じじぃの「人の生きざま_787_モンキー・パンチ(漫画家)」

Lupin the Third '78 Opening Theme

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0ZO8ig6GjJw

ルパン三世』のモンキー・パンチさん死去 ルパン“本家”のフランス「大きな損失」

2019年04月20日 ニフティニュース
モンキー・パンチさん死去、海外でも速報
人気アニメ「ルパン三世」の原作者で漫画家のモンキー・パンチ(本名・加藤一彦)さんが、11日午後7時26分、肺炎のため死去していたことが分かった。
ルパン三世は海外でも高い人気がある。米ニューズウィーク誌(電子版)は、モンキー・パンチさんの訃報を伝えながら、「ルパン三世は2000年代初めに米国のアニメ文化を築いた」と紹介した。“本家”怪盗ルパンの母国フランスでもメディアが「漫画界の大きな損失」と報じた。またイタリア、英国、香港、台湾などのメディアも次々に速報した。
https://news.nifty.com/article/entame/etc/12273-250839/

金曜ロードSHOW!:劇場版第1作「ルパン三世 ルパンVS複製人間」を急きょ放送 モンキー・パンチさん追悼

2019年04月19日 MANTANWEB
19日の「金曜ロードSHOW!」(日本テレビ系、午後9時放送)は、肺炎のため死去した「ルパン三世」の生みの親モンキー・パンチ(本名・加藤一彦)さん(享年81)の訃報を受けて、「ルパン三世」の劇場版第1作「ルパン三世 ルパンVS複製人間(クローン)」を急きょ放送する。永遠の命を与えるという「賢者の石」を巡り、史上最強の敵マモーとルパンの死闘が描かれる
ルパン三世が処刑された。信じることができない銭形の前に、ルパンが現れ、空に飛び去っていった。次元や五ェ門と共にエジプトに出没したルパンは、銭形の目の前で、ピラミッドに隠されていた「賢者の石」を盗み出していく。「賢者の石」をルパンにねだった不二子は謎の男・マモーと共に何かを企んでいた……という展開
https://mantan-web.jp/article/20190418dog00m200032000c.html

『本当は怖すぎる名作アニメ・マンガの裏知識』

鉄人社編集部 鉄人社 2015年発行

ルパン三世は銭形警部のしかけた爆弾で爆死する より

ルパン三世」といえば、ルパンファミリーと銭形警部がくり広げる永遠の追いかけっこが魅力の1つだが、実は過去に明確な最終回が描かれたことがある。
1977年に連載された、「新ルパン三世」第189話「完結編」。すごいお宝があると聞いて、海に浮かぶ孤島へ飛びこんだルパンたちだったが、実は、そこは銭形警部が作り上げたニセの島だった。
しかも、ほうぼうの岩には爆薬がしかけられ、いつ島ごと吹き飛んでもおかしくない。いつもなら、ルパンの機転でピンチを乗り切るところだが、なぜか今回に限っては、「俺たちは死刑囚さ」とだけつぶやき、はやばやと脱出をあきらめてしまう。
ほどなく出口もふさがれてしまい、ルパンたちは完全に監禁状態に。それを船から確認すると、おもむろに銭形警部が起爆スイッチを押し、ルパン、次元、五ェ門、不二子の4人は島もろとも吹き飛んでしまう。
なんとも唐突なラストだが、巻末のおまけマンガによれば、作者のモンキー・パンチ氏は、当時ルパンを描くことにウンザリしていたとのこと。その精神状態が、こんなトンデモない最終回に結びついたのかもしれない。

じじぃの「中国の海洋進出・中国の野望は鄭和を知ると見えてくる?数学の歴史物語」

Die Drachenflotte des Admirals Zheng He - Gigant der Meere - Teil 1

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6glfu7qcaC0

Zheng He's flagship

河野太郎外相、習近平主席の「米中で太平洋二分」発言に不快感「中国は太平洋と接していない」

2017.11.10 産経ニュース
河野太郎外相は10日、中国の習近平国家主席が9日のトランプ米大統領との共同記者発表で「太平洋には中国と米国を受け入れる十分な空間がある」と発言したことについて「中国は太平洋と接していない」と不快感を示した。
https://www.sankei.com/politics/news/171110/plt1711100036-n1.html

海禁 コトバンク より

中国、明・清時代の中国人の海外渡航と貿易を禁止制限する政策。海禁とは下海通蕃 (出海し外国に通交すること) の禁の意味。
明では元末から倭寇、海寇の防止策として、洪武4 (1371) 年以来この政策が堅持され、海外諸国には朝貢貿易のみを許していた。しかし中期に禁令がゆるみ、中国人の密船、密貿易が盛んとなり、これを取締ろうとしてかえって嘉靖 (1522~66) の大倭寇を招く結果となり、ついに隆慶1 (67) 年に海禁を解き、海外渡航の緩和策がとられた。
清では南明の勢力、特に台湾の鄭氏の活動を押えるため遷界令を出し、海禁は厳重であったが、その平定後に緩和され (84) 、次いで乾隆 22 (1757) 年には再び貿易は広州1港のみに限定して、閉関 (鎖国) 政策がとられた。アヘン戦争の結果、この政策はついに放棄された。

                          • -

中国の海洋進出問題を鄭和の大航海の史実から考える

2016年06月27日 ハフポスト
中国の海洋進出問題は深刻さを増す一方である。沖縄県尖閣諸島周辺の接続水域に初めて中国の軍艦が入った際の衝撃は、記憶に新しいところだろう。
ところで、中国の海洋進出は、中国ではしばしば明朝時代の鄭和の大航海の再来になぞらえられている。鄭和は大艦隊を率いて計七回にわたって遠征を行なった。南シナ海からマレー海峡を経てインド洋にまで至ったが、その間、沿岸の様々な諸国に寄港し、最終的には中近東やアフリカ東岸の諸国にまで赴いた。中国では7月11日が「航海の日」と定められている。その日は鄭和の記念すべき第一回目の大航海の出発日とされている。
https://www.huffingtonpost.jp/tetsuo-shibata/china-maritime-advance_b_10693918.html

『数学の歴史物語 古代エジプトから現代まで』

ジョニー・ボール/著、水谷淳/訳 SBクリエイティブ 2018年発行

鄭和とは何者か より

1405年、中国の永楽帝の命を受けて、宦官の鄭和が「西方へ下った」。奇妙な言い回しで、現在の私たちなら「南へ下った」と表現したいところだ。しかし中国の地図では、日が昇る東方が世界のいちばん上で西方がいちばん下だったため、彼らにとって「西方へ下る」というのは普通の表現だった。
鄭和は、計7回行われる探検の1回目で、数々の新たな国や地方を発見し、交易をおこなった。中国人が造船技術に大きな自信を持っていたのは間違いない。この航海の向けて葉、およそ300隻からなる巨大な艦隊が編成された。その中には、およそ135m、幅40m、排水量1,500トンの大型船も62隻含まれていた。船体内部は水を通さない隔壁で13の区画に分かられており、中には荒れた海で先頭と最後尾の区画が浸水してもびくともしない船まであった。
艦隊全体でおよそ37,000人の男女が乗り込み、南シナ海を通ってインド洋まで航海した。水だけを積んでいる船、家畜や米と野菜を積んでいる船もあり、陸上の都市さながら、必要なものはすべて揃っていた。
    ・
1421年の第6次の航海がおそらく最大規模で、4つの船団がそれぞれ新天地を探した。うち1つは船団がオーストラリアにたどり着いたのはほぼ間違いない。またジョーゼフ・ニーダムが集めた証拠によると、太平洋を越えて現在の南アメリカのペルーを訪れた船団もあったという。土着のペルー人がこの頃から使いはじめた、ヒスイや太鼓、楽器やゲーム、龍の飾り模様が、いずれも中国の品物に驚くほど似ているという証拠もあり、この説がさらに裏付けられる。
巨大な第6次艦隊の一部は、グリーンランド沖までたどり着いていたかもしれない。そのおよそ60年後にその地を訪れた若きクリストファー・コロンブスが、中国人が訪れていた証拠を見たと主張している。
    ・
イギリス人の元潜水艦長ギャヴィン・メンジーズは、世界中の海流に関する豊富な知識に基づいて、初期の中国人の航海に関するいくつかの説を示している。その著作にはアフリカが描かれた中国の地図が掲載されているが、北西部の膨らみが実際よりもかなり小さい。
しかし、アフリカ沿岸を北上してからその膨らみの南岸を西へ向かう強い海流を乗ったとしたら、航行速度を見誤って、そのために地図上に膨らみを小さく描いたとも考えられる。何しろ、2,000年前のハンノやポルトガル人は、その反対方向へ進むのに難儀し、結局はその強い海流に押し返されて戻らざるをえなかったのだから。
1431年、財宝艦隊の最期の航海で、317隻の船と27,000の人員が出航した。その翌年には、別の中国使節一行が陸路を進み、地中海の商業の中心地ヴェネツィアで貿易の可能性について話し合っている。

しかし帰国してみると、鎖国政策を進めていた新たな明の皇帝が以後の海洋探検をいっさい禁じ、巨大な船は放置されて朽ち果てていった。

                          • -

どうでもいい、じじぃの日記。
「1421年の第6次の航海がおそらく最大規模で、4つの船団がそれぞれ新天地を探した。うち1つは船団がオーストラリアにたどり着いたのはほぼ間違いない」
鄭和の艦隊がオーストラリアまでたどり着いていたというのは驚きです。
その後、明の皇帝が「海禁」政策をとった。
その理由は「倭寇」に対する海賊対策にあったという説があります。
今も昔も、中国の海洋進出を阻んでいるのは日本なんですね。
ほんとかな。

じじぃの「科学・芸術_812_骨髄移植・急性白血病」

池江璃花子 回復目指し転院…白血病名医で知られる有名病院へ

2019/04/09 女性自身
2月12日に白血病であることを告白した競泳・池江璃花子選手(18)。
闘病の日々を送る彼女だが、自身のSNSは1ヵ月更新がストップ。彼女の病状を心配する声が相次いでいる。
つらい闘病生活のなか、池江選手は前を向き続けている。3月13日に更新したツイッターでは次のように決意表明していた。
東京オリンピックまで499日 1日遅れちゃった まだまだ諦めないぞー!!》
奇跡の復活を目指して、彼女の闘病は続く――。
https://jisin.jp/sport/1726828/

『医の希望』

齋藤英彦/著 岩波新書 2019年発行

社会と共生し、希望を与える医療 より

骨髄移植は臓器移植と対照的に、多くの人びとの努力が積み重ねって、日本で着実に普及してきました。いまや、社会と共生する医療システムになっています。
骨髄移植はまず1970年代の初めに、アメリカのシアトルにいたエドワード・ドナル・トーマス博士が確立しました。日本では、少しあとの1970年代半ばに名古屋大学と金沢大学で始まりました。1975年に血縁者間の骨髄移植が行われ、1982年には骨髄移植に健康保険が適用されました。その同じ年に、日本で最初の非血縁者間の骨髄移植が名古屋大学で行われました。
そのころから、自分の子どもが白血病になったお母さんたちが子どものため、ヒト白血球抗原(HLA)が適合した骨髄提供者(ドナー)を集めようとして、友だちや知人に呼び掛けて「〇〇ちゃんを救う会」が全国でできました。
     ・
骨髄移植の対象疾患は急性白血病や重症再生不良性貧血、骨髄異形成症候群、悪性リンパ腫、多発性骨髄腫、先天性代謝異常症などです。いまや、これら血液の重い病気の患者にとって、命を救う可能性のある治療法の選択肢になっています。患者は毎年、約2300人が骨髄移植を希望して登録します。そのうち、1200~1300人が移植に至ります。
造血幹細胞移植には、ドナーとレシピエントのHLAの型を合わせる必要があります。
血縁者間でHLA適合ドナーが見つからない患者は、約7割います。非血縁者間で適合することは非常にまれということで、社会システムとして骨髄バンク、さい帯血バンクができました。骨髄バンクのドナー登録者は徐々に増えて、48万人を超えています。
日本人のHLAは似ており、現在は少なくとも日本人の96%の患者に、HLAが適合するドナーは見つかります。ところがいろいろな人種がいるアメリカだと、多分その10倍くらい登録者がいないとだめなのです。アメリカの骨髄バンクドナー登録者は800万人を超えています。そのため日本では、アメリカよりも骨髄バンクは小規模で機能します。
問題は、骨髄移植にまでたどり着く患者の割合が、適合するドナーの見つかった人の5割にとどまっていることです。理由は、非血縁者間の移植医療はあくまでも、善意で自主的に提供していただくもので、強制はできないからです。
患者が移植を希望する時期に1人でも多くの移植の機会が得られるように、日赤にあるコンピュータでHLAが合うドナー候補を探します。毎年、移植を希望する患者2300人に対して2万数千人のドナーが適合します。ここから骨髄バンクの仲介業務(コーディネーション)が始まります。
     ・
日本の骨髄バンクはドナー登録者が増えて、数としては成熟してきました。しかし、骨髄移植の数は2009年から、月約100例、年間1200~1300件で横ばいです。その理由は、さい帯血移植が出てきたのと、HLAが半分合ったハプロ移植(両親やきょうだいからの移植)の技術が進むことで成績が上がってきたからです。症状が急激に進み、骨髄バンクで4ヵ月待てない場合は、親子間のハプロ移植に切り替えていきます。
さらに、白血病の新薬が出てきました。昔は移植でしか助からなかった慢性骨髄白血病は治療薬のグリベックが登場して、移植が必要なくなりました。これも移植数の横ばいの一因になっています。
HLAが適合したドナーから、必要な患者に移植するまでかかる期間をコーディネーション期間と呼びます。これを短くするのが長年の課題です。骨髄移植の最終ドナーが決まってから、病院で移植できるまで70日以上かかります。また、骨髄移植チームのマンパワーは地域差があります。東北や北海道では、血液内科医が少なく、骨髄採取の際の全身麻酔に必要な麻酔科医も少ないのです。
ドナーの骨髄採取の安全性は、常に最優先しています。

じじぃの「アマゾンが世界を制覇する日・ポストGAFAは?2019年予測」

GAFA包囲網!? 経産省が巨大IT企業に規制案(18/11/06)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=w5uPPfPVFlA

アメリカを読む】GAFA包囲網 米巨大ITのデータ独占に不信感

2019.1.2 産経ニュース
「ネット界の革新者」として君臨する米IT企業に厳しい目が注がれている。グーグルやアマゾンなどの頭文字から「GAFA」と呼ばれる4社は、優れたサービスで利用者を拡大。
蓄積した検索や買い物履歴のデータなどを活用して高収益をあげてきた。だが最近の個人情報流出や不透明なデータ利用方法をめぐり、「新規立法による規制が必要だ」と米議会や大手メディアが批判。2019年は4社への包囲網が一段と狭まるシナリオが濃厚だ。
https://www.sankei.com/premium/news/190102/prm1901020001-n1.html

週刊エコノミスト 世界経済総予測2019』

2019年1/1・8号

GAFA」分割の時期到来 スコット・ギャロウェイ 米ニューヨーク大学教授 より

── GAFAの株価が下落している。成長に陰りが見え始めたのか。

4社はそれぞれ状況が異なり、ひとからげにはできない。例えば、アマゾンは電子商取引(Eコマース)で独占的な地位を築き、収益率の高いクラウド事業でもトップシェアであるのに加え、コンテンツ内製に力を入れるなどメディアとして3年後には世界最大の企業になっている可能性がある。
一方、フェイスブックは広告販売が年率25~30%成長を記録するなど強さを見せているが、GAFAの中では経営基盤が最も脆弱なうえに、個人情報流出事件で米議会から糾弾され、株価も急落している。こうしてみると、アマゾンがダントツの1位、グーグルとアップルがタイの2位、フェイスブックは最下位だ。
だが、GAFAがこのままの状態で進めば、いずれ4社ともその地位を失うだろう。

── それはなぜか。

売上高合計がドイツの国内総生産GDP)に匹敵するGAFAは、「ネット検索」「電子商取引」「ソーシャルメディア」「モバイル端末」という米国経済で最も強い分野において市場を独占している。このため、競争環境が生まれず、新興企業の資金調達を困難にしているからだ。例えば、グーグルは検索エンジンで93%のシェアを独占している。

── 「ポストGAFA」は。

まだ分からない。ただ、動画ストリーミング配信のネットフリックスは、10代の若者に支持されている点で有望だ。音楽ストリーミングのスポティファイにも可能性がある。メディア大手のディズニーは非常に優良なコンテンツを持っており、動画配信サービスでも注目だ。
こうした新興勢力がGAFAに取って代わるかもしれない。ただ、これら企業の成長を待つよりは、GAFAを分割した方が、より大きな経済的な価値が生まれるだろう。

                          • -

どうでもいい、じじぃの日記。
GAFA(ガーファ)は、GoogleAmazonFacebookAppleの4つの企業の頭文字を取った呼び名である。
Google ・・・毎日使っています。
Amazon ・・・時々、本を買っています。
Facebook・・・お友達いません。
Apple ・・・お友達いません。
ポストGAFAは?
「こうしてみると、アマゾンがダントツの1位、グーグルとアップルがタイの2位、フェイスブックは最下位だ」
何となく、アマゾン経営者ベゾスに親しみを感じています。
楽天」も頑張ってほしいです。

じじぃの「科学・芸術_811_朝鮮の聖地・白頭山」

白頭山の噴火が秒読みか… 日本や朝鮮半島全域に深厚な被害

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Dz8LhdBf3hI

白頭山(ペクトゥサン)


朝鮮半島の「聖山」白頭山に噴火兆候! 想定される規模と日本への影響

2019.4.16 Yahoo!ニュース 辺真一
北朝鮮の両江道と中国の吉林省との国境上にそびえたつ白頭山(標高2,744メートル)が噴火するかもしれない。
昨日(15日)も韓国の汝矣島の国会図書館で「目覚める白頭山噴火、どうすべきか」と題する討論会が開かれ、白頭山の頂上付近での地殻変動は深刻な噴火の兆候だと判断していた。
富士山(標高3、776メートル)が日本を象徴する山ならば、白頭山朝鮮半島の「聖山」である。また、富士山同様に白頭山も活火山、それも朝鮮半島の唯一の活火山である。
北朝鮮は2009年から計6回、咸鏡北道・吉洲郡豊渓里で地下核実験を繰り返しているが、2017年9月に実施した6回目の実験に使用された核爆弾は水爆で、爆破規模は広島に投下された核爆弾(15キロトン)の10倍もあった。白頭山は豊渓里の核実験場から130キロしか離れていない。
https://news.yahoo.co.jp/byline/pyonjiniru/20190416-00122528/

『地学ノススメ 日本列島のいまを知るために』

鎌田浩毅/著 ブルーバックス 2017年発行

巨大噴火のリスク より

わが国は地震国であるだけでなく、世界屈指の火山国でもあります。日本列島が陸地面積では世界の400分の1にしか過ぎないことは前述しましたが、その小さな国に、地球上の活火山の実に7パーセントがひしめいているのです。
噴火は人間生活に大きな影響を与える自然現象です。火山灰や溶岩流の災害を起こすだけでなく、ときには文明を滅ぼすことさえあります。
     ・
噴火災害としては、日本を取り巻く近隣諸国の火山にも危険なものがあります。北朝鮮と中国の国境にある白頭山(ペクトゥサン)は、巨大噴火を繰り返してきた活火山として火山学者の間では有名です(図.画像参照)。
標高2744メートルのこの火山は、頂上付近に天池と呼ばれる美しい火口湖があります。中国側は「長白山」と呼ばれており、十大名山の1つに数えられ、国立公園にも指定されています。周辺は温泉が湧き出る屈指の観光名所です。一方の北朝鮮では、白頭山は最初の朝鮮国をつくった王が生まれた場所とされ、さらに北朝鮮を建国した金日成国家主席がゲリラ活動の拠点とし、息子の金正日総書記の生地ともされていることから、聖なる地ともいわれています。
その白頭山が1100年前、有史以来では最大という噴火を起こしたのです。
ちなみにこの10世紀という時代は日本でも、青森・秋田県境にある十和田湖(十和田火山)が、915年に大噴火を起こしています。地層に残された火山灰をくわしく調べると、高温の火砕流が東北地方北部を埋め尽くし、焼け野原にしたことがわかりました。その約30年後の946年に、白頭山が十和田火山よりさらに大規模な噴火を起こしたのです。ただし日本と中国の噴火には関連性は認められません。
実は、世界中の噴火の歴史を調べても、このときの白頭山の噴火を上回るものは、その後には発生していません。地質学者が火山灰など地層に残された記録、すなわち「古文書」を丁寧に読み解くと、驚くべき噴火の姿が明らかになってきました。
最初に、白頭山の山頂から火柱が立ち昇り、上空25キロメートルまで火山灰を噴き上げました。それとともに、摂氏700度を超える火砕流が噴出し、火口から半径100キロメートルの地域まで流れ下りて、一帯を焼き尽くしたのです。
さらに、大量の火山噴出物が川を氾濫させ、大規模な土石流が麓を襲いました。その結果、4000平方キロメートルを超える森林が破壊されました。
山頂から大量のマグマが出た結果、火口には周囲2キロメートルの大きな凹地ができました。白頭山カルデラと呼ばれるものです。このとき噴出したマグマの量は、西暦79年に古代ローマポンペイを壊滅させたヴェスヴィオ火山のマグマの約50倍にも相当するものでした。
こうした巨大噴火が起きると例外なく、火山灰は空高く舞い上がります。アジア上空では偏西風という強いジェット気流がたえず吹いています。大量の火山灰はこの風域に突入して、西風に乗りはじめました。東方へ流された火山灰は、日本海を1000キロメートル渡って北海道と東北地方に達し、そこで5センチメートルも降り積もったのです。

じじぃの「死にゆく人・ホスピスを知っていますか?人は人を浴びて人になる」

死ぬ瞬間

ウィキペディアWikipedia) より
『死ぬ瞬間』(On Death and Dying)は医師のエリザベス・キューブラー=ロスの著書。1969年に発表され大きな話題となった。日本では川口正吉の訳で読売新聞社より1971年に刊行された。
【死の受容のプロセス】
キューブラー=ロスは200人の死にゆく患者との対話の中で以下の5つの死の受容のプロセスがあることを発見した。ただし、すべての患者が同様の経過をたどるわけではないとしている。
・否認・隔離
 自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階である。
・怒り
 なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階である。
・取引
 なんとか死なずにすむように取引をしようと試みる段階である。何かにすがろうという心理状態である。
抑うつ
 なにもできなくなる段階である。
・受容
 最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階である。

                          • -

『人は、人を浴びて人になる―心の病にかかった精神科医の人生をつないでくれた12の出会い』

夏苅郁子/著 ライフサイエンス出版 2017年発行

「医師」として生きると決めた時 より

ホスピス」を知っていますか。
末期のがんなどの病気のために余命が迫った人の痛みをコントロールしたり、精神的な支えを行う医療施設のことである。
私は医師になってしばらくして、日本で2番目にホスピスを開いた精神科医の柏木哲夫先生(現・ホスピス財団理事長)の病棟回診を、3年間見学させていたたいた。私と柏木先生とは出身大学も違い、面識も何もなかった。そんな私が、柏木先生の回診をなぜ3年間も見学できたのか? きっかけは、私が出した1通の手紙だった。
その前に当時のことを少し振り返ってみたい。
私が研修医だった頃、キュブラー・ロスというアメリカの精神科の女性医師が書いた『死ぬ瞬間――死にゆく人々との対話』(読売新聞社)という本が世界的なベストセラーになった。1970年代、終末期にあるがん患者へのインタビューをベースに、キュブラー・ロスががん患者の心理分析を記した本である。
当時の日本では、進行がんの場合は本人には病名を言わないのが暗黙の了解だった。そうした状況下でのこの本の出現に、日本中が驚いた。
     ・
死にゆく患者さんと接するとはどういうことなのか、それは大変なことだったにもかかわらず私は何の動機付けもなく、言われるままに第15病棟へ毎日通った。
今考えればとても不遜なことであり、当時のホスピスの患者さん達には本当に申し訳なかったと思っている。「お役に立とう」とも考えず、何の心構えもない私は、当然ながら患者さんにどう話かけてよいか全く分からなかった。
研究目的に私を派遣した教授は、数ヵ月たってもレポート1つ論文1つ書かない私に腹を立て「何をやっているんだ!」と怒り出した。
入院している方々は、全員が余命数ヵ月の方だった。私よりはるかに年上で、骨と皮だけのような身体を横たえ、鋭い目線で私を見返してくる。
     ・
3年間通ったホスピス、そこに本当に死が身近にある場所だった。柏木先生や介護スタッフの方と一緒に、何人もの方をお見送りした。このホスピスキリスト教の精神に基づいて建てられたものなので、病棟内には「祈りの部屋」があった。そこに入り、祈っているのは、患者さんや家族よりもスタッフの方が多かった。
その人の人生の最期の時間をより良いものにしたいと、医師も看護師もワーカーさんも懸命だった。懸命なだけに、葛藤や苦しみも多いことが伝わってきた。
ある患者さんの今後の治療についてスタッフ内で意見が合わず、担当医師が泣いている姿も見た。そのたびに、カンファレンス(会議)が開かれ、それぞれが自分の心と向き合い納得するまで話し合っていく。
「人が人を支えるということ」……それはとても重く苦しいのだということ、それでも人は続けていく強さがあり、そうした人を支えるのもまた人であることをホスピスから教わった。死はすべてを失ってしまうけれど、大きな別なものをもたらしてくれるのだと思った。死にたいする私の考え方は、大きく変わった。
死が見えてきたことで、生きていることの意味、生きていけないことの意味も少し分かってきた。私は、精神科医としてのこれからの自分を考えた。

                          • -

どうでもいい、じじぃの日記。
私は大人の発達障害だ。これまでほとんど人と交わりがなく生きてきた。
今まで生きてきて、何か人の役に立ったことはあったのだろうか。
後は死が待っているだけだ。
しかし、「ホスピス」とは関係ないけど、「ブラックホール」って不思議だなあ。

じじぃの「科学・芸術_810_朝鮮支配・歌う慰安婦」

池上彰のニュースそうだったのか!!

2019年2月9日 テレビ朝日
【ニュース解説】池上彰
●どうなる? 日韓関係
韓国の大学教授が慰安婦に関する学術本を出版し「日本帝国による強制連行はなかった」などの記述が元慰安婦たちの名誉を傷つけたとして裁判になった。
韓国の裁判所は罰金100万円の有罪判決を下している。
池上氏は韓国では世論に流された判断、判決が下されることがあると話した。
https://www.tv-asahi.co.jp/ikegami-news/backnumber/0092/

『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』

朴裕河/著 朝日新聞出版 2014年発行

<愛国>する慰安婦 より

慰安婦」の「強制連行」は、基本的には戦場と占領地に限られると考えられる。吉見教授は、インドネシアの「アンボン島で強制連行・強制使役があったことは明らか」(吉見義明 2009夏季)としているが、先に見たように、そこでの強制性を朝鮮人女性をめぐる強制性と同じものとすることはできない。彼女たちの中には貧しい生活の中で「白いごはん」を夢見たり、女の子が勉強することを極端に嫌悪していた家父長制社会の呪縛から逃れて、1人の独立的主体になろうとした人も多かった。
しかし、たとえ<自発的>に行ったように見えても、それは表面的な自発性でしかない。彼女たちをして「醜業」と呼ばれる仕事を選択させたのは、彼女たちの意志とは無関係な社会構造だった。彼女たちはただ、貧しかったり、植民地に生まれたり、家父長制の強い社会に生まれたがために、自立可能な別の仕事ができるだけの教育(文化資本)を受ける機会を得られなかった。
     ・
彼女たちは、隠れるべき穴を掘り、逃走中に爆弾を運び、包帯を洗濯もした。そしてその合間に兵士たちの性欲に応えていた。つらいあまり時に拒否しながらも、最善を尽くして日本軍の戦争を支えていたのである。そのような彼女たちの働きは、見えない抑圧構造が強制したものだった。
慰安婦」たちが兵士たちに「群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚び」たとか「実に明るく楽しそう」で、「『性的奴隷』に該当する様な影はどこにも見いだせな」(小野田寛郎 2007)いように見えたのはそういう構造によるものだ。彼女たちが商売熱心に「媚び」たり、そのために「明るく」振る舞い、「楽しそう」にもしていたとしたら、それは彼女たちなりに「国家」に尽くそうとしてのことなのである。業者の厳しい拘束と監視の中で、自分の意志では帰れないことが分かった彼女たちが、時間の経つにつれて最初の当惑と怒りと悲しみを押して積極的に行動したとしても、それを非難することは誰にもできない。

歌う慰安婦が悲惨な慰安婦と対峙するものではないように、「媚び」る笑顔も、慰安婦たちの悲惨性と対峙するわけではないのである。

彼女たちは、自分たちに与えられていた「慰安」という役割に忠実だった。彼女たちの笑みは、売春婦としての笑みというより、兵士を慰安する役割に忠実な<愛国娘>の笑みだった。たとえ「兵士や下士官を涙で騙して既定の料金以外に金をせしめているしたたかな女」(同)がいたとしても、兵士を「慰安」するために、植民地支配下の彼女たちを必要とした主体が、彼女たちを非難することはできないはずだ。そして、そのようなタフさこそが、昼は洗濯や看護を、夜は性の相手をするような過酷な重労働の生活を耐えさせたものだったろう。
植民地人として、そして<国家のために>闘っているという大義名分を持つ男たちのために尽くすべき「民間」の「女」として、彼女たちに許された誇り――自己存在の意義、承認――は「国のために働いている兵隊さんを慰めている」(木村才蔵 2007)との役割を肯定的に内面化する愛国心しかなかった。「内地はもちろん朝鮮・台湾から戦地希望者があとをたたなかった」(同)とすれば、そのような<愛国>を、ほかならぬ日本が、植民地の人にまで内面化させた結果でしかない。
慰安婦でも山中や奥地の駐屯地まで行ったのは、植民地の女性が多かったようだ。それが個人的選択の結果なのか、構造的なことなのか明確ではないが、いずれにしても彼女たちがそのような場所まで行って日本軍とともにいたことを、日本の愛国者慰安婦問題を否定する日本人の中には愛国者が多いようだ)たちが批判するのは矛盾している。朝鮮人の方がより多くの過酷な環境に置かれていたとしたら、それは植民地の女性という、階級的で民族的な二重差別によるものである。たとえ自発的な選択だったとしても、その<自発>性と<積極>性は、そのような構造的な強制性の中でのことなのである。