのずさんな収集・処理・発表が生んだ幻である。

データに注意

たとえば、疾患(感染症、がん、心臓病など)の発症データと、食習慣や生活習慣をつき合わせて原因を探る疫学調査には、身近な製品や環境中の「化学物質」を主犯とみたものがたいへん多い。
データの収集と処理はそれぞれ別の営みだ。どちらじかをしくじれば、結論はそっくりゴミになってしまう。熟練の疫学者はそこによく注意するから、結論もおおむね信頼できる。しかし疫学に経験のない、あるいは浅い科学者は、エラーに気づかないまま論文を書く。そして、なにごともなければ埋もれてしまうはずだったそういう話を、活動団体などが発掘してマスコミに「発表」し、大騒ぎを起こしたりする。
ふつう活動団体は「まず結論ありき」で、何かを証明したいと願っている。たとえば「芳香剤が喘息を増やす」と信じ込んでいたとしよう。
    ・
話を短くまとめてマスコミに発表する手がある。書いたのが大学の研究者なら、たぶん、「芳香剤が喘息を!」なんて見出しの記事になる。次にその研究者は、社会的意義のきわめて大きい問題ですよという作文をして、財団だの国だのに研究助成を申請する。いまの例は極端だとしても、似たようなことは現に起きてきた。

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じじぃの日記。
化学物質とは何ですか?
化学物質は人工的に作られた物質のことで、もともと自然界にはなかった物質なので生き物に悪い影響を及ぼすものが多い。
環境と体に優しいのが、「石鹸ライフ」だそうです。
お金のないじじぃは、石鹸ライフです。

じじぃの「歴史・思想_85_中東の世界史・イラン革命・ホメイニーの思想」

How dangerous is Iran really?

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=cLt_FLPyujc

Khomeini’s legacy

『「中東」の世界史 西洋の衝撃から紛争・テロの時代まで』

臼杵陽/著 作品社 2018年発行

ホメイニーの思想――法学者による統治 より

ホメイニーは、モハンマド・レザー国王の近代化政策に反対して1963年に逮捕され、翌年国外追放の処分を受けており、イラン革命まで亡命生活を送っていた。1971年に出版した『イスラーム統治体制』は、後の、イラン革命聖典となった。
このホメイニーの著作に関して重要な点は「法学者による統治」である。アッラーに代わり法学者こそがこの世の中を統治しなければならない、というものである。ここでの「法学者」とは、西洋で言われている法律の専門家ではなく、イスラーム法学者のことである。いわゆるイスラーム法学者(ウラマーあるいはファキーフ)である。イスラーム法学者のトップはホメイニーであり、「アーヤトッラー」(「神の微」という意味)という呼び方で、自らを権威化していった。以下、ヒエラルキーができる。
シーア派は、法学者による統治という考え方が前面に押し出された時に、その位階が重要になる。キリスト教カトリック構造(トップの教皇以下、ランクによって神に近い存在かどうかがきまる)と非常によく似ている。カトリックの中からはプロテスタント運動が出てきたがイスラームの中における「プロテスタント」的運動も、シーア派の方に多い。アメリカ等を拠点とするシーア派の人々がイスラームプロテスタントというかたちで新しい神学を創り上げている。スンナ派の場合は武装闘争を伴って過激になっていくが、シーア派の場合、キリスト教徒と同じような動きが起こっているのである。
何度も言うように、イランの「イスラーム革命の輸出」というスタンスが、イスラーム世界の中で、「イランは脅威である」という言説が出てきて、イラン・イラク戦争を引き起こすことになった大きな原因となった。革命政権はそのようには言いながらも建て前と本音があり、革命の最前線のイランが潰れると元も子もないということで、国内の民族的少数派による分離主義的な動きや自治要求には厳しい態度をとったのである。具体的には、イラン北西部に住んでいたトルコ系民族のアゼリー人が分離して隣のアゼルバイジャンと一緒になろうとしたことに対して、ホメイニーは徹底的に潰すという行動に出た。あるいは、イラクの国境付近に住むシーア派のアラブ人、つまりペルシャ語ではなくアラビア語を話す人々がイラクと一緒になりたいと訴えた際も、それを拒絶した。スンナ派クルド人の分離独立も認めなかったのである。イラン内の少数派の人々が分離独立をしようとすると潰す。このような厳しい姿勢でイランという国家の枠を維持した。イランは多民族国家であり、それをとにかくイスラームの名の下に包摂するというやり方をしているのである。

イラン革命は何を変えたのか? より

イラン・イスラーム革命の影響を考えていくと、現在につながる問題が、革命の中に萌芽的に出ていたことが分かる。最も顕著なことは、フランス革命以降、ヨーロッパに広がっていった「国民」という世俗的な概念、それに基づいた「国民国家」(nation-state)という政治制度を抜本的に否定したことである。国民国家に代わって、宗教に基づく国家を作るべきだというのである。
社会学マックス・ヴェーバー(1864-1920年)は、近代になって「脱魔術化」が起こったと唱えた。すなわち、神の存在を否定し、世俗的になっていった。世俗化の波は、18世紀に生まれた啓蒙主義が神に対する人間の優位を逆転的に唱えたことから始まり、フランス革命につながっていった。人間の理性を重んじ、人間が現世の主人公であるという考え方である。その考え方が浸透していく過程が近代である、とヴェーバーは論じた。
1980年以降、宗教の復興が活発に議論されるようになった。宗教復興とは、世俗化/近代化への懐疑である。宗教が公的な場から排斥されていくと、それに対し反発が生じる。世俗化が行き過ぎた時、一人ひとりの個人の内面でむしろ逆に宗教への回帰が始まる。それが公的制度である国家の動きとして出てきたのが、イラン革命だったということになる。